正しくは家隆山光明遍照院(かりゅうざんこうみょうへんしょういん)石像寺と写し、俗に「釘抜地蔵」ともいう。 弘法大使の開基と伝え、もと真言宗であったが、重源(ちょうげん)上人が中興してから浄土宗となった。 むかし、歌人の藤原定家(ていか)、家隆(いえたか)が住んだところという。 地蔵堂に安置する石造地蔵菩薩(ぼさつ)立像は弘法大使の作と伝え、もろもろの苦しみを抜き取るという親交から苦抜(くぬき)地蔵といい、それがなまって釘抜地蔵といわれる。本堂には行基(ぎょうき)の作と伝える観世音菩薩もあわせてまつっている。 地蔵堂背後の阿弥陀三尊像(立像一、座像二、重要文化財)は、鎌倉初期の傑作で、中尊の阿弥陀如来像は高さ約一、二メートル、元仁元年(1224)伊勢権守(いせごんのかみ)、佐伯朝臣為家(さえきあそんためいえ)によって彫られ、翌年、開眼(かいげん)供養した銘がある。 境内墓地には藤原定家、家隆の墓と伝えるものや、弘法大使三井(さんせい)の一つという加持水(かじすい)がある。
京都市
宝鏡寺 (人形寺)
中世京洛に栄えた尼五山の一つであった景愛寺の法灯を受け継ぐ宝鏡寺は、光厳天皇皇女華林宮惠厳禅尼公が伊勢二見浦で、漁網にかかった聖観世音菩薩を奉じて創建・開山による臨済宗単立の尼門跡寺院。 百々御所(どどのごしょ)の御所号をもつ。 孝明天皇遺愛の人形をはじめ、多くの人形を所蔵、‘人形の寺’として有名。 ふだんは非公開だが、春と秋に人形展が開かれる。 3月1日~4月3日、11月1日~30日の春秋2回、宝鏡寺。長い尼門跡寺院の歴史のなかで、皇室から下賜された人形、歴代の門跡ゆかりの寺宝が多数所蔵されており、これらを中心に寺宝の人形が展示される。 人形愛好家必見の催し。期間中、本堂、阿弥陀堂など特別公開。
阿弥陀寺
蓮臺山・※そう見院・阿弥陀寺、織田信長の法名「※そう見院」を冠する浄土宗寺院・百万遍知恩寺末。信長の帰依を受けた清玉上人開山、当時蓮臺野芝薬師に塔頭十三ケ院、八町四方の伽藍を構えていた織田家の菩提寺。 信長公本廟たる由縁は、天正十年六月二日未明、信長公宿所たる本能寺の異変を清玉上人は察知し、駆けつけるが間に合わず、近習の武士達に遺骸を託され持ち帰る。 その後明智光秀の陣を訪ね、戦闘の停止と、嫡子信忠・森蘭丸等、当日本能寺、二条城にて自刃・討死した織田家中百余名の遺骸の収容・供養を申し出、光秀はこれを受諾、清玉は阿弥陀寺にて供養、墓を建てた。 今も信長はじめ百余名の討死衆の合祀位牌が現存、供養されている。その後秀吉の寺町造成に伴い寺域を縮小、移転され現在の場所に移る。信長公本廟とは、大正六年位階追陞(信長公に正一位を追贈する儀式)の為に宮内庁調査により、阿弥陀寺の信長公墓が廟所であると確認され勅使の来訪があった。 六月二日のみ「信長忌」勤修の為堂内拝観可。併せて各種寺宝公開。 ※名称中「※そう」は手偏に総のつくり
瑞峯院
大田神社
古くは恩多社(おんたしゃ)と呼ばれたこともあり、上賀茂神社の攝社である。祭神には天鈿女命(あめのうずめみこと)と猿田彦命(さるたひこのみこと)を祀っており、延喜(えんぎ)式内の古社で、この付近の沼沢池を開墾して栄えた賀茂氏の崇敬をうけた神社である。 右方東側の沢地を「大田の沢(おおたのさわ)」といい、野生のかきつばたが美しい。藤原俊成(しゅんぜい)卿の古歌に 神山や大田の沢のかきつばた ふかきたのみは 色にみゆらむ と詠われ、平安時代からこの付近の沢地にはかきつばたが咲きみだれて、名勝となっていたようである。 今日でも5月中旬頃には、濃紫、鮮紫の花が美しく咲く。このかきつばたの群落は現在天然記念物に指定されている。 例祭は4月10日と11月10日である。
大仙院
