鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)とともに相国寺の山外塔頭の一つで、室町時代「京都十刹」の一つに数えられた由緒ある禅寺。 法堂(仏殿)「大雄殿(だいおうでん)」は、中二階風の須弥壇があり、仙洞御所から寄進された宝冠釈迦如来像を安置している。 その奥に続く開山塔に勧請開山(かんじょうかいさん)・仏光国師(無学祖元)、勧請開基・無外如大尼像、事実上の開山・夢窓疎石像や大檀那であった高師直(こうのもろなお)の位牌などが祀られている。 高貴な客人を迎えた「上段の間」がある客殿には、江戸後期の原在中筆の襖絵「西湖図」「四季花卉図」「松に猿猴図」が残っている。
京都市
三玄院
妙覚寺
妙覚寺は北竜華具足山と号し、京都日蓮宗名刹三具山および京都十六本山の一つである。 開山は日像上人とされているが、実際には竜華院日実上人が創建した寺である。 はじめ四条大宮、のち二条衣棚(ころものだな)に移ったが、豊臣秀吉の京都都市整理によってこの地に移転した。 この大門は、当寺に残る記録によると、豊臣秀吉が天正18年(1590)に建てた聚楽第の裏門であったものを、寛文3年(1663)当地に移建したものとされているが、この記録よりも少し建築時代は古いという意見もある。 いずれにしても、安土桃山時代の建築であることは間違いなく、寺伝が正確とすれば西本願寺飛雲閣(ひうんかく)、大徳寺方丈、唐門などとともに数少ない聚楽第の遺構である。 城門特有の両潜(りょうくぐり)扉がつけられ、また梁の上には伏兵のできるように空虚が造られてあり、建築史上興味ある建物である。
正受院
慈眼寺
当寺は、福聚山(ふくじゅざん)と号する曹洞宗の寺である。 天正16年(1588)鷹司信房(たかつかさのぶふさ)の北の方(嶽星院(がくせいいん))が、父に当たる熊本城主、佐々陸奥守成政(さつさむつのかみなりまさ)の菩提を弔うため、信秀(信長の父)の伯父に当たる大雲永瑞(えいずい)を請して建立された。 当初、西陣の地に建てられたが、後、寺町丸太町に移され、次いで寛文3年(1663)この地に再建された。 成政は、安土桃山時代の武将で、織田信長に仕え戦功をたてたが、信長歿後の天正15年(1587)、肥後国(熊本県)の検地に際し、住民の反乱を招いた責任を問われ、豊臣秀吉より切腹に処せられた。 境内墓地には、江戸末期の南画家、山本梅逸(ばいいつ)の墓がある。 また、梅逸筆「名花十友図」・「雲龍」、孫億筆「牡丹小禽図」(京都国立博物館寄託)、載文進筆「双鹿図」、曽我蛇足(雪舟の弟子)筆「山水図」等の絵画や、鷹司家愛用の煙草盆等を有する。
岩上神社
伝えによれば,二条堀川付近にあった霊石が六角通(岩上通六角辺り)に遷(うつ)され、更に中和門院(ちゅうわもんいん)(後(ご)陽(よう)成(ぜい)天皇の女御の一人で後(ご)水尾(みずのお)天皇の母)の屋敷の池の畔に遷されると怪異な現象が起きたという。 吼え出したり、すすり泣いたり、子供に化けたり、の類である。 子供に化けたという伝説に因んで「禿童(かむろ)石(いし)」と呼ばれたこともあったという。 持て余した女官たちが遂にたまりかねて蓮乗院(れんじょういん)という真言宗の僧を召したところ、彼はその石を貰い受け、現在地に遷して祀ったという。 その際に「有乳(うにゅう)山 岩上寺」と称した。 以降、授乳、子育ての信仰を集め、地元では「岩上さん」と親しみを込めて呼ばれている。寺は享保(きょうほう)十五年(一七三〇)の大火事「西陣焼け」で堂舎が焼かれ、天明八年(一七八八)の「天明の大火」では荒廃の極みに達した。 明治維新の際には廃寺となったが、大正年間に織物業の千切屋(ちきりや)が敷地内に祠(ほこら)を構え、以降「岩上神社(岩上(いわがみ)祠(し))」となって今に至る。 数奇な運命を経た霊石だけは昔の姿そのままで現在に伝わる。
善行院
昌福寺
玄武神社
祭神として、文徳天皇の皇子である惟喬親王(これたかしんのう)を祀り、別名惟喬社(これたかのやしろ)とも呼ばれている。 社名の玄武とは、青竜、白虎、朱雀とともに王城を守る四神のひとつで、当社が平安京の北にあることから北面の守護神としてこのように名付けられたものである。 当社の起りは、親王の外祖父にあたる紀名虎(きのなとら)が所蔵していた親王寵愛の剣を、元慶年間(877~85)に、当時この地に住んでいた星野茂光が祀ったと伝えられている。 当社では、毎年4月の第二日曜日に、やすらい花が行なわれる。 この民俗芸能は、桜や椿で飾られた風流傘を中心に、鉦、太鼓、笛等で囃しながら、鬼や小鬼が町を踊り歩くもので、平安時代の疫神送りの花鎮めに由来し、芸能の変遷過程を示すものとして貴重なものである。
報恩寺(鳴虎)
前身は定かではないが、室町時代中期までは八宗兼学の寺院として一条高倉付近にあったが、後柏原天皇の勅旨で、1501年(文亀1)慶誉が再興、浄土宗寺院となる。 天正年間(1573~92)現在地に移った。 豊臣秀吉が寺宝の虎の図を聚楽第に持ち帰ったが、夜毎吠えて眠れず、寺に返したという。 「鳴虎図」に四明陶いつの署名があり、宋か明の時代に中国で描かれたと推定される。 門前の石橋は秀吉の侍尼・仁舜尼の寄進で、擬宝珠に慶長七年の銘がある。重文の梵鐘は平安時代末期の作で撞かずの鐘という。 客殿に黒田長政が死去した部屋があり、長政の位牌と、その父・官兵衛(如水)の位牌が安置されている。 観世流家元歴代や、志野流香道家元蜂谷家歴代の菩提寺で、仁舜尼や福山藩祖の阿部正勝等の墓碑を併祠している。










