與杼神社

豊玉姫命(とよたまひめのみこと)、高皇産霊神(たかみおすびのかみ)、速秋津姫命(はやあきつひめのみこと)を祀り、古くは、淀姫(よどひめ)社、又は水垂(みずたれ)社とも呼ばれていた。 社伝によれば、応和年間(961~64)、僧千観内供(せんかんないぐ)が、肥前国(佐賀県)河上村の淀大明神を勧請したことに始まると伝えられている。 当初、水垂町に祀られ、桂川の水上運輸の守護神として人々から崇敬されていたが、明治33年(1900)に淀川改修工事のためここに移された。 境内には、本殿、拝殿、神輿庫(みこしぐら)をはじめ、日大臣(ひだいじん)社、長姫(ながひめ)社、川上社、豊丸社などの各社殿が建てられている。 中でも拝殿は、慶長12年(1607)に建造されたもので、国の重要文化財に指定されている。 毎年11月に行われる例祭は、「淀祭」と呼ばれ、多くの人々で賑う。

宝塔寺

深草山(じんそうざん)と号し、日蓮宗に属する。 寺伝によれば、藤原基経(もとつね)が発願し、昌泰2年(899)藤原時平(ときひら)が大成した極楽寺(ごくらくじ)が起りと伝え、当初真言宗系の寺であったが、徳治2年(1307)住持良桂(りょうけい)が日蓮の法孫日像(にちぞう)に帰依して、日蓮宗に改められた。 また、日像が京都に通じる七つの街道の入口に建てた法華題目の石塔婆の一つを、当寺の日像廟所に奉祀したことに因み、寺名を寶塔寺と改称した。 本堂は、慶長13年(1608)の創建で、堂内には、十界曼荼羅・釈迦如来立像及び日蓮・日像の像を安置している。 行基葺(ぎょうきぶき)の多宝塔は永享11年(1439)以前に建立されたもので、室町時代中期建立の四脚門(しきゃくもん)(総門)とともに、国の重要文化財に指定されている。 本堂背後の七面山(しちめんさん)には、寛文6年(1666)に勧請された七福吉祥の七面大明神(しちめんだいみょうじん)を祀る七面宮があり、そこからの眺めも素晴らしい。

安楽寿院

真言宗の寺 保延三年(一一三七)鳥羽離宮の東殿を寺に改めたことに始まる。 開基は鳥羽上皇、覺法法親王を同志に落慶した。保延五年(一一三九)本御堂(ほんみどう)と呼ばれる三重塔が建立され、続いて九躰阿弥陀堂、焔魔堂、不動堂等が建てられた。 保元元年(一一五六)鳥羽法皇(上皇)が本御塔に葬られた。 鳥羽天皇安楽嘉院陵はそのあとである。 保元二年(一一五七)、皇后美福門院は新御塔を建立、ここは後に近衛天皇の遺骨が納められた。 近衛天皇安楽嘉院南陵がそれであり、現在の多宝塔は慶長十一年(一六〇六)豊臣秀頼により、片桐且元を普請奉行として再興されたものである。 現在の安楽嘉院は真言宗智山派に属し、本阿弥陀如来座像(重要文化財)は鳥羽上皇の御念寺仏と伝えられ、胸に卍が記されているため卍阿弥陀とも呼ばれる。 境内は京都市史跡に指定され、平安時代の三尊石仏、鎌倉時代の石造五輪塔(重要文化財)、冠石が現存し、孔雀明王画像、阿弥陀聖衆来迎図、普賢菩薩画像(いずれも鎌倉時代、重要文化財等)を所蔵する。 なお、当院は鳥羽伏見の戦いのおりには官軍(薩摩軍)の本営となったところである。

乃木神社

当神社は、明治天皇に殉死した陸軍大将乃木希典(まれすけ)(1849~1912)を祀り、伏見桃山御陵のそばの当地に大正5年(1916)有志の人々によって創建された。 うつし世を神去りましし大君の みあとしたひて我はゆくなり 表門は四脚入母屋造(いりもやづくり)、門扉は樹齢3000年の紅檜一幹で、巾6尺3寸余(約1.9メートル)の一枚板である。 境内には、日露戦争のときに第三軍司令部に用いたという中国風の民家、乃木将軍の遺墨、遺品、ゆかりの人々の品などを陳列した宝物館、そして、長府(山口県)にある将軍の生家を模した建物がある。 ◆由緒 大正元年九月十三日、明治天皇の崩御に殉じて乃木将軍御夫妻が自刃された。その誠烈に感激して乃木邸へ来観する人々は日を追って数を増した。そこで当時の東京市長阪谷芳郎男爵等が旧邸を保存し且つ御夫妻の英霊を祀り国民崇敬の祠となさんことを期し、中央乃木会を発足、明治神宮の御鎮座に続いて(大正十二年十一月一日)乃木神社御鎮座祭を執行する。昭和二十年五月二十五日、空襲により本殿以下社殿が焼失したが、全国崇敬者の熱誠により、昭和三十七年九月十三日復興した。 ◆御神徳 乃木将軍の御高徳を一語にして表すならば、忠誠に尽きる。また、明治という光輝ある時代の象徴として御祭神は祀られている。幾世代と時代が変遷しようとも、乃木将軍の自らに対し、そして国に対し誠を以て生涯を貫かれた御事蹟は、稍もすれば忘れがちな、「日本」は我々一人一人の精神の中にあるのだ、という御神訓として生きつづけるであろう。 また、乃木将軍は文武両道の神である。武に於いては一振り振り下ろせば全てを打ち払う王者の剣であり、文に於いては学習院院長時代の御事蹟が示すように教行両全の真の学問の神であらせられる。

