大徳寺

臨済宗大徳寺派の大本山で龍宝山と号する。 鎌倉時代末期の正和4年(1315)に大燈国師宗峰妙超が開創。室町時代には応仁の乱で荒廃したが、一休和尚が復興。桃山時代には豊臣秀吉が織田信長の葬儀を営み、信長の菩提をとむらうために総見院を建立併せて寺領を寄進、それを契機に戦国武将の塔頭建立が相次ぎ隆盛を極めた。 勅使門から三門、仏殿、法堂(いずれも重文)、方丈(国宝)と南北に並び、その他いわゆる七堂伽藍が完備する。千利休によって増築された三門二階部分を金毛閣と称し、利休の像を安置したことから秀吉の怒りをかい利休自決の原因となった。 本坊の方丈庭園(特別名勝・史跡)は江戸時代初期を代表する枯山水。方丈の正面に聚楽第の遺構と伝える唐門(国宝)がある。什宝には牧谿筆観音猿鶴図(国宝)、絹本着色大燈国師頂相(国宝)他墨跡多数が残されている。(10月第2日曜日公開)

等持院

山号を万年山といい、もと仁和寺の一院であったが、南北朝時代の暦応4年(興国2年・1341)に足利尊氏が夢窓国師を開山として中興し、三条高倉の等持寺の別院とした。 延文3年(正平13年・1358)尊氏の歿後この寺に葬り、その法名をとって等持院と名づけ、のち、等持寺を合併して臨済宗天竜寺派に属するようになった。 足利氏の菩提所として堂塔伽藍は衣笠山麓に威容を誇ったが、長禄年間(1457~60)以来、しばしば火災にあって荒廃し、現在の建物は江戸・文政年間(1818~30)の建立である。 方丈は、元和2年(1616)福島正則が建立した妙心寺海福院の方丈を移建したものと伝えられ、霊光殿には尊氏の念持仏といわれる利運地蔵像を安置し、左右壇上には足利各将軍と徳川家康の衣冠等身の木像を安置する。 境内には尊氏の墓と伝える高さ5尺の宝筐印塔があり、芙蓉池畔の清蓮亭茶室及び夢窓国師作庭と伝える池泉回遊式庭園などがある。 ◆由緒 暦応4年(1341)のこと、足利尊氏将軍が、天龍寺の夢窓国師にお願いして、衣笠山の南麓に創建されたのが、この等持院である。義満・義政両将軍のような金閣・銀閣で有名な人達が、全力を尽くして立派にされた禅宗十刹の筆頭寺院であり、更に、尊氏・義詮将軍当時の幕府の地の近くにあった等持寺もこちらに移されて、足利将軍家の菩提所となったものである。 応仁の乱などの戦乱に、見回れたが、豊太閤も秀頼に建て直させたほど、この寺を重んじられたのである。その後も移り変わりはあるが、等持院が皆様に、足利十五代、二百三十余年の歴史を語るだけの貴重な文化財が、今なお充分に保存されている。 ◆方丈 現在の方丈(本堂)は元和2年(1616)福島正則が妙心寺塔頭海福院から移築された古逢築で、南庭をひかえた広縁は.静かに歩むと快い鶯張りの音が心よくひびいて、一足ごとに心にしみ入るようである。方丈の襖絵は、狩野興以の作で明治維新当時一部損壊の苦難をなめ、更に等持院撮影所が等持院北町(等持院の境内)に出来、そのロケに使用されたため、かなり破損されたが近年修復され、年一回公開されている。 ◆庭園 この庭園は夢窓国師作として伝えられる三大名園の一つで、方丈の北庭は東の苑池・心字池(草書体の心の字をかたどつて作られた池庭)で幽邃であり、中ノ島には観音閣があったが、現在は礎石でその面影をしのぶことができる。半夏生(三白草)が咲く夏至の頃がこの庭の気分をよくあらわしている。一方書院から眺める西の庭は古い木立で区切られ、芙蓉の花を形どった庭園に花木をあしらい草木を配し、更に背景に衣笠山を借景にして、石組も変化に富んでいるのは、尊氏公百年忌の長録元年(1457)に復興した際、伽藍殿舎のなかに清漣亭が加えられていたことから義政好みとよばれるようになったことに由るものと思われる。また、さらに度重なる方丈の焼失が必然的に庭園の改造につながったのであろう。書院に坐して茶の香りを愛でながら眺めるこの庭を引き立てるのは、寒の頃から咲きはじめる有楽椿(侘助椿)、ついで春先に咲く馬酔木、初夏のさつき、七月頃からのくちなしの花、初秋の芙蓉の花が清漣亭の前庭として、そのはなやかさをあらわしている。 ◆清漣亭 方丈の北背、書院の東にあたる美しい林泉の西北の小高いところに茶室清漣亭がひっそりと落ちついた姿を見せ、控え目なわびしいたゝずまいを、衣笠山を背景に木立の間からのぞかせている。村田珠光や相阿弥らと茶道を興した義政好みに基づく清漣亭は、上段一畳を貴人床とする二畳台目の席で、この上段一畳に坐して眺める芙蓉池苑はまた格別である。当時、段上の背後にある櫛形の窓を開ければ、衣笠山の礪野ののびやかな姿が眺められたであろうとしのばれる。 ◆尊氏之墓 方丈北の庭の中央に尊氏の墓と伝えられる宝筐印塔がある。塔の台座は四面に立派な格狭間があり、宝瓶には蓮花を押した紋様があって、室町時代の形を示している。台座四面の正面に延文三年四月の文字がみられる。

