東福寺の渓谷に架けれた3つの橋は、「東福寺三名橋」と呼ばれる。 上流から偃月橋・通天橋・臥雲橋。 偃月橋は、単層切妻造・桟瓦葺きの木造橋廊。1603年(慶長8年)の建築で重要文化財。「日本百名橋」の一つ。 通天橋は、仏殿・方丈から開山堂(常楽庵)に至る渓谷「洗玉澗」(せんぎょくかん)に架けられた橋廊。 1380年(天授6年)に春屋妙葩(しゅんおくみょうは:普明国師)が谷を渡る労苦から僧を救うため架けたと伝えられる。 南宋径山(きんざん)の橋を模したもので「通天」と名付けられた。 現在の通天橋は、1959年(昭和34年)に台風で倒壊した後、1961年(昭和36年)に再建されたもの。 ここからの紅葉と新緑は絶景。 黄金色に染まる三ツ葉楓は開山の聖一国師が宋から伝えた唐楓といわれている。
東山・祇園・北白川
新日吉神宮
永暦元年(1160)後白河法皇が、その御所法住寺内に比叡山東坂本の日吉山王(ひえさんのう)七社(日吉大社)を勧請されたのが当社のはじまりである。 創立当初の社地は今の市立美術大学付近の地で、その後元和元年(1615)豊国廟社の破毀とともに旧廟前に移り、さらに明治30年(1897)この地に移った。 祭神は後白河法皇の他、大山昨命(おおやまくいのみこと)など山王七柱を主神とし、相殿に素戔鳴尊(すさのおのみこと)、大年神(おおとしのかみ)を祀っている。 社殿は応仁の兵火で焼け、その後しばしば増改築が行われたが、現在の本殿は、天保6年(1835)の改造で、大きな流造(ながれづくり)である。 古くから朝廷の崇敬厚く上皇の御幸(ぎょうこう)は108度に及んだといわれ、また数多く天皇の遺物、宸筆を蔵している。 なお江戸後期の小沢蘆庵(おざわろあん)をはじめ多くの文学者の稿本など近世文学の資料を蘆庵文庫の名で宮司家が保存していることは名高い。
崇泰院
弘長2年(1262)に入滅した浄土真宗の宗祖親鸞聖人の遺骨は、鳥辺野北辺に葬られましたが門弟の協力のもと、親鸞聖人の末娘である覚信尼により吉水の北の辺に改葬し大谷廟堂を建立。 延慶2年(1309)青蓮院により覚恵の長男である覚如が継承することと裁定が下され、敗れた唯善は本堂を破壊し影像と遺骨を持って鎌倉へ逃亡しました。 その後、同年に高田の顕知上人により影像が刻まれ遺骨を安置、応長元年(1321)に奥州安積の法智上人により本堂が建立され復旧されました。 応永22年(1415)存如の長男・蓮如(幼名・布袋丸)誕生。 八世法主となった蓮如上人の精力的な布教活動により、本願寺(大谷本願寺)は急速に 勢力を拡大していくが、比叡山衆徒の反感が強くなり正月と三月の二度に渡り襲撃を受け破却(寛正の法難)。 この法難に遭うまでの約200年間「本願寺」はこの地にありました。 慶長8年(1603)に徳川家康は母(於大の方、傳通院殿)を弔いのために、浄土宗総本山知恩院の再興の大工事「知恩院慶長の恢弘」を行いました。 その時、家康の命を受けて知恩院再建普請奉行として従事していた竹村丹後守九兵衛道清により崇泰院は建立。 寺号は竹村道清のお戒名「崇泰院殿勝譽道清居士」より崇泰院となりました。 明治以降は無住となったこともあり本堂は修理できない程大破した状態となりましたが、本山より4名の再建公認役・津留眞孝、笹井教道、松村恩定、國子順戒が任命され復興し現在に至る。
大将軍神社
素戔嗚尊を主祭神とし、藤原兼家を配祀する。 794年(延暦13)平安京造営の際、桓武天皇が大内裏鎮護のために都の四方に祭祀した大将軍神社の東南方角の一つ。 特にこの地は京に入る七口の一つ、三条口の要地に当るため、邪霊の侵入を防ぐ意を以って重要視されてきた。 藤原兼家の東三条殿はこの周辺にあったが応仁の乱で荒廃、現在では当社境内に東三条社として名跡を留めている。 ◆由緒 素盞嗚尊(すさのおのみこと)を祭神とし、相殿には関白藤原兼家(かねいえ)公を祀る。 桓武天皇は、平安京造営にさいし、大内裏(だいだいり)鎮護のため四方四隅に神を祀り、四方に和魂を祀って天王ととなえ、四隅に荒魂として素盞嗚尊を祀って大将軍と称したと伝えられ、当社は東南隅の大将軍社の由緒を伝えている。 ただし、社殿はたびたびの戦火によって廃絶し、文政12年(1829)朝議大夫(ちょうぎたいふ)陸奥守千葉正胤(ちばまさたね)がここに再興した。 大将軍神社の由緒に加えて、この地は平安京三条口の交通の要地にあたり、悪神の侵入をふさぐため荒魂を奉祀することは中世以来の長い伝統をもっていたと考えられる。 境内の東三條社は東三條殿(ひがしさんじょうでん)の故地で平安中期、藤原兼家・道長らの邸宅として景勝の美をうたわれた屋敷のことである。 その故地は現在の釜座(かまんざ)三条あたりと推定されるが、この附近一帯の地名によって当社にその名跡をとどめているのである。