藤森神社

素盞鳴命(すさのうのみこと)を主神とし、あわせて神功(じんぐう)皇后、日本武尊(やまとたけるのみこと)など十二柱に及ぶ神々を奉祀し、洛南深草の産土神として崇敬されている古社である。 本殿は、正徳2年(1712)中御門天皇より賜わった宮中内侍所(ないしどころ)(賢所(かしこどころ))の建物といわれる。 また、本殿背後東にある八幡宮は応神天皇を祀り、西にある大将軍社は、磐長(いわなが)姫命を祀る。 とくに、大将軍社は平安遷都のとき、王城守護のため京都の四方に祀られた一つであるといわれ、古来より方除けの神として信仰されている。 社殿は、永享10年(1438)足利義教(よしのり)の造営と伝えられ、重要文化財に指定されている。 なお、毎年5月5日に行われる当社の例祭、藤森祭には、甲冑鎧に身を固めた武者が供奉し、また境内では「駈馬(かけうま)」が行われる。 これは、当社の祭神が、武神と称されることに因むものである。 ◆由緒 平安遷都以前に建立された古社で、素盞鳴(すさのおの)命(みこと)、神(じん)功(ぐう)皇后、日本武尊(やまとたけるのみこと)など十二柱に及ぶ神々を祀り、洛南深草の産土(うぶすな)神(がみ)として崇敬されている。 「菖蒲の節句」発祥の神社として知られ、菖蒲が勝負に通じること、毎年五月五日に行われる藤森祭で曲乗りの妙技で有名な「駈(かけ)馬(うま)神事」が行われることから、勝運と馬の神社として特に信仰が厚い。 また、日本書紀の編者であり、日本最初の学者である舎人親王(とねりしんのう)を祭神としていることから、学問の神としても信仰されている。 本殿は、正徳二年(1712)に中御門(なかみかど)天皇より賜った宮中内(ない)侍所(しどころ)(賢所(かしこどころ))の建物といわれる。また、本殿背後東にある八幡宮は応神天皇を祀り、西にある大将軍社は磐(いわ)長(なが)姫(ひめ)命(のみこと)を祀る。どちらも重要文化財に指定されており、特に、大将軍社は平安遷都のとき、王城守護のため京都の四方に祀(まつ)られた社(やしろ)の一つであるといわれ、古来より方除けの神として信仰されている。 本殿東の、神功皇后が新羅侵攻の際に軍旗を埋納したといわれる旗塚や、二つとない良い水として名付けられたという名水「不二(ふじ)の水」は有名である。 六月の紫陽花(あじさい)が見事で、「紫陽花の宮」とも呼ばれている。