高桐院

大徳寺塔頭。1601年(慶長6)利休七哲の一人細川忠興(三斎)の創建。 利休邸移築の書院につづく茶室松向軒は秀吉の北野大茶会に用いられたものを移したと伝える。 江戸初期につくられた庭に三斎とガラシャ夫人の墓がある。 寺宝の李唐筆「絹本墨画山水図」2幅は南宋初期山水画の名作で国宝。 ◆由緒 高桐院は細川幽斎公の長子忠興三斎公により慶長6年(1601)に建立された大徳寺塔頭の一で、開祖玉甫紹踪和尚は幽斎公の弟であった。 細川三斎公は正保2年12月2日、83才の高齢で卒去、遺言によって遺骨は高桐院に埋葬された。法名の松向寺殿三斎宗立は茶席松向軒の名として接されている。 三斎公は織田・豊臣・徳川の三時代に、一貫した精神で身を処した戦国時代切っての智将であるが、公はまた利休七哲の一人として茶道との深いえにしによって有名である。 茶道の奥義を究め、歌道をたしなみ、文武両道に秀でた哲理の人であった。 正室細川ガラシャ夫人が織田の反逆者明智光秀の息女という不利の時代も光秀にくみしなかったのは、三斎公が武人として時代を超えた明晰な洞察を持っていたゆえである。 ◆庭園 高桐院参道は表門から鍵の手に磨門を望む自体石の敷石道である。春夏の青葉・枕の紅葉を天蓋に頂く一直線の参道は幽玄の気に満ちている。客殴南庭は江戸時代初期の造園。 楓樹を主とした野趣に富む庭であるが、青葉の清列・紅葉の華麗・冬の静寂と四季折々、自然の風雅をたくまずに含めた横囲は見事というほかない。茶室鳳来の西部露路の降りつくばいには、朝鮮の王城の礎石をもちかえったという蒙壮な袈裟型の手水鉢が置かれている。 高桐院の庭園美は、四季共にさまざまな変化の美しさを特色として杖引く人の眼を歓ばせている。 ◆建造物 高桐院の建造物には客殿・書院・庫裡などがある。書院は千利休居士の邸宅を移築したもので、この書院に続いて二帖台目の名茶席松向軒がある。松向軒は寛永5年(1628)三斎公の手で建立されたもの。 清巌和尚によるその由来には、常に松声を聞き且つ趙州無舌の茶味を嗜む因って松向と名づく云々とあって、茶室に珍しい黒壁は瞑想の場の感があって、簡素な中にも幽玄の雅味をたたえた名席である。 更に高桐院客殿西北部には、八帖円能斎好みの大らかで優美な茶室鳳来がある。洗練された豊かな風雅を感じるこの茶席もまた、高桐院の伝統の一面を伝えて爽やかである。 ◆墓所 三斎公及びガラシャ夫人の墓石は、生前愛好した石灯篭をもってそれに当てた。細川家の墓所の中にこの鎌倉時代の美しい灯篭墓石は、苔を褥に静かに据わっている。 これはもと利休秘蔵の天下一の称ある灯篭であったが、豊太閤と三斎公の両雄から請われて、利休はわざと裏面三分の一を欠き、疵物と称して秀吉の請を退けた。のちに利休割腹の際、あらためて三斎公に遺贈したもので無双という銘を持ちまた別名を欠灯篭ともいう。 更に蕨手・灯口・横が欠けているのは、後日完全を忌む公自身が欠いた、という記録があり、三斎公の面影が偲ばれる逸話である。三斎公の墓石とともに当院には、清巌・大心両和尚などの墓がある。 清巌和尚は、大徳寺170世の名僧で、三斎公には少なからず影響を与えた人物である。 高桐院にはまた、歌舞伎の始祖として名高い出雲の阿国、共に名を残した名古屋山三郎や、また森鴎外の著作で有名な興津弥五右衝門などの墓もある。 静かに永眠する英雄豪傑才女の歴史をしのんで、墓所には香華の紫煙が流れている。 ◆宝物 高桐院寺賓国宝李唐筆山水図双幅は、右幅に李唐画と署名のある唯一の傑作で楊柳観音図を添える。 また重文牡丹図は銭舜挙筆の名画でこの図は我が国に伝わる牡丹図中の王座を占める大作で豊公北野大茶会に使用されたものである。 ◆高桐院開祖忌 6月8日(拝観中止)・宝物曝涼展 10月第2日曜日

