百丈山(ひゃくじょうざん)と号し、黄檗宗に属する。 宝永年間(1704~1711)、万福寺の千呆(せんがい)和尚の創建と伝えられ、当初は諸堂を完備した大寺であったが、度重なる災火により堂宇を焼失し、現在の本堂は、昭和60年に再建されたものである。 本堂背後の山には、石造釈迦如来像を中心に、十大弟子や五百羅漢、鳥獣などを配した一大石仏群がある。 これは、江戸時代の画家伊藤若冲(じゃくちゅう)が当寺に庵を結び、当寺の住職密山とともに制作したもので、釈迦の生涯を表している。 なお、境内には、若冲の墓及び筆塚が建てられている。 また、門前より少し西へ行った所にある古井戸は、古くから名水として知られ、「茶椀子(ちゃわんこ)の水」と呼ばれて茶の湯に愛好されている。 ◆百丈山五百羅漢 石峰寺 百丈山石峰寺は、宝永年間(1704~1711)黄檗宗第六世賜紫千呆(せんがい)禅師により建立された禅道場である。 以後寛政年間に画家伊藤若冲が当寺に草庵を結び、禅境を好み仏世の霊境を化度利益する事を願い、七代密山和尚の協賛を得て安永の半ばより天明初年まで前後十年余をかけて裏山に五百羅漢を造ったのである。 羅漢とは釈迦の説法を聞き世人より供養される者を言うのであるが、釈迦入滅後その教えを広めた数多の賢者を賛嘆する意味で宗・元時代より五百羅漢の作成が見られる。 我国に於ても室町時代以後この五百羅漢の作成が見られ、その表現は、虚飾のない表情の中に豊かな人間性と美を秘めている。当寺の五百羅漢は若冲が磊落な筆法にて下絵を描き、石工に掘らせたもので釈迦誕生より涅槃に至るものを中心とし諸菩薩、羅漢を一山に安置したものである。永年の風雨を得て丸み、苔寂びその風化に伴う表情や姿態に一段と趣を深めている。 明治以後荒廃していた羅漢山は龍潭和尚の篤志により、草を払い径を開き個々の石仏の趣きをみるによく整理されたものである。 ◆伊藤若冲(いとうじゃくちゅう 1716年~1800年) 江戸時代中期の画家。光琳派より宋・元の古画を学び、後写生を基礎として専ら動植物を描き特に鶏画家として有名である。 京都の青物問屋に生まれた彼は、仏教とくに禅への並々ならぬ傾倒を示し、三十歳代半ばより相国寺の大典禅師に参禅、若冲居士の号をえてから、ひたすら禁欲憎のような生活を守り生涯独身を貫き、子を残さなかった。 晩年隠棲者として石峰寺の古庵に住み、米一斗に一画を報い、斗米翁として、寛政十二年九月十日八十五歳の生涯を閉じた。 当山本堂南に若冲の墓と書家貫名海屋(ぬきなかいおく)の撰文の筆塚が立っている。
京都市
醍醐寺霊宝館
辨財天 長建寺
東光山と号し、真言宗醍醐派に属する。 八臂弁才天(鎌倉時代後期作)を本尊とし、一般に「島の弁天さん」の名で知られている。 元禄12年(1699)、伏見奉行建部内匠頭政宇(たてべたくみのかみまさいえ)が、中書島を開拓するに当り、深草大亀谷即成就院(そくじょうじゅいん)の塔頭多聞院(たもんいん)を当地に移し、弁才天を祀ったのが当寺の起りで、寺名は、建部氏の長寿を願ってこのように名付けられた。 弁才天は、音楽をもって衆生を救う神で、福徳・智恵・財宝をもたらす七福神の一つとして多くの人々の信仰を集めている。 当寺で毎年7月23日に行われる「弁天祭」は、かつては、淀川に御輿(みこし)や篝船(かがりぶね)がくり出す舟渡御が盛大に行われていたが、淀川の河流が変ったことなどにより、昭和26年を最後に途絶えている。 現在は、弁天祭と2月節分祭には、醍醐派修験道の最高の神髄として柴燈(さいとう)大護摩修行が行われている。 また、正月には、現世利益を授かるため多くの参拝者で賑う。 ◆閼伽水(あかすい) 長建寺の本尊は、財宝福徳・出世開運・息災延命・諸芸上達などの福益をもたらす。江戸時代には淀川を往来する廻船の守護神として信仰を集めました。 辧財天は河川が神格化したものといわれ、昔、インドでは水の神として尊崇されていました。 「閼伽水」とは仏に供える水のことをさし、当寺に湧く井戸は酒どころ伏見に湧き出る良質の地下水と同じ水脈です。辧財天に供えられるほか、庭の桜などの銘木を潤すこの水を寺では大切にしており、密教十二天のひとつで、水の神・水天尊も祀られています。
八坂神社御供社
雙林寺
延命院
日體寺
城南宮
