鈴虫寺(華厳寺)

1723年(享保8)学僧鳳潭上人が最福寺跡地に華厳宗の再興の為に当寺を創建。 19世紀初頭臨済宗に改宗。 八代目住職 台巌和尚が鈴虫の音に開眼し研究を始め、今では年間5万匹を育て一年中鈴虫の音が絶えない。 参拝者にはお茶・菓子が付き僧侶による簡単な法話が聞ける。 どんな願いでも一つだけ叶えてくれる草鞋を履いた幸福地蔵が有名。 ◆由緒 当山の開山鳳潭上人(ほうたん)は承応3年富山県小矢部市埴生町に生まれ12才に上京比叡山延暦寺にて得度せられ新華厳宗の開祖であらせられる。 正徳5年未年この地に華厳寺創建せし華厳経宇論昆盧法身観に至る迄140余冊を上梓せし大学者にて元文3年2月26日85才を以て示寂せられた。 明治初年に到り8代目住職の代に於いて禅宗臨済宗に所属し今日に至る。 どんな願い事でもかなえて下さるめずらしいワラジを履いた幸福地蔵様がおまつりして有ります。 ◆幸福地蔵さま どんな願い事でも一つだけはかなえて下さる有名な幸福地蔵さん。 ワラジを履いて貴方の家まで願い事をかなえに来て下さいます。 ・お願い事の有る人・参拝される人はお寺の内で幸福地蔵さまのお守りを受けて拝み方の説明等を聞いてからお帰りにお願いして下さい。 ・願い事のかなった人・お礼参りの人はまずお地蔵さんにお礼を言ってから古いお守りを寺に返して、お帰りに新しい守りで又一つだけお願い事をする事が出来ます。

