もともとこのあたりにあった「綱敷天満宮」と西にあった「行衛天満宮」が合併され「綱敷行衛天満宮」と呼ぶようになりました。 「綱敷天満宮」は道真が筑紫に左遷され博多仁上陸されたとき船の綱を敷いて御座としたら一夜にして白髪となりました。 道真のその様を画にし、綱敷天神像とか、一夜白髪の御影と呼び、社名はその神像を祭ったことが由来とされています。 「行衛天満宮」は「鞠負ゆきえ」が正しいとされ、右京の西鞠負小路に面していたことから社名になったようです。 西鞠負小路は「猪隈通」とも呼ばれ、北野天満宮の南門を経て吉祥院天満宮に通じる道で道真はこの道を利用して吉祥院に通ったといわれています。
京都駅周辺
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指方山(しほうざん)と号し、浄土真宗本願寺派に属する。土御門(つちみかど)天皇の時代に親鸞聖人の教化をうけて法名を恵明とよばれた太田頼基(清和天皇の皇子貞純(さたずみ)親王の10世の孫)を家祖とし、蓮如上人に恵光(えこう)という法名を与えられた太田頼忠から6世の孫にあたる頼賢によってこの寺が開かれた。 頼賢は元和4年(1618)摂津(大阪)太田村に生まれ、寛永11年(1634)本山(本派本願寺)で得度し恵海とよばれた。恵海は明暦2年に岡山の光清寺の住職となった。時の藩主池田候より弾圧を受けたが屈せず、かえって諌鼓(かんこ)集二巻を著して反省を求めたため投獄された。このことを本願寺14世寂如上人が知り、池田家に申し入れて寛文10年(1670)恵海を帰京させた。後、その功績により本山の仏堂執事に抜擢され、延宝2年(1674)西六条に一寺を与えられた。 西教寺はのち現在地に移転したが、寺宝の中には宗祖聖人の尊骨、真影を始め、本山からの受領品を数多く蔵している。 なおこの地は明治維新の功臣松井中務(本願寺寺臣)の殉難の地として知られている。