粟田神社
大己貴命の疫病除け御神託による創建で、‘牛頭天王’を祭った粟田口の総社だった。 のち天台宗青蓮院門跡の鎮守社に。 社殿は平安初期にできたが江戸中期から末期に本殿、拝殿とも再建。 スサノオノミコトを祭り、厄除け、旅立ち守護の神。 「粟田祭」は10月体育の日前々日・前日・体育の日・15日。 体育の日前日は祭の呼びもの剣鉾18基が飾りつけられ、「阿古陀鉾」「地蔵鉾」の2基が大燈呂とともに知恩院前の「瓜生石」前にて「れいけん」の祭りを行った後に夜渡りする。 体育の日は神幸祭で剣鉾巡行と神輿渡御。15日は例大祭。 この剣鉾は祇園祭の山鉾の原形といわれている。 ◆由緒 平安時代 清和天皇貞観18年(876)春に神祇官並びに陰陽寮より、「この年隣境に兵災ありて、秋には疫病多いに民を悩ます」と天皇に奏上されました。天皇ただちに勅を下され、五畿七道の諸神に国家と民の安全を祈願された。その際、従五位上出羽守藤原興世は勅使として感神院祇園社(今の八坂神社)に七日七晩丹精を込めて祈願された。その満願の夜、夢枕に老翁が立ち、「帝都の東祇園の東北に牛頭天王素盞嗚尊に縁の地在り。その地に我を祭れば必ず国家と民は安全なり。我は大己貴神なり。」と告げて消えられた。 興世は夢とは思わず神意なりと奏上し、勅命により奉行としてこの地に社を建ててご神霊をお祭りした。 また一説には上古、粟田氏の氏神として創建されたとも伝えられる。 ◆粟田神社 三棟 本殿・幣殿・拝殿 粟田神社は、旧粟田村の産土神である。江戸時代までは感神院新宮、あるいは牛頭天王を祭ることから粟田天王社または粟田八大王子社と呼ばれていたが、現在は素戔嗚尊ほかを祭神とする。 社伝によると、貞観十八年(876)に従五位上出羽守藤原興世が勅を奉じて勧請したことに始まり、その後天台座主東陽坊忠尋大僧正が永久年間(1113~18)に再建するが、応仁の乱で焼失し、明応9年(1500)に吉田兼倶が再興したという。 本殿・幣殿は昭和八年の棟札写から、文化2年(1805)6月に焼失後、文政6年(1823)に再建されたことが明らかとなる。建物は、三間社流造の本殿の前に桁行二間・梁行三間で正面に方一間の拝所を付設した幣殿が接続する複合社殿である。拝所の彫刻装飾には時代的特色がみられ、また流造の屋根の前に入母屋造・妻入、さらにその正面に向唐破風造の屋根を続けて変化に富んだ外観をみせており、江戸時代後期の複合社殿として価値が高い。拝殿は、確実な史料を欠くものの元禄十六年(1703)に建てられたと伝え、細部様式もこの頃のものと判断される。本殿・幣殿より建築年代は遡るものの、これらと一連のものとして貴重である
檀王法林寺
西福寺 (六道の辻)
新熊野神社(権現さん)
平安後期、熊野詣盛んな頃、後白河上皇が平清盛に命じ、熊野の神をここに勧請するため、熊野より土砂材木等を運び社域を築き社殿を造営、神域に那智の浜の青白の小石を敷き霊地熊野を再現した熊野の新宮。 創建は1160(永暦元年)境内の大樟は当時熊野より移植した後白河上皇お手植といわれている。 又当社は、日本能楽史上紀元元年といわれる1374(応安7年)観阿弥・世阿弥父子が足利三代将軍義満の面前で「猿楽」を演能した地としても著名。 現本殿は1673(寛文13年)聖護院道寛親王が再建した市指定重要文化財。 5月5日「新熊野祭」鳳輦巡行。 H26年は9月8日(仲秋の名月)「大樟祭」。 11月23日お火焚祭。 12月23日「つなかけ祭り」。 H27年は1月12日(成人の日)「左義長祭」、6月30日「茅の輪くぐり」。 なお、大樟祭・左義長祭は年によって実施日が変わります。