東丸神社

江戸中期の国学者で伏見稲荷大社の社家に生まれた荷田春満(かだのあずままろ)を祭る。 春満は賀茂真淵の師で本居宣長らとともに国学の四大人の一人。 近くに旧宅と墓地がある。 1883年(明治16)春満に正四位が贈られたのを記念して社殿を造営、創祀された。 1936年(昭和11年)に現本殿に改造営される。 以来「学問向上、受験合格」の神として広く崇敬される。 ◆由緒 祭神荷田東丸(春満)大人は、寛文九年(1669)正月三日この地に誕生、本名は羽倉信盛と申し幼少より歌道並びに書道に秀れ、長じては国史、律令、古文古歌、さては諸家の記伝にいたるまで独学にて博く通じ、殊に内容の乏しい形式的な堂上歌道を打破して自由な本来の姿に立ち返らしめんとしました。 元禄十年(1697)29才の時から妙法院宮に歌道の師として進講されましたが、大人は当時幕府が朱子学を政治の指導理念としていたために、書を学ぶ者が極端に漢風にのみ走ることをみて、古学廃絶の危機にあるを憂え、古学復興こそ急務であるとして われならで かけのたれをの たれかよに あかつきつくる こえをまつらむ の一首をのこして文化の中心たる江戸に下向されました。江戸在住の間、大人はあえて師を求めず、日夜独力孜孜として研鑽、傍ら門人達に古学を講じました。 その卓越せる学識は世に聞え高く、享保七年(1722)将軍徳川吉宗は、大人の名声を聞きつたえ幕府の蔵書閲覧をことごとくたのみましたので、大人はその間違いなどを訂正し不審の点は細かく説明されました。 その後も将軍吉宗より建議並び百般の書籍の推薦検閲の特権を与えられ偽本の跡を絶たれました。 享保八年(1723)錦衣帰郷された後も、日夜研究著述を旨とされる傍ら賀茂真淵など門人多数に講義されておりましたが、古学普及のためその宿願たる倭学校を東山の地に創建せんとして幕府に提出すべく「請創造倭学校啓」を著されましたが志もむなしく享保十五年(1730)病を得、ついに元文元年(1736)七月二日、68才をもって帰天せられました。 大人病むの報一たび吉宗将軍の許に達するや、将軍より度々秘薬を贈られました。 東丸大人には著書が夥しくありましたが、そのうち研究の未だ足らざるものを残すは却って後世に災いありと学者的良心から、その臨終に際し待床の童子に命じて手近なものは焼かしめられましたが、今なお神祇道、日本史、律令、格式、有職故実、歌道及び語釈に関する遺著及び遺墨が多数残っています。 されば大人の学徳を偲ぶ有志の人々相寄って荷田旧邸の一部であるこの地に社殿を創建し爾来、「学問守護」の神としてひろく崇敬されることとなりました。 ◆東丸大人と赤穂浪士 東丸大人の逸話のうちで、江戸在住中多数の門人に古典古学を講じておられました。 吉良上野介もまた教えを受けた一人でありましたが、大人(通称 羽倉斎)は彼の日頃の汚行を見聞するに及んで教えることをやめられました。 たまたま元禄十年(1697)に以前から親交のあった大石良雄(内蔵助)の訪問をうけ、その後、堀部弥兵衛、同安兵衛、大高源吾等とも交わり、吉良邸の見取図を作り大高に与え、十二月十四日吉良邸に茶会のあることを探って赤穂浪士を援助したこともありました。 なお当社は御祭神の邸跡の一部に建っていますので伏見稲荷大社と境内が隣接していますが別の神社であることを御承知ください。 ◆「としまいり心願成就」 「としまいり」とは願主の年齢と同じ数だけご祈願を重ねることです この竹棒を歳の数だけ持ち本殿と「としまいりの石」との間を心静かにまわり お願いの都度 持っている竹棒を一本づつ箱に納めてください

法界寺(日野薬師)

