聖護院塔頭。聖護院の寺中東隣にある。積善院は鎌倉時代1200年頃の創建とされ、江戸時代建立の凖提堂と明治の初め合併され、積善院凖提堂とも呼ばれる。 本堂には積善院本尊、不動明王(重文)や、光格天皇勅願による凖提観音像を安置。 境内には保元の乱で讃岐に流され、配流地で墳死された崇徳天皇の霊をなぐさめ祭ったという「崇徳院地蔵」(別名・人喰い地蔵)や、聖護院の森で心中した、お俊・伝兵衛の供養塔がある。 毎年二月二十三日には秘仏五大力菩薩が一日だけ開帳され、法要が催される。 積善院は、もと栴(なぎ)ノ坊と号する。聖護院の一院家で、熊野神社の西北方にあったが、大正初年、この地にあった凖提堂と合併され、積善院凖提堂と称するようになった。 本堂には、寛政年間(1789~1801)光格天皇の勅願により、聖護院宮盈仁(えいにん)親王の開眼になる凖提観世音菩薩と、鎌倉初期のもので智証大師の作風を伝える木造不動明王像(重要文化財)を安置する。 境内西北隅には、もと聖護院の森の西北(現京大病院)の野中にあった石造の崇徳院地蔵をまつる。 東南隅には、昭和27年、豊竹山城少椽らの発起によって建てられた「お俊伝兵衛恋情塚」がある。 毎年2月23日におこなわれる五大力尊法要は参詣者で賑う。
下鴨・宝ヶ池・平安神宮
宗忠神社
黒住教の教祖黒住宗忠を祀る。 宗忠は、安永9年(1780)備前国(岡山県)の今村宮の神主の家に生まれ、文化11年(1814)の冬至の日、朝の太陽を拝しているうちに神人一体の霊感を受け、黒住教を創始した。 以後布教を重ね、嘉永3年(1850)2月25日没した。安永3年(1856)朝廷から「宗忠大明神」の神号を与えられ、文久2年(1862)門人の赤木忠春が当地にこの大明神を勧請し、建立したものである。 幕末の頃には朝廷の勅願所となり、皇室や二条家、九条家などの公家からも厚い崇敬を受けた。 現在の本殿は流造で、明治45年(1912)に改築されたものであり、また拝殿も昭和12年(1937)に改築されたものである。 本殿と並ぶ神明宮は、二条家より還したものといわれ、天照大神を祀る。 例祭は、本殿は4月、神明宮は10月に毎年とり行われる。
浄土院(大文字寺)
清泰(せいたい)山と号する浄土宗知恩院派の寺である。 この地には、もと、浄土寺と呼ばれた天台宗の寺院があったが、文明14年(1482)、東山殿(後の銀閣寺)造営に際し、相国寺(上京区)の西に移された。 当院は、その跡地に残された草堂を泰誉浄久(たいよじょうきゅう)が浄土宗の寺として復興し、浄土院と名付けたことによるといわれている。 その後、享保17年(1732)には、随誉(ずいよ)により堂宇が再建され、今日に至っている。 本堂に安置する阿弥陀如来坐像は、等身大のもので、もと浄土寺にあった遺仏といわれている。 また、当院は、通称大文字寺とも呼ばれ、毎年8月16日の大文字の送り火には、精霊送りが行われ、多くの参拝者で賑う。 ◆由緒 如意ヶ嶽(大文寺山)の送り火を管理する寺で1722年(享保7)の建立。 天台宗浄土寺が応仁の乱で焼け、跡地に足利義政が東山殿を造営、のち慈照寺(銀閣寺)となるが、これとは別に浄土寺の名を受け継ぐために塔頭の寺を統合し建立されたという。 浄土宗。本尊は「義政公の持仏なり」と「坊目誌」に記されており、寺宝の黒仏(藤原仏)は旧浄土寺本尊と伝える。 弘法大師も併せまつり、大文字送り火時に山上弘法大師前にて、歴代住職が読経する。 浄土寺門跡建立の因縁となる、浄土寺二位尼・丹後局(立像)「日本の楊貴妃」をまつる。 建立:1722(享保7)年 ただし現在の寺は昭和の初期に再建される。
八神社
子安観世音
光福寺
正しくは、干菜山(ほしなざん)斎教院安養殿光福寺と号する浄土宗知恩院派の寺院で、俗に「ほしな寺」と呼ばれている。 寺伝によれば、寛元年間(1243~47)に道空上人が西山安養谷(あんようがたに)(長岡京市)に建立した一寺(斎教院)が当寺の起りと伝え、天正10年(1582)に、月空宗心(げっくうそうしん)によって現在の地に移された。 道空は、六斎念仏を世に広めたことで知られ、その由緒をもって後柏原天皇から六斎念仏総本寺の勅号を賜った。 また、文禄2年(1593)に豊臣秀吉が、鷹狩の途次に当寺に立ち寄った時、住職宗心が干菜(ほしな)を献じたことにより、秀吉から干菜山光福寺の称号を与えられたといわれている。 本堂には、正和2年(1313)に花園天皇から賜った閉目の阿弥陀如来像を安置し、収蔵庫には、六斎念仏興起書等の諸文献や、秀吉寄進の陣太鼓及び秀吉画像等を収納している。
田中神社
祭神として大国主命(おおくにぬしのみこと)を祀る。 この付近はもと田中村と呼ばれる村があったが、その産土神(うぶすながみ)として、村民の信仰をあつめてきた神社である。 社伝によれば、弘安年間(1278~88)に祀られたものといわれ、その後、寛永5年(1628)下鴨神社の造替に際し、比良木社の旧殿を寄附せられた。 しかし、その社殿は、宝永3年(1706)の田中村の火災により、社蔵の古文書と共に焼失してしまった。 その後再建された社殿及び拝殿には、三ツ葉丸葵の紋が付けられ、昔の由緒を伝えている。 末社は四座あり、境内社の玉柳稲荷社は、明治25年に、氏子の要望によって建立されたものである。 例祭は、毎年10月23日に行われ、多くの参詣者で賑う。