妙心寺

全国に3400の寺院を持つ臨済宗妙心寺派の大本山。 1337(建武4)年花園法皇が関山慧玄を招いて開山。 この地にあった法皇の離宮を禅寺に改めた。 応仁の乱で多くの堂塔を焼失したが、細川勝元・政元親子らの援助で再興。 その後、豊臣、徳川家をはじめ諸大名が帰依し、隆盛を極めた。南から三門、仏殿、法堂と重文の伽藍が一直線に、その周囲に46の塔頭が並ぶ。 大灯国師墨跡(国宝)をはじめ、仏像、絵画、障壁画、庭園など多くの文化財を所蔵。梵鐘(国宝)は最古の銘を持つ。 建立:開創1337(建武4)年 中興1432(永享4)年 正法山と号し、臨済宗妙心寺派の大本山である。深く禅に帰依された花園法皇が開山慧玄を開山とし離宮萩原殿を改めて寺とされたのが当寺の起りで、室町初期に一時中断し再興後応仁の乱で再び焼失したが、乱後雪江宗深が再建、弟子にも名僧が出て寺運はさかんとなり、塔頭が相次いで建てられ、地方へも当寺の勢力は発展した。 現在末寺3,500余、臨済宗各派中最大である。勅使門より北へ三門・仏殿・法堂・寝堂・大方丈が一直線に並び、その東側に浴室・浴室鐘楼・経蔵が並ぶ。室町後期から江戸初期の建築で、近世禅宗伽藍の最も完備した形を示している。 大方丈の二面の庭園は清楚な名園である。法堂内に収蔵されている鐘は黄鐘調の鐘といわれ、698年の作、我国最古の在銘鐘で、形・音色にすぐれている。 寺宝には当寺の歴史に関する多くの文化財を蔵する。また、塔頭は40余に達し、禅宗本山として堂々たる寺容をほこっている。 ◆由緒 洛西、右京区花園、北には衣笠山などの美しい山々を望み、西には兼好法師ゆかりの双ケ丘、東南は開けて京の街々、遠く宇治、淀のあたりまで見わたす景勝の地、桓武天皇の遠い古へから、ここ花園の地はその名の如く、四季とりどりの花咲きにおう遊園の地であった。その一画に翠嵐ひときは濃かに、静寂さながらの聖地こそ、わが大本山妙心寺である。 いまその開創の古へをたずぬるに、花園天皇(1297~1348)いたくこの地の風光を愛でさせられ、離宮を営まれた。 天皇は仏教特に禅宗に深く帰依せられ、大徳寺の開山大燈国師の法嗣である関山慧玄を、美濃の伊深からお召しになり、離宮を改めて禅刹となされた。これが即ち正法山妙心寺の起りである。 かくて関山慧玄即ち妙心寺開山無相大師は、簡素溌刺たる禅風を以て、花園に法幢をかかげ、天下禅苑の冠と称せられるに到ったが、延文五年(1360)法嗣授翁に後事を托し入定された。第二世授翁宗弼は南朝の忠臣藤原藤房の後身ともいわれ、第三世無因宗因第四世日峰宗舜、第五世義天玄承、第六世雪江宗深と相承したが、雪江の門下に、景川、悟漢、特芳、東陽の四傑出で、龍泉、東海、露雲、聖澤の四派を生じ、門葉頓に栄えた。その後も逸材傑僧輩出して、関山禅の宗風、全国を風塵するに到り、大師の法孫で、時の朝廷より国師号を拝受したもの、禅師号を賜わったもの実に二六〇余、関係寺院全国に約三、五〇〇カ寺、僧侶約七千。教育機関としては、花園大学、花園高等学校、洛西花園幼稚園があり、禅専門の修行道場は二十一を数える。而して関山一流の禅風は遠く欧米の地にまで及んでいるのである。 本山諸堂伽藍の完備も、禅宗としては全国随一といわれ、七堂伽藍を中心に四十余の子院塔頭が、これを囲繞するさま、実に偉観であり荘厳である。また史跡名勝に指定された庭園、国宝、重要文化財の建造物、歴朝寝翰文書、絵画等の数もおびただしく、ここ花園妙心寺は現代禅の淵叢であると共に、一面わが国文化財の一大殿堂である。 ◆法堂(重要文化財) 入母屋造重層本瓦葺の大建築、明暦2年(1656)の建造、住持の演法や重要な儀式の行われるところ。天井には狩野探幽法眼守信の大傑作雲龍の図がある。 ◆大方丈(重要文化財) 入母屋造単層檜皮葺、承応3年(1654)の建造、方丈はもと住持の居所を意味したが、今は檀信徒の祖先を祀って、その供養を行う所、また説教、講演その他の会合の場所ともなり、多数賓客を応待するところともなる。本尊阿弥陀三尊はもと石清水八幡宮の奥の院に祀ってあったもので鎌倉時代の傑作である。襖の画は狩野探幽と狩野益信の筆である。 ◆妙心寺鐘(国宝) 黄鐘調鐘ともいう。徒然草に「およそ鐘のこえは黄鐘調なるべし…浄金剛院の鐘の声また黄鐘調なり」とあるその鐘で、もと浄金剛院(廃寺)にあったもの、記年銘のあるものとしては日本最古で、文武天皇2年(698)の作である。その秀高なる形態流麗なる唐草文様まことに天下の名鐘の名に恥じない。 ◆浴室(重要文化財) 三門の東側一に位置する浴室(明智風呂)は天正15年(1587)塔頭太嶺院(廃寺)の密宗和尚が、明智光秀の菩提を弔うために創建したものである。そののち明暦2年(1656)に改建された。一重切妻造本瓦葺、浴室内中央に浴槽と洗場があり、その南側に休息室が設けられてある。また東背面には竈室がある。 浴槽は蒸風呂形式で簀子板敷の隙間から蒸気を出し四壁は正面に出入口と調節窓をもち、他の三方は板壁で閉ざされている。入口正面には位牌棚があり、その中央に跋陀婆羅尊者画像(狩野宗信筆)が掲げられている。 ◆妙心寺 三門 臨済宗妙心寺派大本山で、46の塔頭寺院をもつ京都最大の禅寺。建武4(1337)花園法皇が離宮を禅寺に改めたのが始まりである。約10万坪の境内に一直線に建ち並ぶ典型的な禅宗伽藍のなかでも、三門(重文)は、唯一鮮やかな朱塗りの建物。七堂伽藍を一望する楼上には、観音菩薩像や十六羅漢像が安置されており、天井には天女や飛龍、楽器などが色鮮やかに描かれ、柱や組物一面の絢爛たる彩色が美しい。 ◆妙心寺法堂 雲龍図 狩野探幽筆 妙心寺の現在の法堂は、明暦2年(1656)に再建されたものである。その堂内の天井には周囲を霊雲でとりかこんだ円相内に、八方にらみの巨龍が描かれている。 禅宗の法堂の天井は、板が一面に張られた平たい天井に鏡天井ともいわれ、そこには必ず丸龍が描かれるならわしである。古来より龍は仏法を守護する瑞獣であるとされており、この雲龍は、上堂説法が行なわれ禅風が挙揚される。また、この法堂の空間を守る大切な役目を果たしているのである。