東光山と号し、日野薬師ともいう。永承6年(1051)日野資業(ひのすけなり)の本願によって創建された。 もと天台宗であったが、いまは真言宗醍醐派に属する。 代々日野家の一族門葉が資材をなげうって堂塔を整えたので荘厳美麗をきわめていたが、応仁の兵火にかかって焼失し、いまに残るものは本堂(重要文化財)と阿弥陀堂(国宝)の二宇である。 本堂は康正2年(1455)の古建築で、重要文化財指定の本尊薬師如来像(伝・伝教大師作)と脇士日光月光十二神将(伝・運慶作)を安置する。この本尊に祈願すると、授乳の霊験があらたかであるという。 阿弥陀堂は永承年間(1046~1053)に建造され、国宝で定朝式の阿弥陀如来座像を安置している。 これらの仏像は我国美術史上稀世の作として有名である。 ◆由緒 この寺は、藤原氏の北家にあたる日野家の菩提寺で、弘仁十三年(822)、藤原家宗が慈覚大師円仁より贈られた、伝教大師最澄自刻の薬師如来の小像をお祀りし、その後永承六年(1051)、日野資業が薬師如来像を造って、その小像を胎内に収め、薬師堂を建立して寺とした。  当時は観音堂、五大堂等多くの堂塔が立ち並んでいたが、今では本堂と阿弥陀堂を残すのみとなった。一般には日野薬師、乳薬師として知られている。 ◆阿弥陀堂(国宝) 藤原時代に起こった浄土教の流行や、末法思想等の影響で、極楽浄土の具象化として各地に建てられた典型的な阿弥陀堂建築の一つで、平等院鳳凰堂と相前後して建立された。 五間五面の檜皮葺、宝形造で、周囲一間の廂を付し、一見方七間の重曹建築の感がある。屋根には宝珠露盤を置き、屋根の勾配もゆるやかで、外観は、軽妙温雅である。 内部の天井は内陣が折上組入格天井、外陣は化粧屋根裏天井で垂木が感覚的で美しい。須弥壇の昇勾欄、組勾欄の反り具合、擬宝珠の穏やかな線など当時の特徴をよく遺している。 ◆阿弥陀如来坐像(国宝) 平等院鳳凰堂の本尊に最も近い定朝様式の典型的なすぐれた仏像で、寄木造り、漆箔、八角九重の蓮華座の上に飛天光背を背にして坐る。 丈六、上品上生印(弥陀定印)の像で、穏やかな慈容に流れるような衣文をたたんで薄い衣をまとい、弘仁、貞観期の神秘的な表情とは異なった円満豊麗な藤原時代阿弥陀仏を代表するものである。 光背は透彫の飛天光、天蓋も簡素ながら当初のものと思われる。 ◆壁画(重文) 内陣には、阿弥陀如来を取り巻く長押の上の漆喰の壁間に天井壁画が描かれ、法隆寺金堂壁画焼失後、完全なものとしては最古のものとなり、日本絵画史上貴重な存在となった。やさしい眼差し、さわやかな表情の飛天が空中より散華して本尊に供養する姿が軽快なタッチで自由奔放に描かれている。外壁には弥陀の坐像、四天柱には金剛界曼荼羅の諸尊六十四像と宝相華唐草が交互に彩色され、支輪、格天井にも宝相華が描かれている。 ◆薬師堂(重文) 法界寺の本堂で、当初のものは早く消失し、現在のものは、明治三十七年奈良県竜田の伝燈寺本堂を移築したもので、棟木に康正二年(1456)の銘がある。五間四面、単層、屋根は寄棟造、本瓦葺。内部は格子によって内外陣に区切られ、密教道場にふさわしい重厚な建物である。 ◆薬師如来(重文・秘文) 内陣厨子の中に安置されている高さ約80センチ、白木の檀像で、衣文に素晴らしい截金模様(きりがねもよう)がある。西国薬師第38番霊場の本尊で、胎内に伝教大師作と伝えられる胎内仏が蔵さめられている。胎児を宿す婦人の姿として、安産、授乳のご利益があり、特に若い女性の厚い信仰を集め、賓者が絶えない。 ◆十二神将像(重文・非公開) 堂内両脇の厨子に祀られ、小像ながら刀法はきびきびとして見るからに勇壮な姿態を表した鎌倉彫刻の傑作の一つである。 ◆親鸞聖人と日野家 浄土真宗の開祖見真大師親鸞聖人は、この法界寺を創った日野資業から四代後に、今を去る八百余年の昔、承安三年四月一日(陽暦五月二十一日)、皇太后宮大進正五位日野有範を父とし、吉光女を母としてここ法界寺でご誕生になりました。ご両親と早くお別れになりました聖人は、九歳の時に伯父範綱につれられて粟田青蓮院において慈円僧正を戒師としてご得度になりますが、得度された九歳までこの日野でお過ごしになり、ご幼少の頃お父君に手をひかれお母上に抱かれ、初めてみ仏さまのご縁を結ばれたのが、この法界寺の阿弥陀如来です。小さい両手を合わせて日夜合掌礼拝される聖人のお姿が今も堂内に浮かんでくる思いがいたします。比叡山でのご修学、さらに北陸、関東でのご巡化など、ひたすら念仏弘通のため、九十年のご一生をご苦労された親鸞聖人の全生涯は、この日野の里からはじまったわけであり、当時の姿をそのまま今に遺す阿弥陀堂ならびに阿弥陀如来のご尊像こそは、聖人と最も因縁の深い有り難いお堂と言わねばなりません。 また、日本史を彩った女達の一人、室町幕府八代将軍足利義政の正室日野富子も日野家の一族であります。 ◆日野家墓所 日野家一族のご廟所で、玉垣の奥深く苔むした大きい五輪塔姿が聖人の父有範の墓、その他母吉光女、伯父範綱、覚信尼等の廟所となっている。 ◆法界寺裸踊り(京都市登録民俗無形文化財) 元旦より十四日間本堂薬師堂において、五穀豊穣、万民快楽、諸願成就を祈る修正会法会が厳修され、結願日にあたる一月十四日の夜、精進潔斎した少年、青壮年の信徒が二組に分かれ、褌一つの裸形となり、水垢離をとったのち、阿弥陀堂広縁で、裸体をもみ合い、すり合い、両手を頭上高く拍ち合わせ「頂礼(ちょうらい)頂礼」と連呼し、寒夜の空もとどけとばかりに踊りつつ祈願をこめる荘重な祭典が繰り広げられる。 踊りに用いられた下帯の晒を、妊婦の腹帯として使用すると安産するというご利益があり、厚い信仰を集めている。