長講堂

もと後白河法皇(ごしらかわほうおう)が仙洞(せんとう)御所に営まれた持仏堂で、正式名を「法華長講弥陀三昧堂(ほっけちょうこうみださんまいどう)」といい、法華経を永遠に讃し、阿弥陀仏を念じて三昧境に入る道場という意味である。 寿永2年(1183)、法皇が六條西洞院の平業忠(なりただ)の邸に移られたので、この堂もそこに移建され六条長講堂とよんだ。法皇は多くの所領を寄進したが、これが史上に有名な長講堂領で、法皇の崩後、皇女宣陽門院覲子(きんし)内親王に継がれて以来、いわゆる持明院統によって相続された。 再三の火災のため転々と寺地を変え、天正6年(1578)に現在地に移った。 現在、粟生光明寺(あおうこうみょうじ)の所轄する西山浄土宗(せいざんじょうどしゅう)に属する。 後白河法皇の臨終仏(りんじゅうぶつ)である本尊阿弥陀如来及両脇侍(りょうわきじ)像と御影堂(みえいどう)に安置する後白河法皇木像はともに重要文化財に指定されている。

松明殿稲荷神社

伏見稲荷大社の境外(けいがい)末社で田中社ともいう。 大己貴命(おおなむちのみこと)、伊弉諾命(いざなぎのみこと)、伊弉冊命(いざなみのみこと)、猿田彦命(さるたひこのみこと)、倉稲魂命(うがのみたまのみこと)を祭神とするが、このほか現在、天智天皇像(木像)、大友皇子像(木像)を安置する。 当社は、天暦2年(948)に創始され、同10年(956)、勅により燎祭(りょうさい)が行われ、その時「炬火(たいまつ)殿」の号を賜った(たまわった)ことに由来すると伝えられる。 はじめ、黒門通塩小路下るにあったが、その後、七条東洞院などを経て、宝永8年(1711)現在の地に移ったとされる。 江戸時代に出された「都名所図会(みやこめいしょずえ)」には、伏見稲荷大社春の稲荷祭のとき、当神社の氏子の人々が松明(たいまつ)をともしてその神輿(みこし)を迎えるのを古例としていたことから「松明殿」の名で呼ばれたと記されている。 また、境内西側には、江戸時代中期の木食正禅養阿(もくじきしょうぜんようあ)の銘のある手洗石及び井戸がある。

蓮光寺

負別(ふべつ)山と号し、浄土宗の寺である。 天台宗真盛(しんぜい)派の祖、真盛上人の開基にかかり、もと新町通松原にあったが、のち玉譽和尚がここに移して浄土宗に改めた。本堂の本尊は仏師安阿弥作と伝える阿弥陀如来である。 その昔、安阿弥が東国の一僧の求めに応じ、阿弥陀如来を作った。 安阿弥自らその会心の作なるを惜しみ、この像を取り戻そうとして僧のあとを追って山科のあたりまで行くと、僧の護持した仏像が自ら二体に分かれたので、二人はその各像を背負って東西に別れたと伝えられる。この本尊はその一体であるといわれ、山号もこれに因んだものである。 境内には平清盛の駒を止めたという駒止(こまどめ)地蔵や長曽我部盛親(ちょうそかべもりちか)の墓がある。

伏見稲荷大社御旅所

御旅所とは、祭礼のときに神輿を本宮から移し一時的に奉安する場所のことです。 伏見稲荷大社の御旅所は、かつては「油小路七条」と「八条坊門猪熊」の2箇所にありました。 その後、豊臣秀吉が一つに合わせてこの地に移したと伝えられています。 普段は静かな御旅所ですが、4月・5月の稲荷祭の期間には一変し、大変賑わいます

正行院(輪形地蔵)

開山円誉上人(明宝5年~天正12年)(1496~1584)が、北山の中川の里で念仏修行の時、猿に災難除けと仏縁結縁のために「南無阿弥陀仏」の御名号を書いたお守りを授けられ、そのお守りのお陰で猿が危難から救われたという故事から「災難さる」の猿寺と呼ばれるようになった。 本殿には猿をひざに乗せた上人の座像がまつられている。寺内には他に八猿はじめ多くの猿の人形がある。 天文7年(1538)創建された浄土宗捨世派の古刹。参拝は事前に問い合わせが必要。 門前に輪形地蔵堂がある。 竹田街道を行き来する牛馬車の通行を楽にするため車の下に敷かれた石を輪形の石と呼んでいたが、輪形地蔵はその石から堀り起こされた。牛馬車の通行の苦難を助け安全を守られた「交通安全」の御利益があるといわれている。 また堂内には竹田街道の竹田口にもまつられ、旅人が道中の安泰を祈願した西国三十三箇所の観音様もまつられている。

本覚寺

山号を佛性山(ぶっしょうざん)といい浄土宗の寺で、開祖は團譽(だんよ)上人玉翁(ぎょくおう)和尚である。 ここは嵯峨天皇の皇子・源融(みなもとのとおる)の河原院塩竃(しおがま)の第(だい)のあったところで、今この辺を本塩竃町という。 寺伝によれば、初め西八条の遍照心院(1名、大通院)内に将軍源実朝(さねとも)の後室・坊門信子(ぼうもんのぶこ)が貞応元年(1222)に創建したもので寺名は信子の法名本覚をとったものである。 その後、梅小路堀川に移転し、応仁の乱の荒廃のあと細川政元により高辻烏丸に再建せられ、末寺14を有する本山となった。 その後、後柏原天皇の勅願寺となったが、天正19年(1591)豊臣秀吉の命によってさらに今の地に移った。 境内墓地には八文字屋本の全盛期を築いた江戸中期の版元・八文字屋自笑(じしょう)の墓がある。

城興寺

瑞宝山と号する真言宗泉涌寺派の寺院で、洛陽三十三所観音めぐりの第二十二番札所となっている。 この地は、太政大臣藤原信長の邸宅であったが、知足(ちそく)院関白藤原忠実(ただざね)が伝領して、永久元年(1113)に寺に改めたといわれる。 創建当初の規模は明らかではないが、寺宝に有する境内伽藍図には現在の烏丸町全域にわたって寺域としていた様が描かれている。 当初は、四宗(顕・密・禅・律)兼学の道場であったが、のちに天台宗となり、天台座主最雲法親王の没後、その弟子の以仁王(もちひとおう)が当寺を領した。 その後、治承3年(1179)、平氏によって寺領を奪われ、このことが、平氏討伐の挙兵の一因になったと考えられている。 中世を通じて、延暦寺の管理に属したが、応仁の乱後、衰微し、現在は円仁(えんにん)の作と伝えられる本尊千手観音像を安置する本堂のみが残っている。