常寂光寺

慶長年間に本圀寺の日しん上人の穏退所を寺にした。 紅葉の美しい小倉山の中腹にあり、常寂光土に遊ぶような風情があるとこの名がつけられた。 高さ12メートル余の多宝塔(重文)が美しい。 小督局の遺品などがある。日蓮宗。 建立:1604(慶長9)年 日蓮宗の寺院である。慶長元年(1596)本圀寺十六世究竟(くきょう)院日禛(にっしん)が、この地に隠棲して開創した。寺域が小倉山の中腹を占め、幽雅閑寂で、日蓮宗教義にいう常寂光土の観があるところから常寂光寺の寺名がつけられたという。 多宝塔(重要文化財)は元和六年(1620)の建立で、並尊閣といい、前面に霊元天皇の勅額を掲げている。本堂は伏見城の建物の一部を当寺二世通明院日韶(にっしょう)が移転修造したものといわれる。 仁王門はもと本圀寺客殿の南門を移転、妙見堂は能勢妙見を分祀し、謌僊祠には、藤原定家・家隆、徳川家康の木像を安置する。 また、時雨亭は定家山荘がこの付近であるとして建てられたものである。 ◆由緒 開山は究竟(くきょう)院にっしん上人。権大納言広橋国光の息男として永禄4年(1561)出生す。幼にして六条の日蓮宗大本山、本圀寺(ほんこくじ)十五世日栖(にっせい)の門に入り、わずか十八才で同寺の法灯を継ぐ。 宗学と歌道への造詣深く、三好吉房(秀吉の姉婿)、瑞竜院日秀(秀吉の実姉)、小早川秀秋(木下長嘯子(ちょうしょうし)の実弟)、加藤清正、小出秀政、その他京都町衆の帰依者多し。 文禄4年(1595)、秀吉建立にかかる東山方広寺大仏殿千僧供養の砌(みぎり)、上人は不受不施(ふじゅうふせ)の宗制を守って出仕に応ぜず、やがて本圀寺を出てこの地に隠栖し、常寂光寺を開創す。 当時歌人としても著名なりし上人に、歌枕の名勝小倉山に隠栖処として提供せし人は、角倉栄可(了以の従兄にして舅)と了以(りょうい)なり。その後慶長11年(1606)、了以の大堰川(おおいがわ)浚鑿(しゅんさく)工事の行われるや、上人は備前伊部(いんべ)の本圀寺末檀家たりし瀬戸内水軍の旗頭、来住(きす)一族に書状を送り、熟達せる舟夫の一団を招き、了以の事業を支援せり。これ即ち保津川下りの濫觴(らんしょう)なり。 上人は元和3年(1617)この地に遷化(せんげ)、時に五十七才なり。 苔衣(こけごろも)きて住みそめし小倉山松にぞ老いの身を知られける(にっしん)

山科神社

日本武尊(やまとたけるのみこと)・稚武王(わかたけのみこと)を祀る。 社伝によれば、寛平9年(897)宇多天皇の勅命により創建されたと伝え、以後、この地の豪族宮道(みやじ)氏の祖神として、また山科一ノ宮とも呼ばれてこの地の産土神として人々の崇敬を受けて栄えてきた。 盛時には、社領を丹波、山城に持ち、社殿の規模も大きかったが、度々の兵火のため焼失し、現在は、三間社流造の本殿及び権殿、拝殿、神庫などが残っている。 また、元禄14、5年(1701~02)赤穂浪士の大石良雄が山科の里に隠棲していたが、その時、当社奥の院岩屋神社に参篭して、大願成就を祈ったといわれている。 例祭は、「山科祭」と呼ばれ、毎年10月10日に行われる。

大乗寺

法華宗。縁起は古く300年以上前に遡るが、近年は檀信徒が殆どなく、廃寺の危機にあったところ、1993年現住職の着任以来、寺の復興が図られてきた。 現在では、毎年秋になると、1300本以上の酔芙蓉が境内に咲き誇る。境内には日蓮の晩年の歌碑や百人一首「源宗干朝臣」「宗千の祖父第五十八代光孝天皇」の歌碑、京都市詩吟連盟の歌碑他ニ基の歌碑が立つなど、文学の寺としても親しまれている。 平成15年の春近藤氏の寄贈になる酔芙蓉観音像が建立され多くの人々の参詣を得ている。