本院は、大徳寺北派の本庵である。 永正6年(1509)に六角近江守政頼がその子古岳宗亘(こかくそうこう)を開祖として創立した。 本堂は、入母屋造(いりもやづくり)・銅板葺で、我国最古の方丈建築遺構といわれ国宝である。 書院も入母屋造・銅板葺で重要文化財である。 庭園は、室町時代の枯山水(かれさんすい)を代表する石庭といわれ、狭い庭に無数の岩石を配して、山と滝と渓流とを表わしており、史跡・特別名勝に指定されている。 ◆由緒 大徳寺北派本庵大仙院は、永正6年(1509)正法大聖国師古岳宗亘禅師が開かれた数ある大徳寺塔頭中でも特に由緒ある名刹であり、室町時代の代表的な枯山水庭園及び方丈建築を有している。襖絵もまた相阿彌(弥)、元信、之信と貴重なものばかりである。大仙院歴代中、三世古渓和尚は、千利休の首を加茂の河原から持ち帰ったことで、七世沢庵和尚は宮本武蔵との関係で有名である。 また、利休を中心とする茶人の系譜は大仙院歴代と密接な関係があり、とりわけ利休と大仙院との関係は種々の逸話によって語り継がれている。 庭園(特別名勝および史蹟) 作者 大聖国師(大仙院開祖 古岳宗亘禅師) 作庭年代:永正6年(1509)約490年前(応仁の乱後の作庭である。) 形態:鶴島と亀島の間に蓬莱山があり、そこから滝の流れ落ちる。石橋の下をくぐり透渡殿の下をくぐった水に一旦堰に落ちて大河となり、石の宝船が浮かび小亀の泳ぐ景色を見せて遂に方丈南側の大海に至る。同じ蓬莱山の滝の水が亀島の前を通って西行すれば方丈北の中海に至る。 ◆枯山水の成立 禅宗の影響 :鎌倉初期に日本に渡来した禅宗の思想が作庭に具体的影響を持ってきたのは室町時代初期頃からである。作庭が禅思想の影響を受けると、庭園の形態が極めて抽象的となる。例えば白砂を敷いて水流を表現する。石を立てて滝の音を現す。大仙院庭園は中期のもので極めて傑作である。 水墨山水画の影響 :同じく禅思想の影響を絵画が受けるとと破墨山水の如き象徴的表現となる。しかし逆に室町時代の絵画の主流であるこの山水画の手法が庭園に影響を与えたとも言える。 政治的経済的影響 :室町時代の文化の担い手であった足利幕府を中心とする貴族・大名等の指導階級が室町中期近くなると、いわゆる下克上と言われるように、政治的に従来の権威を失墜してくると同時に経済的にも逼迫してくる。これに対応して従来のように規模壮大にして自然のままをとり入れた庭園(例-大覚寺の嵯峨離宮の庭園・西芳寺の苔庭・金閣寺の庭園等)を造営することが困難となる。 ◆建築・襖絵 国宝大仙院の方丈は室町時代のものでわが国最古の方丈建築として貴重なものである。 北の書院拾雲軒も沢庵が宮本武蔵に剣道の極意を授けた処として喧伝されているが室町時代の代表的書院建築である。 襖絵には相阿弥(~1525)の瀟湘八景・狩野元信(1476~1559)の花鳥図・同之信(1513~1575)の四季耕作図と何れも室町期障壁画中の名作として世界美術史上欠く事の出来ない存在である。現在、重要文化財に指定されて居る。
敷地神社(わら天神)
祭神のコノハナサクヤヒメは北山天神丘に古代から祭られていたが、1397年(応永4)足利義満が金閣寺造営のさい鎮守神として現在地に遷座した。 昔から安産の神として‘はら帯天神’、‘わら天神’と称えられた。 摂社の六勝神社は開運、学問の神としても知られる。 ◆由緒 敷地神社(わら天神宮)の起源は、太古山背国葛野郡衣笠村に降臨された北山の神です。 六国史を菅原道真が分類編纂した「類聚国史(るいじゅうこくし)」によれば、天長5年(828)に都に大雨、地震があったおり、時の淳和(じゅんな)天皇が勅使を遣わして北山の神に幣(みてぐら)を奉ったと見られることから、その創建は平安建都以前と推測されます。 この地に氷室が設けられることとなり、その夫役として加賀国の人々が移住してきました。彼らは菅生石部神社(現 石川県加賀市)の崇敬者であり、移住にあたりその分霊を勧請し、御祭神を菅生石部神の御母木花開耶姫命と定め、北山の神の西隣に祀りました。 応永4年(1397)、足利三代将軍義満による北山第(後の鹿苑寺(金閣寺))の造営にあたり参拝に不便になったことから、両社を合祀して現在地に遷座、社号を菅生石部神の通称である敷地神社とし、爾来600年になります。当社は単に「天神宮」とも称していました。また、古来より稲わらで編んだ籠でもって神饌を捧げており、やがて抜け落ちたわらを、安産を願う妊婦さんが持ち帰るようになりました。後にそのわらを切り取り、安産のお守りとして妊婦さんに授与するようになったのです。そのわらのお守りの珍しさから「わら天神宮」という名称が広まり定着しました。
