江戸中期に活躍した絵師、伊藤若冲(じゃくちゅう)ゆかりの寺院で、若冲筆『竹に雄鶏図』、『髑髏図』、若冲の弟・宗巌(白歳)筆『羅漢図』、「若冲派」と称される若演の作品が遺されている。
京都市
浄福寺
恵照山と号し、浄土宗に属する。一つには村雲(むらくも)寺ともいう。はじめ天台宗で延暦年中(782~802)、賢憬大僧都の開創と伝えられ、当時二十五大寺の一つに数えられていた。たびたび火災にあい、建治2年(1276)後宇多天皇の命によって一条村雲に再建、ついで室町時代末の大永5年(1525)後柏原天皇より念仏三昧堂の勅号を賜って浄土宗を兼ねるようになり、のち知恩院に属した。この地に移転したのは元和元年(1615)のことで現堂宇は享保18年(1733)の再建になるものである。 本堂には本尊阿弥陀如来像を安置し、釈迦堂は三国伝来と伝える釈迦仏を安置する。寺宝には、二十五菩薩来迎図(鎌倉時代重要文化財)二幅、土佐光信筆十王像(室町時代重要文化財)十幅などがある。 また境内の墓地には、光格天皇皇女霊妙心院はじめ著名な公卿、殿上人の墓が多い。
雲祥院
徳林寺
玉鳳院
西光寺
葉室御霊神社
霊雲院
霊雲院は室町時代後期、大永6年(1526)薬師寺備後守国長の室・霊雲院清範尼のもとめにより、大休国師がその師・特芳和尚を開山として創立した妙心寺四派本庵の一つである。特芳和尚は雪江和尚の弟子で霊雲派の開祖である。大休国師は識徳一世に高く、後奈良天皇は深く国師に帰依せられてしばしばここに行幸された。 書院(重要文化財)は室町時代末期のもので、西北の間を後奈良天皇御幸の間と伝え、書院造初期の構造を示している。庭園(名勝史跡)は是庵の作と伝え、室町時代末期の枯山水で極めて狭小な地域に絵画的手法をもって樹石を配置している。寺宝に狩野元信筆・紙本水墨淡彩・山水花鳥図49幅(重要文化財)がある。なお、門内左手に哲学者西田幾多郎の墓もある。
直指庵
谷ヶ堂最福寺
松尾、谷ヶ堂、最福寺開山、延朗上人については、元享釋書、太平記、三井寺続燈記、雨月物語等に詳しく記されている。それによると、上人は、但馬国養父郡に生れ、幼にして父母を喪い、元養元年(1144)、15歳にして出家、安元2年47歳の頃帰京、この松尾山麓、神宮寺に住して、最福寺の七堂伽藍を建立された。太平記には、この寺を描写して『奇樹怪石の池上に、都卒の内院を移して四十九院の楼閣を並べ、十二の欄干珠玉天に捧げ、五重の塔婆金銀月を引き、恰も極楽丈殿七宝荘厳の優姿』とある。その後、源義経が寺の更なる興隆を願い、丹波国亀岡篠村施入を強要したので、上人は已むなくこれを受けたが、邑人には、免租や富民の善政を施す一方、当時流行した悪病難病の治療のため、寺内に浴室を造り、自ら病人の病気を癒す等して、多くの民衆の救済に献身し数多く化益、慈悲行を蹟まれ、松尾の上人として尊敬を集めた。最福寺は、その後の幾度の兵火でさしもの大伽藍も焼失し、再建ならずして現在に至る。※毎月12日午後1時より開帳 「焔の夕べ」(延朗上人、さしのべ観音竹とうろう祭) 12日は延朗上人のご命日にあたり、初春の2月11日の日没より供養を行います。延朗上人は数々の歴史の狭間に生きられ、慈悲深い救いのお上人で、かつては霊元天皇の最福寺行幸があったことでも上人の遺徳を偲ぶことができます。太平記には、延朗上人が立てられた最福寺の景勝を描写して、『奇樹怪石の池上に、都卒の内院を移して四十九院の楼閣を並べ、十二の欄干珠玉天に捧げ、五重塔婆金銀月を引き、恰も極楽浄土の七宝荘厳の優姿』とあるほどの寺院でありましたが、多々の戦乱により、今は延朗上人坐像のみになりました。