諸羽神社

祭神は天児屋根命、天太玉命など、六柱。 貞観4年(862年)、清和天皇の勅により、社殿が造営され両羽大明神と称せられた。 その後、両羽の文字も諸羽と改称された。社殿は応仁の兵火で、その後再建の社殿も明和年間の大火で焦土と化した。 その後、三度目の造営がなされ今日に至る。本殿の西北に「琵琶石」といわれる石があるが、仁明天皇の第四皇子である人康親王の山荘の跡にあったものを移したと伝えられている。 10月の第3日曜日に行われる神幸祭には神輿2基が自動車編成により氏子中を巡幸する。そして神社近くの区間は往復共神輿を人が担ぐ。 ◆由緒 天孫降臨(てんそんこうりん)の神話の中で、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の左右に従った天児屋根命(あめのこやねのみこと)と天太玉命(あめのふとだまのみこと)を祀るところから、兩羽(もろは)大明神と称したという。 貞観(じょうがん)四年(862)、清和天皇の勅命でこの地に社殿を建てたのが当社の始まりとされる。 この後、正殿(せいでん)に応神天皇、脇(わき)殿に伊奘諾尊(いざなぎのみこと)・素戔鳴尊(すさのおのみこと)・若宮八幡を合わせ祀るようになり、社名の「兩羽」の文字も「諸羽」に改められた。社殿は応仁の兵火により焼け、その後もしばしば火災に遭った。 当社は、山科一八郷の中で第四番目に当たるとされ、古くは「四ノ宮」と呼ばれて、この付近の産土神(うぶすなのかみ)として人々に崇敬された。 神社の背後の山は諸羽山といい、平家物語の中に、「木曽、もろは山の前、四の宮川原に打出で・・・」と記されているのは、当社周辺のことである。

折上稲荷神社

和銅4年(711年)、西野山(後稲荷山)の三の峯に稲荷神が降りられた同じ時にこの折上の森にも降りられ、伏見稲荷からはその神体山、稲荷さんの中心部を一直線上に通り真奥に当たることから[伏見稲荷の奥の宮]として信仰され、よりいっそう強力な稲荷のご利益がいただけるといわれています。 又、昔より女性守護のお稲荷さんといわれ、祇園の舞妓を世界的に有名にした[モルガンお雪]など働く女性の守り神として信仰されています。 建立:550年(古墳時代)頃

極楽寺

浄土宗。大石内蔵助が施主で、浅野内匠頭の位牌を同寺に納めている。 鎖帷子や硯箱など、義士の遺品も数多く残る。 庭にある五輪の塔は遺髪塚であったといわれる。

佛光院

当院は、昭和26年4月、かつて勧修寺の塔頭があったと伝えられる由緒ある地に、大石順教尼(じゅんきょうに)によって再興建立された寺院である。 順教尼は、もと大阪堀江の名妓で妻吉といったが、明治38年6月、中川万次郎6人斬り事件のまきぞえをうけて17才の身で両腕をきり落された。 この不幸のどん底から数々の苦難をのりこえ、求道(きゅうどう)者として出家得度(とくど)し犠牲者の追善とともに身体障害者の救済に生涯をささげた。 両手のないままに口に筆をくわえて書画を描き、非凡な才能を示し日展に入選、また日本人としてはじめて世界身体障害者芸術家協会の会員にも選ばれた。 ここ佛光院にあって、順教尼は全国身体障害者の心の母と慕われてきたが、昭和43年4月、奇しくも遭難したと同じ日の21日入寂(にゅうじゃく)した。 享年81才  何事も成せばなるてふ  言の葉を胸にきざみて  生きて来し我れ  順教尼

八幡宮 (吉利倶八幡宮)

平安時代文徳天皇の御代この地を鎮護国家の霊場とすべく社殿を創建し八幡様を勧請されました。 延喜格式を編纂し延喜帝とも称される醍醐天皇が勧修寺建立に際し 身を清められたとされる井もつたえられ その庭園の借景である八幡宮の御山が亀の甲羅のように観えるところから亀甲山と付けられたといわれております。故に神仏習合の時代は勧修寺の鎮守様でもありました。 御祭神に応神天皇・仲哀天皇・神功皇后を祀り 往古は王臣家の崇敬深く社祭には勅使の差遣があり 参詣者は盛んに五穀豊穣・平穏無事を御祈願されておりました。 現在の八幡宮本殿は元禄8年の再建(京都市指定文化財)拝殿は山階宮家の寄進 拝殿前の大きな御神矢は総代会が奉納されたものである。