矢田寺(矢田地蔵尊)

金剛山矢田寺と号する西山浄土宗の寺で、通称、矢田寺の名で知られている。 寺伝によれば、当寺は、平安時代の初め、大和国(奈良県)の矢田寺の別院として五条坊門(下京区)に創建され、以後、寺地を転々とし、天正七年(1579)に現在の地に移されたといわれている。 本堂に安置する本尊の地蔵菩薩(矢田地蔵)は高さ約2メートルの立像で、開山の満慶(まんけい)(満米(まんまい))上人が冥土へ行き、そこで出会った生身の地蔵尊の姿を彫らせたものといわれ、俗に代受苦地蔵と呼ばれ、地獄で亡者を救う地蔵として人々の信仰を集めている。 また、当寺の梵鐘は、六道珍皇寺の「迎え鐘」に対し、「送り鐘」と呼ばれ、死者の霊を迷わず冥土へ送るために撞く鐘として人々から信仰され、一年を通じて精霊送りには、多くの参拝者で賑わう。

下御霊神社

社伝によれば、大同2年(809)不運のうちに亡くなった伊予(いよ)親王(桓武天皇の皇子)とその母の藤原吉子(ふじわらのよしこ)の霊をなだめるために、承和6年(839)に創建されたといわれている。 祭神は、後に、崇道(すどう)天皇(早良(さわら)親王)、吉備真備(きびのまきび)、藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)、橘逸勢(たちばなのはやなり)、文屋宮田麿(ぶんやのみやたまろ)、火雷天神(からいてんじん)を加えて八所御霊としている。 当初、出雲路(上京区)にあり、御霊神社の南にあったことから下御霊神社と呼ばれるようになったといわれ、以後、社地を転々とし、天正18年(1590)豊臣秀吉の都市整備により当地に移転してきた。 古来より、京都御所の産土神として崇敬され、享保年間(1716~36)霊元天皇は当社に行幸し、宸筆の祈願文を納めている。 本殿は、寛政3年(1791)仮皇居の内侍所を移建したもので、表門は、旧建礼門を移したものといわれている。 境内の垂加(すいか)社には、江戸時代の国学者、山崎闇斎(やまざきあんさい)を祀る。

瑞泉寺

慈舟山(じしゅうざん)と号し、浄土宗に属する。豊臣秀吉の甥、豊臣秀次(ひでつぐ)の菩提を弔うために建立された寺である。 秀次は、秀吉の養子となり、関白の位を継いでいたが、秀吉に嫡男秀頼が生まれてからは、次第に疎んぜられ、文禄4年(1595)7月、高野山において自害させられた。 次いで、8月、秀次の幼児、妻、妾たち39人が当寺の近くの三条河原で死刑に処せられた。 遺骸は、その場に埋葬され、塚が築かれ石塔が建てられていたが、その後の鴨川の氾濫などにより次第に荒廃した。 慶長16年(1611)角倉了以(すみのくらりょうい)が、高瀬川の開削中にこの墓石を発掘し、当地に移し塚を再建して堂宇を建立した。 これが当寺の起りで、僧桂叔(けいしゅく)を開墓とし、寺号は、秀次の法号、瑞泉寺殿をとって瑞泉寺と名付けられた。 本堂には、本尊阿弥陀如来像を安置し、寺宝としては、秀次及び妻、妾らの辞世の和歌を蔵している。 境内には、妻、妾たちの墓及び犠牲者49人の五輪塔がある。 ◆由緒 1611年(慶長16)角倉了以が豊臣秀次とその一族の菩提を弔うため建立した寺。浄土宗西山禅林寺派。 豊臣秀吉から関白の位を譲られ聚楽第に住した秀次が、謀反の疑いをかけられて1595年(文禄4)に高野山で自刃させられた後、その子供5名と妻妾34名の計39名の一族が三条河原の南西詰めで処刑された。 瑞泉寺に伝わる絵縁起によれば、一族の遺骸を埋葬した処刑場の地には大きな塚が築かれ、塚の頂上には秀次の首を納め「秀次悪逆塚」と刻した石塔を据えて往来人への見せしめにしたと云う。 16年後、角倉了以が高瀬川の開削の際に荒廃した塚と石塔を発見して大層に心を痛め、僧桂叔と相談、碑面から「悪逆」の2字を削り新たに墓域を整備して墓碑を立て側に一宇を建立し慈舟山瑞泉寺と号した。 境内の西南隅にその墓域が見られる。本堂に了以と長男の角倉素庵の像を安置する。

誠心院

華嶽山東北寺(かがくざんとうぼくじ)誠心院と号する真言宗泉涌寺派の寺で、通称和泉式部(いずみしきぶ)の名で知られている。 寺伝によれば、関白藤原道長が、女(むすめ)の上東門院(藤原彰子(しょうし))に仕えていた和泉式部のために、法成寺東北院内の一庵を与えたのが当寺の起こりといわれている。 当所、御所の東側にあったが、その後一条小川(上京区)に再建され、さらに天正年間(1573~91)この地に移された。 和泉式部は、平安時代の代表的な女流歌人で、才色兼備で知られ、代々の勅撰集におさめられている和歌は247首に及んでいる。 本堂は小御堂(こみどう)と呼ばれ、道内には、本尊阿弥陀如来像をはじめ、和泉式部、藤原道長のそれぞれの像を安置している。 境内には、式部の墓と伝える宝篋印塔及び式部の歌碑が建てられている。 また、傍らの梅の木は、式部が生前愛木した「軒端(のきば)の梅」に因んで、後に植えられたものである。