護王神社

桓武天皇に遷都を進言し、平安京の都造りを推し進めた和気清麻呂(わけのきよまろ)とその姉広虫(ひろむし)を祭神とする神社。 もとは、神護寺境内にあったが、明治19年(1886)この地に移された。 広虫が慈悲深く、京中の孤児を養育したことにより子育て明神と呼ばれ、育児の神として信仰される。 拝殿の前に狛犬(こまいぬ)のかわりに猪像があるが、これは清麻呂を猪が守護したという故事にちなむ。11月1日に亥子(いのこ)祭がある。 当社は、現在に至るまで2600年以上ものあいだ保たれ続けてきた日本の皇室の血統の護持に 著しい功績を残した、歴史上に実在するところの2人の人物、すなわち和気清麻呂公主その姉君である和気広虫姫とを、神々としてお祀りするものであります。 和気清麻呂公は、護玉大明神(王の情け深い守護神)として崇められており、また和気広虫姫 は、子育明神(母と子どもの守護神)として尊崇されております。これらの神々は、およそ 120 年前にご社殿が建てられた、ここ護王神社において奉斎されておりますロ ところで、猪は護王大明神の使者として信じられており、拝殿の両脇には、守護者として猪の石像が立っています。 一対の石造りの犬(狛犬)が、日本の神社の守護者として立っているのが一般的ですが、ここでは非常に珍しい猪の守護者(漁船をご覧になるととができます。それゆえ、当社の神は、十二支の猪年(亥年)にお生まれになった方々から敬意を払われております。 参拝される方はどなたでも、護王神社の神々によって守られます。悪運や災難を遠ざけるばかりでなく、長距離の旅の安全も守られることでしょう。また、和気清麻呂公の脚が回復されたことにちなみ、足腰の難儀が快復すると信じられております。また、和気広虫姫は、戦摘により身寄りをなくしだ子供たちを引き取り育てられたことから、博愛慈悲の神様として崇敬されております。 ◆和気清原手呂公といのしし 769 年、僧である弓削道鏡は、称徳女帝への影響力によって、皇位の継承をもくろんでいた。 宮廷官僚で、あった和気清麻呂公は、皇位継承についての助言を請うために宇佐八幡へ向かうよう、称徳天皇の勅命を受けた。 清麻呂公は、以下のような託宣を受けた。すなわち、「わが国は有史以来「君臣の分」が定まっている。皇位は、天皇の子孫によってのみ受け継がれることができるのであり、臣下を君主とするようなことは決してありえない」。さらには、「したがって、皇位をのっとろうとたくらむ邪悪な者は、速やかに排除されなければならない」という信託である。清麻呂公はこの信託を持ち帰り、偽りなく称徳女帝〈復奏(報告)された。しかしながら、この行いによって、清麻呂公は道鏡の恨みを買うこととなった。 道鏡の復讐を受けて、清麻呂公は大隅(鹿児島県)へ流された。九州への長く惨めな旅の途中で、清麻呂公は宇佐の大神に、真実の信託を下されたことへの大いなる感謝を示したいと願われていたが、やがて豊前の国(大分県)にさしかかられた。すると、突然、清麻呂公の乗った奥が、300頭もの猪によって取り囲まれたのである。猪たちは、清麻呂公を、そとから40キロばかりはある宇佐八幡まで無事にお送りした。同時に、深い傷を負われていた清麻呂公の足の傷も、奇跡的に癒えたのである。これらの伝説は、日本後記の巻八の 792 年から833 年についての記事に収められている。

