「タヌキダニのお不動さん」の名で知られる。 4608
京都市
浄蓮華院
八瀬天満宮
祭神として菅原道真(すがわらのみちざね)(八四五~九〇三)を祀る。 道真が亡くなった後、師である叡山(えいざん)法性坊阿闍(ほうしょうぼうあじゃ)梨(り)尊(そん)意(い)(八六六~九四〇)の勧請(かんじょう)により建立されたと伝えられ、社殿の背面扉の内側には、十一面観音絵像が祀られている。 十一面観音は道真の本地仏(仏としての姿)である。 道真が若い時、自己研鑽のため比叡山へ通う折り、此の地で休息したといわれ、江戸時代まで「矢(や)背(せ)天神宮」とも呼ばれたこの辺りの風情は、壬申(じんしん)の乱(六七二)の際,此の地で矢傷を癒した天武(てんむ)天皇以来の歴史を偲ぶことができる。 天満宮社には九つの摂社が祀られ、本殿南側の秋元(あきもと)神社は、宝(ほう)永(えい)七年(一七一〇)比叡山との境界論争勃発の際、八瀬村の利権(租税の免除)を認めた裁決の報恩として、時の幕府老中で,この訴訟の担当者であった秋元(あきもと)但馬(たじまの)守(かみ)喬(たか)知(とも)を祀り、以来毎年「赦免(しゃめん)地踊(ちおど)り」が奉納されている。 また裏山中腹には、足利(あしかが)尊(たか)氏(うじ)に追われ比叡山へ逃れた後(ご)醍醐(だいご)天皇の行(あん)在所(ざいしょ)(天皇が外出した時の仮の御所)があった「御所谷」、境内には、「後醍醐天皇御旧跡」、「復租紀恩碑」、「皇后陛下御歌碑」、「弁慶背比べ石」、「菅公腰掛け石」等の史蹟がある。 天満宮社の例祭は五月五日。 秋元神社の例祭「赦免地踊り」(八瀬郷土文化保存会執行)は十月体育の日の前日夜に実施される
北向山不動院
天台宗の単立寺院で、一般に北向不動の名で親しまれている。 大治五年(1130)、鳥羽上皇の勅願により鳥羽離宮内に創建され、興教(こうきょう)大師を開山としたのが当寺の起こりである。 本堂に大師が自ら仏師康助に刻ませた不動明王(重要文化財)を王城鎮護のため北向に安置した。 そのため、上皇から北向山不動院の名を賜ったといわれる。 久寿二年(1155)、播磨国(兵庫県)大国の庄を寺領として、藤原忠実が中興に当たった。 その後、応仁の乱の兵火など、しばしば災害に遭ったが、幸い本尊不動明王は難を逃れた。 朝廷の保護も厚く、近世に至って復興した。 現在の本堂は、正徳二年(1712)、東山天皇の旧殿を移したものである。 境内鐘楼にかかる梵鐘は二品済深(にほんさいしん)親王の御銘があって、元禄七年(1694)に名士名越浄味によって鋳造されたものである。
仏国寺
天王山と号し、黄檗宗万福寺に属する。 延宝6年(1678)高泉性とん(こうせんしょうとん)和尚がもとこの場所にあった永光寺を復興して仏国寺と名づけたのがはじまりである。 高泉和尚は中国福清の人で寛文元年(1661)隠元禅師の招きで来日し万福寺5世となり、元禄8年(1695)に歿した。 後水尾上皇より「大円覚」の宸筆勅額を賜わり、往時に講堂を完備していたが、明治維新の後、荒廃し、現在本堂と庫裏をとどめるのみである。 本堂には釈迦三尊と毘沙門天を安置する。 境内には、開山高泉碑(重要文化財)があり、正徳元年(1711)鋳造した中国風の銅碑として有名で、高泉和尚の教えをうけた近衛家熈(いえひろ)の撰文である。 また、乞食の郡に交わって有名な桃水和尚らが、江戸初期の代表的茶人、作庭家で伏見奉行でもあった小堀遠州(遠江守政一)の墓などがある。