平安遷都の際、都の南に国の守護神として創建され、国常立尊(くにのとこたちのみこと)、八千矛神(やちほこのかみ)、神功皇后(じんぐうこうごう)をお祀りする。 平安時代の末、白河上皇によって城南離宮(鳥羽離宮)が造営されると一層崇められ、城南祭では流鏑馬(やぶさめ)や競馬(くらべうま)が行われた。 また、離宮は方違(かたたが)えの宿所や熊野詣での精進所となり、方除の信仰が高まった。承久3年、後鳥羽上皇が城南流鏑馬の武者揃えと称して兵を集め、承久の乱が起きたことは名高い。 江戸時代以来、城南祭では三基の神輿が氏子地域を渡御、「餅祭り」とも称され大いに賑う。 皇室の崇敬厚く、孝明天皇は攘夷祈願の祭に行幸されて吹散(ふきちり)を賜り、慶応4年正月、城南宮に陣を構えた薩摩藩の大砲が轟き、鳥羽・伏見の戦いが始まり、明治維新を迎えた。 日月星を象った三光の御神紋は神功皇后の旗印に因んで方除の御神徳を表し、建築・転宅・交通・旅行安全の神として信仰が深い。 神苑「楽水苑」は「源氏物語 花の庭」と称され、四季の風情に富む名園として名高く、春秋に「曲水の宴」が雅やかに行われる。 ◆歴史の回り舞台 平安遷都の際、都の南に国の守護神として創建された城南宮。国土守護の国常立尊、武勇に秀でた八千矛神(大国主命)、安産と育児の神様でもある息長帯比売命(神功皇后)をお祀りしています。 平安時代の末、交通の要衝でもあり、風光明媚なこの地に白河上皇が壮大な離宮(城南離宮、鳥羽離宮)を造営して院政を開始されると、歌会や宴、船遊びや競馬がしばしば行われ、王朝文化が華麗に花開きました。 また熊野詣でに先立ち、道中の安全を祈って城南離宮で身を清めて出発する慣わしとなり、方角の災いを除く方除・旅行安全の信仰が高まりました。 承久三年(1221)には後鳥羽上皇が城南離宮の流鏑馬揃えと称して武士を集めて承久の乱を起こし、慶応四年(1868)正月、城南宮に陣を構えた薩摩藩の大砲が鳴り響き、烏羽・伏見の戦いが始まりました。 平安貴族の世へ、武士の世へ、そして明治維新へ、ここ城南の地は、新しい時代の幕開けを告げる歴史の舞台です。 ◆三光の紋 神功皇后の旗印にちなむ三光の紋は、日と月と星を組み合わせた極めて珍しいこ神紋で、昼夜の隔てなく遍く及ぶ、城南宮の広大なこ神徳を表しています。 平安朝のたたずまい 流れ造りの本殿、変形入母屋造りの前殿、そして左右に伸びる翼廊が一体となった社殿は、城南宮独特の複合建築、総檜造りです。勾配の緩やかな檜皮葺の屋根をはじめ、飾り金具の細部に至るまで平安時代後期の様式に統一され優美な姿を見せています。 本殿の東側、平安の庭に臨んで建つ寝殿造りの神楽殿では、結婚式や特別祈祷を行っています。 ◆城南祭(神幸祭) 平安時代の末から盛大に行われている歴史ある祭礼。正午過ぎより、それぞれ重さ1.5トン近くある三基の豪華な神輿の渡御が始まり、氏子区域を練り歩きます。夕刻、提灯と松明の明かりの中、神社に神輿が還御する様子は壮観です。祭りに訪れた人々に餅を惜しげも無く振舞う慣わしがあり、「餅祭り」は季語になっています。 ◆源氏物語 花の庭 四季の庭を備えた、光源氏の大邸宅「六条院」の理想の姿を実現するべく白河上皇は城南離宮の造営に取り組んだと言われ、大がかりな造築・造園工事が行われ、時折々の景色には言葉に尽せない風情がありました。城南宮の神苑-楽水苑-には「源氏物語」を彩る百種余りの草木が植栽され、四季の情趣を味わっていただけます。 ◆春の山 城南離宮の築山の一つである春の山。春の草木が次々に花咲き、美しく装います。 ◆平安の庭 社殿を背景に広がる池に、段落ちの滝と遣水が注いでいます。秋の七草から紅葉まで、秋の景色は格別です。 ◆室町の庭 池泉廻遊式の庭園で、歩くたびに景色が変わります。紅枝垂れ桜、舟着き場の藤の花、色とりどりの躑躅を楽しむことができます。お茶席「楽水軒」で、お抹茶を味わいおくつろぎください。 ◆桃山の庭 大きな刈り込みの前に芝生が広がる明るい庭園で、安土・桃山時代の豪壮な気風を映しています。 ◆城南離官の庭 杜若の小道に続く枯山水の庭園。城南の地が最も華やかであった離宮時代の風景を表しています。
新善光寺
安養寺
円山(えんざん)と号し、時宗に属する。 延暦年間(782~806)最澄(伝教大師)が開創したと伝え、法然・親鸞両上人念仏発祥の地・吉水(よしみず)草庵として有名である。 のち、建久年間(1190~1199)に至って慈鎮(じちん)(慈円・関白九条兼実の弟)が中興し、安養寺と称した。 その後、次第に衰微したが、至徳年間(1384~1387)には国阿(こくあ)上人によって再興され、以後、時宗に改まった。 境内には、もと六阿弥坊があって、いずれも林泉の美と眺望に富む楼閣を構え、遊客に席を供して風流行楽の域となった。 しかし、明治維新の際に六坊は廃寺され、また火災にあうなど次第に衰微し、今は門内境内に阿弥陀堂・書院を、飛地の境内(ここから約50メートル南へ下る)には弁天堂、慈鎮和尚多宝塔を残すだけである。 弁天堂は、慈鎮が叡山から勧請(かんじょう)したものといい、技芸上達の祈願の信仰が厚い。 弁天堂の東北隅にある慈鎮和尚多宝塔は、塔身正面に扉を開き、多宝、釈迦二仏が並座する鎌倉時代初期の逸品である。