千本釈迦堂(大報恩寺)

瑞応(ずいおう)山と号する真言宗智山派の寺院で、千本釈迦堂の名で知られている。 承久3年(1221)義空(ぎくう)上人が、藤原光隆(みつたか)の臣、岸高より寄進を受けたこの地に、小堂を建て一仏十弟子像を安置したのが当寺の起りといわれている。 当初、倶舎、天台、真言の三宗の霊場として、堂塔迦藍も整い、壮麗を極めたが、応仁の乱をはじめ、度々の災火のため堂宇を消失してしまった。 現在唯一残る本堂(釈迦堂)は、本市に現存する最古の仏堂遺構で、国宝に指定されている。 堂内には、行快作の本尊釈迦如来坐像及び、快慶作の木造十大弟子立像をはじめ、銅像誕生釈迦仏立像、六観音菩薩像、千手観音立像などを安置している。 また、毎年、2月にはお亀福節分会、5月には花供養、7月には陶器供養、8月には精霊迎え、12月には大根焚きなど多彩な行事が営まれ、多くの人々で賑わう。 ◆由緒 瑞応(ずいおう)山と号する真言宗智山派の寺院で、千本釈迦堂の名で知られている。 承久3年(1221)義空(ぎくう)上人が、藤原光隆(みつたか)の臣、岸高より寄進を受けたこの地に、小堂を建て一仏十弟子像を安置したのが当寺の起りといわれている。当初、倶舎、天台、真言の三宗の霊場として、堂塔迦藍も整い、壮麗を極めたが、応仁の乱をはじめ、度々の災火のため堂宇を消失してしまった。 現在唯一残る本堂(釈迦堂)は、本市に現存する最古の仏堂遺構で、国宝に指定されている。堂内には、行快作の本尊釈迦如来坐像及び、快慶作の木造十大弟子立像をはじめ、銅像誕生釈迦仏立像、六観音菩薩像、千手観音立像などを安置している。 また、毎年、2月にはお亀福節分会、5月には花供養、7月には陶器供養、8月には精霊迎え、12月には大根焚きなど多彩な行事が営まれ、多くの人々で賑わう。 ◆おかめ塚由来 鎌倉時代の初め西洞院一條上るの辺りで長井飛騨守髙次という洛中洛外に名の聞こえた棟梁とその妻阿亀が住んでいました。そのころ、義空上人(藤原秀衡の孫)が千本釈迦堂の本堂を建立することになり、髙次が総棟梁に選ばれ造営工事は着々と進んでいきましたが、髙次ほどの名人も”千慮の一失”というべきか信徒寄進の四天柱の一本をあやまって短く切り落としてしまったのです。心憂の毎日を過ごしている夫の姿を見た妻の阿亀は古い記録を思い出し、「いっそ斗供(説明文は「木+共」の字)をほどこせば」というひと言。この着想が結果として成功をおさめ見事な大堂の骨組みが出来上がったのです。 安貞元年12月26日、厳粛な上棟式が行われたが、此の日を待たづしておかめは自ら自刃して果てたのです。女の提言により棟梁としての大任を果たし得たという事が世間にもれきこえては・・・「この身はいっそ夫の名声に捧げましょう」と決意したのです。 髙次は上棟の日、亡き妻の面を御幣につけて飾り、冥福と大堂の無事完成を祈ったといわれ、また、この阿亀の話を伝え聞いた人々は貞淑で才智にたけた阿亀の最期に同情の涙を流して菩提を弔うため境内に宝筐院塔を建立し、だれ言うとなくこれを「おかめ塚」と呼ぶようになったのです。 現在、京都を中心として使用されているおかめの面の上棟御幣は阿亀の徳により、”家宅の火災除け”家内安全と繁栄を祈って始められたものです。また、おかめの徳は、”災いを転じて福となす”というところから、建築成就工事安全、女一代厄難消滅、商人の商売繁栄などの招福信仰として全国を風靡するところとなっています。 なお、昭和54年の春、有志により阿亀の大像が造立され福徳の像として祀られ”おかめ信仰”の輪が一層広がっております。