菅原院天満宮神社(烏丸の天神さん)
白峯神宮
当神宮は、崇徳(すとく)天皇及び淳仁(じゅんにん)天皇を祀る。 明治天皇は父孝明天皇の遺志を継ぎ、保元の乱により讃岐国(香川県)へ配流になった崇徳天皇の慰霊のため、明治元年(1868)讃岐の白峯陵より神霊を迎えて、創建された。 次いで明治6年(1873)には奈良時代に僧道鏡と恵美押勝の争いにより、淡路島に配流の淳仁天皇の神霊を迎えて合祀された。 例祭は4月14日(淳仁天皇祭)・9月21日(崇徳天皇祭)で、蹴鞠(けまり)や薪能(たきぎのう)が奉納される。 この地は蹴鞠・和歌の宗家飛鳥井家(あすかいけ)の邸跡で、同家の守護神「まり精大明神」が祀られ球技愛好者に崇敬されている。他に「伴緒社(とものおしゃ)」「潜龍社(せんりゅうしゃ)」などの境内社があり、「おがたまの木」は京都市の天然記念物に指定。
光悦寺
大虚山(たいきょざん)と号する日蓮宗の寺である。 当地は、元和元年(1615)徳川家康によりこの地を与えられた本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)が、一族、工匠等と移り住み、芸術郷を築いたところである。 光悦は、刀剣鑑定のほか、書、陶芸、絵画、蒔絵などにも優れ、芸術指導者としても活躍した。 当寺は、本阿弥家の位牌(いはい)堂を光悦没後に、本法寺(ほんぽうじ)の日慈(にちじ)上人を開山に請じて寺に改めたものである。 ◆由緒 この辺の一帯を鷹ケ峰光悦町と称び、元和元年(1615)徳川家康公が本阿弥光悦翁に野屋敷として与えた土地である。 光悦翁はそこに一族縁者をはじめ、種々の工芸にたずさわる多くの職人と共に住居を構え、光悦翁を中心とする工芸集落を営んだ。 又同時に本阿弥家先祖供養の霊屋として位牌堂を設けたが、光悦翁の歿後、寺として日蓮宗光悦寺となり今日に到っている。 境内の一角には苔むした光悦翁の墓碑が、今も鷹ケ峰の松籟を聞きつつ静かに立っている。 ◆本阿弥光悦 本阿弥家は代々刀剣鑑定、磨砺、浄拭を家業とし、今も尚其の業を続けている家柄である。 光悦翁は永禄元年(1558)本阿弥光二を父とし妙秀を母としてその長男に生まれ幼名を次郎三郎と称した。加賀前田侯の扶持200石を父の代より受け、禁裏を始め将軍家及び諸大名の御用をもつとめたが、本業とは不即不離の芸術面にその豊かな才能を以て多くの作品を遺した事は日本文化の上に大きな功績である。 光悦翁が鷹ケ峰に工芸集落を経営したことは前にも述べたが、その創意と指導のもとに作られた多くの作品には作陶に於ける茶碗や、書道絵画における歌巻、色絵版下を書いて出版した光悦謡本等があり其の他蒔絵に彫刻と凡そ多種多様に渉っている。 然もそのいずれもが前人未踏の斬新的な表現法であり、驚嘆の目を見張らないものはない。 書道は、寛永の三筆と称され近衛信尹、松花堂昭乗と共に名筆にうたわれ、多くの秀れた遺品がある。 寛永14年2月3日その偉大な人生80年の幕をとじたのである。 ◆光悦寺の茶席 光悦翁が茶道に於いても一流儀に偏することなく、古田織部や織田有楽斎にも教えをうけ、又千宗旦とも最も深く交わって茶道の奥義を極めた。 本堂に通ずる廻廊の下をくぐり北山杉の木立ちを行けば右側に古池がある。 池の前方に三巴亭茶席がある。三巴亭の南方は光悦翁終焉の大虚庵茶席で此の席は翁の歿後廃滅したが大正4年に至り現在の大虚庵が復興したのである。 光悦垣又は臥牛垣とも称する特徴のある垣根に囲まれた内露地には石灯籠と手水鉢があり、今も昔を偲ばせている。 建物の外観は切り妻造柿葺で前面に附廂があり、入口には板戸二本引きの、にじり口、内部は五帖台目で床の間は土天井とし隅を塗廻として昔の大虚庵茶室の名残を示している。 大虚庵茶室の前方に了寂軒茶席がある。 徳友庵茶席は光悦翁の号徳友斎から採って名づけられたものである。 本阿弥庵茶席は遙かに京都市内を見下す場所に建てられている。 その他騎牛庵茶席等があり光悦寺境内に形成されている茶席の聚落は茶会の催しともなり又杖を引きて光悦翁の人柄をしたい卓越した芸術の新様式を確立した翁への敬慕に集まる人々の心の休息所となっている。