宗像神社

京都御苑内に鎮座。 祭神は宗像三女神である多紀理毘売命・多岐津比売命・市岐嶋比売命。 北家藤原氏の祖、藤原冬嗣が795年(延暦14)に、平安京の東西両市の守護神として筑前国の宗像神社を勧請したのが創祀とされ、その後冬嗣の自邸小一条第に移したと伝えられる。 小一条第は花山院家が相続したことから同家が別当となる。 東京遷都にともない公家町は御苑になされ、邸内社が府社となった。 御神木の楠は樹齢600年とも800年とも言われる。 境内社に、花山稲荷神社・京都観光神社・小将井神社・繁栄稲荷神社・金比羅宮がある。 例祭、9月15日。近年は例祭日の後の日曜日又は祝日に、神賑いの日として神楽舞など奉納を行っている。 春と秋には花山稲荷神社・京都観光神社の祭礼があり、神楽舞やヴァイオリンのミニコンサートなど奉納。 1~2月の境内では水仙が咲き乱れる。 4月上旬は桜。10~11月にカリンの実がたわわに実る。 紅葉の木も色づく11月中旬から下旬が見頃である。

厳島神社

京都御苑間ノ町口を入った池のそばに建つ。 平清盛が母祇園女御のため厳島神社の神を祀ったのが始まり。 祇園女御も祀る。池と傍らの拾翠亭はもと九条家のもので、この社は同家の鎮守社だった。 社前の石鳥居は笠木が唐破風で京都三珍鳥居の一つ。 建立:不詳 祭神 市杵島姫命 田心姫命 端津姫命 祇園女御 祭儀  例祭 6月15日  秋祭(火焚祭)11月15日  鳥居 破風形(京都三珍鳥居の一つ)重要美術品(昭和13年文部省)

管大臣神社

菅原道真公を祭神とする神社。 この地はもと道真公の邸や、菅家廊下といわれた学問所の跡で、誕生の地と伝えられ、天満宮誕浴の井が保存されている。 また「東風吹かばにほひおこせよ梅の花 主なしとて春なわすれそ」と詠まれた飛梅の地も当神社である。 古くは天神御所紅・白梅殿とも呼ばれ、境内には本殿、幣殿ほか多くの社殿が建つ。 本殿はもと下鴨神社の本殿を、1869年(明治2)に移築したもの。 幣殿と合わせて八棟造り、銅巻柿葺の豪華な建築。

平等寺(因幡薬師)

この寺の起りは、「因幡堂縁起(いなばどうえんぎ)」(現東京国立博物館蔵)にくわしい。 すなわち、長徳3年(997)因幡国司橘行平が、任終って帰洛の途中、夢告によって因幡賀留津(いなばかるつ)の海中から一体の薬師如来像をひきあげ、仮堂に安置しておいたが、薬師は行平のあとを追って京都に飛来したといわれ、長保5年(1003)行平は自宅を改造してこれをまつったという。 この霊験談はひろく親しまれ、歴代天皇はじめ一般庶民の深い信仰をうけ、承安元年(1171)には高倉天皇により平等寺と命名された。 しかし堂舎はたびたび火災にかかり寺地も次第に小さくなったが、明治初年再建の現本堂には、たび重なる火災にもかかわらずよく伝えられてきた本尊薬師如来立像を安置している。 藤原時代、一木作りの優品で重要文化財に指定されている。 嵯峨釈迦堂の釈迦如来、信濃善光寺の阿弥陀如来とともに日本三如来の一つにかぞえられ、ことのほか信仰されている。 ◆由緒 長徳3年(997)因幡(現在の鳥取県)国司橘行平が、任を終えて帰京の途中、夢のお告げに従って因幡賀留津(いなばがるつ)の海中から引き揚げ、安置しておいた薬師如来像が行平のあとを追って京都に飛来したといわれ、長保5年(1003)行平は自宅を改造してこれを祀ったと伝えられている。この霊験談は広く親しまれ、歴代天皇をはじめ一般庶民の深い信仰を受け、承安元年(1171)には高倉天皇により平等寺と命名された。 なお、この寺の起こりは、「因幡堂縁起」(東京国立博物館蔵)に詳しく書かれている。 堂舎は度々火災に遭い、寺域も次第に小さくなったが、明治初年(1868)に再建された現本堂には、度重なる火災にもかかわらず伝えられてきた本尊薬師如来立像が安置されている。この薬師如来立像は藤原時代の一木作りの優品で、重要文化財に指定されている。嵯峨釈迦堂の釈迦如来、信濃善光寺の阿弥陀如来とともに日本三如来の一つに数えられ、ことのほか信仰されている。

北菅大臣神社

御祭神は道真公の父・是善卿。 道真公が太宰府に左遷される時にここで、「東風吹かばにほひ起せよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ」と詠んだとされる。 当地は菅原家の邸宅紅梅殿のあったところで、紅梅殿社ともいう。 もとは南の菅大臣神社と地続きの同一境内にあったと伝える。

空也寺

浄土宗。山号・光勝山。 972年(天禄3)空也上人が錦小路西洞院に開基。 当初は天台宗に属した。 のち敬蓮社見誉が中興、1591年(天正19)現在地に移転した。 本尊は阿弥陀三尊、本堂には空也上人像が安置されている。 本堂に祀る金仏の釈迦如来坐像(鉄製、鎌倉時代作とのこと)は、藁縄で縛って祈願すると「おこり」が治ると伝えられる(現在は行なわれていない)。 平成12年2月の本堂落慶を記念して、空也上人が洛中を「念仏踊り」をした際に十一面観音を台車にのせて廻ったという故事にちなみ、十一面観音立像を新たに造り祀っている。