光悦寺

大虚山(たいきょざん)と号する日蓮宗の寺である。 当地は、元和元年(1615)徳川家康によりこの地を与えられた本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)が、一族、工匠等と移り住み、芸術郷を築いたところである。 光悦は、刀剣鑑定のほか、書、陶芸、絵画、蒔絵などにも優れ、芸術指導者としても活躍した。 当寺は、本阿弥家の位牌(いはい)堂を光悦没後に、本法寺(ほんぽうじ)の日慈(にちじ)上人を開山に請じて寺に改めたものである。 ◆由緒 この辺の一帯を鷹ケ峰光悦町と称び、元和元年(1615)徳川家康公が本阿弥光悦翁に野屋敷として与えた土地である。 光悦翁はそこに一族縁者をはじめ、種々の工芸にたずさわる多くの職人と共に住居を構え、光悦翁を中心とする工芸集落を営んだ。 又同時に本阿弥家先祖供養の霊屋として位牌堂を設けたが、光悦翁の歿後、寺として日蓮宗光悦寺となり今日に到っている。 境内の一角には苔むした光悦翁の墓碑が、今も鷹ケ峰の松籟を聞きつつ静かに立っている。 ◆本阿弥光悦 本阿弥家は代々刀剣鑑定、磨砺、浄拭を家業とし、今も尚其の業を続けている家柄である。 光悦翁は永禄元年(1558)本阿弥光二を父とし妙秀を母としてその長男に生まれ幼名を次郎三郎と称した。加賀前田侯の扶持200石を父の代より受け、禁裏を始め将軍家及び諸大名の御用をもつとめたが、本業とは不即不離の芸術面にその豊かな才能を以て多くの作品を遺した事は日本文化の上に大きな功績である。 光悦翁が鷹ケ峰に工芸集落を経営したことは前にも述べたが、その創意と指導のもとに作られた多くの作品には作陶に於ける茶碗や、書道絵画における歌巻、色絵版下を書いて出版した光悦謡本等があり其の他蒔絵に彫刻と凡そ多種多様に渉っている。 然もそのいずれもが前人未踏の斬新的な表現法であり、驚嘆の目を見張らないものはない。 書道は、寛永の三筆と称され近衛信尹、松花堂昭乗と共に名筆にうたわれ、多くの秀れた遺品がある。 寛永14年2月3日その偉大な人生80年の幕をとじたのである。 ◆光悦寺の茶席 光悦翁が茶道に於いても一流儀に偏することなく、古田織部や織田有楽斎にも教えをうけ、又千宗旦とも最も深く交わって茶道の奥義を極めた。 本堂に通ずる廻廊の下をくぐり北山杉の木立ちを行けば右側に古池がある。 池の前方に三巴亭茶席がある。三巴亭の南方は光悦翁終焉の大虚庵茶席で此の席は翁の歿後廃滅したが大正4年に至り現在の大虚庵が復興したのである。 光悦垣又は臥牛垣とも称する特徴のある垣根に囲まれた内露地には石灯籠と手水鉢があり、今も昔を偲ばせている。 建物の外観は切り妻造柿葺で前面に附廂があり、入口には板戸二本引きの、にじり口、内部は五帖台目で床の間は土天井とし隅を塗廻として昔の大虚庵茶室の名残を示している。 大虚庵茶室の前方に了寂軒茶席がある。 徳友庵茶席は光悦翁の号徳友斎から採って名づけられたものである。 本阿弥庵茶席は遙かに京都市内を見下す場所に建てられている。 その他騎牛庵茶席等があり光悦寺境内に形成されている茶席の聚落は茶会の催しともなり又杖を引きて光悦翁の人柄をしたい卓越した芸術の新様式を確立した翁への敬慕に集まる人々の心の休息所となっている。

梨木神社

当社は、明治18年(1885)に創建された旧別格官弊社で、三条実萬(さねつむ)・実美(さねとみ)父子をまつり、社名は、三条家の旧邸が、梨木町にあったことに因んでこのように名付けられた。 実萬は、文化9年(1812)以来47年間、光格、仁考、孝明三天皇に仕え、皇室の中興に尽し、幕府と対立し、幕府より圧迫をうけ一乗寺に幽居したが、安政6年(1859)逝去し、忠成公の号を賜った。 実美は、幕末期に尊王攘夷運動の先頭に立ち、東奔西走し、明治維新後は大政大臣に任ぜられ、明治24年(1891)逝去し、正一位を贈られ、大正4年(1915)父を祀る当社に合祀られた。 茶室は、京都御所春興殿(賢所(かしこどころ))の神饌殿を改装したもので、その井戸は、名水染井の一つとして茶人の間にうたわれている。 また、当社は、萩の名所として知られ、毎年9月の第3日曜日に催される「萩まつり」の行事には、多数の参詣者で賑う。 由緒 1885年(明治18)創建、明治維新の功労者三條実万・実美父子を祀る。 手水舎の井戸の‘染井の水’は京の三名水の一つ。 ハギの名所でもあり、9月の中旬~下旬には萩まつりも。上田秋成や湯川秀樹らの歌碑もある。

廬山寺(廬山天台講寺)

938年(天慶1)延暦寺中興の祖、元三大師良源が開基。皇室とのゆかりが深く、天明の大火(1788・天明8)で失った堂宇は、皇室の援助で復興。紫式部の邸跡で、源氏の庭、お土居などが残る。 宮中で元三大師の修法を妨害する悪鬼を退散させた故事にちなむ節分行事‘鬼法楽’は有名。

安楽寺

住蓮(じゅうれん)山と号し、浄土宗の寺院である。 鎌倉時代の初め、現在地より東1キロメートルばかりのところに、法然上人の弟子住蓮房・安楽房二僧が念仏道場を建てて人々に念仏をすすめた。たまたま、後鳥羽上皇の官女松虫・鈴虫両姫が教化をうけてひそかに出家する事件がおこり上皇の立腹をうけ、「念仏停止」の宣下によって二僧は死刑、法然上人は土佐へ、親鸞聖人は越後へと配流された。 これがいわゆる建永2年(1207)の法難であるが、下って室町時代の末、天文年間(1532~1555)二僧の供養のため伽藍をこの地に再興したのが当寺である。 本堂には本尊阿弥陀三尊像を安置し、傍に住蓮・安楽両上人、松虫・鈴虫両姫の座像、法然上人張子の像等をまつっている。 また、境内右手に住蓮・安楽両房の五輪石塔、東方山林中に松虫・鈴虫両姫の五輪石塔がある。 この寺は、鎌倉時代のはじめ浄土宗元祖法然上人の弟子の住蓮上人と安楽上人が、現在地より東1キロメートルのあたりに「鹿ヶ谷草庵」を結んだことに始まる。 住蓮上人と安楽上人は、唐の善導大師の『往生礼讃』に譜曲を附し、六時礼讃声明を完成された。両上人が勤める声明は、まことに美しく、参詣者の中には出家して仏門に入る者もあった。その中に、後鳥羽上皇に女官として仕えていた松虫姫と鈴虫姫姉妹がおられえ。両姫は容姿端麗で教養も重富であった。上皇からことさら寵愛を受けていたために、他の女官たちからの嫉妬も相当なものであったという。両姫は、虚飾に満ちた御所での生活に苦悩し、心の平安を求め、いつしか出家を望むようになった。 建永元年(1206)12月、後鳥羽上皇が紀州熊野に参詣の留守中に、両姫は清水寺で法然上人の説法を聴聞し、念仏(南無阿弥陀仏)によって救われるほかに道はないと自覚された。御所に反られてからもその説法が忘れられず、夜中密かに御所を忍び出て「鹿ヶ谷草庵Jを訪れ、雨上人の前で剃髪出家し、尼僧となった。時に松虫姫は19才、鈴虫姫は17才であった。 この事を知った上皇は激怒し、この出求事をひとつの口実として専修念仏教団に対し弾圧を企てた。翌建永二年(1207)二月九日、松虫姫を出家させた住蓮上人は、近江国馬淵(現在の滋賀県近江八幡市)において斬首に処された。また鈴虫姫を出家させた安楽上人は京都六条河原(現在の泉本願寺近く)において斬首に処せられた。この迫害はこれに止まらず、法然上人は七十五歳の高齢にも拘らず讃岐国(現在の香川県高松市)に流罪、親鸞上人は越後国(現在の新潟県上越市)に流罪に処された。 その後、両姫は瀬戸内海に浮かぶ生ロ島の光明坊に移り、念仏三味の余生を送り、松虫姫は35才、鈴虫姫は45才で往生を遂げたと伝えている。 また両上人の亡き後「鹿ヶ谷草庵」は荒廃したが、流罪弛から帰京した法然上人が雨上人の菩提を弔うために草庵を復興し、「住蓮山安楽寺」と名付け両上人の追善の寺とした。その後、天文年間(1532~1555)の末、現在地に本堂が再建され今日に至る。 [松虫姫鈴虫姫和讃] 松虫姫と鈴虫姫が、住蓮上人と安楽上人のもとで剃髪染衣を求め、出家する経緯が七五調の句を重ねた美い、調べをもって語られている。安楽寺では、4月と11月の両姫の祥月忌に和讃法要を勤めるほか、毎月一度、和讃月例会を聞いている。 [中風まじない鹿ヶ谷カボチャ供妻:] 毎年7月25日に、京都お伝統野菜の一つである瓢箪型をした鹿ヶ谷カボチャを煮炊きしたものを参拝者に振舞い、中風にならないようにと願う行事がある。併せて、当山の宝物(掛軸)の虫干しも行う。 【くさの地蔵 地蔵縁日復興】 安楽寺の地蔵菩薩立像(くさの地蔵)は、古くから皮膚病や腫蕩平癒にご利益あリと信仰される。平成3年(1991)の解体修理で胎内に墨書銘が認められ、鎌倉時代中期の正嘉2年(1258)5月2日の作の木造であり、作者も慶派の仏師であることが判明した。2015年5月2日、地蔵堂が再建されたことに合わせて、「地蔵縁日」も150年ぶリに再開された。