京都
玉田神社
玉田の森に鎮座する玉田(たまた)神社は、古来より美豆野神社(みずののかみやしろ)または丹波津宮(たにはつのみや)と称され、御牧郷八箇村、すなわち東一口村・西一口村・釘貫村・相島村・中島村・坊之池村・森村・江ノ口村の郷氏神として明野の崇敬を集めていた。 社伝(日本最初方除八社大明神略記)によれば、元明天皇の和銅三年(710)、当時の祭神は、武甕槌神・軽津主命(ふつぬしのみこと)・天児屋根命・市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)の四神であったが、藤原京から平城京への遷都に際し、皇城鬼門除けの勅願により、応神天皇・仲哀天皇・神功皇后(じんぐう)・武内宿祢命の四神を勘請し、合わせて八神となり、元明・元正両天皇の御代には朝廷より奉幣を賜ったとあり、その後、桓武天皇が山城に遷都されるときも当社に鬼門除けのうかがいをたてられたと伝える。 したがって玉田神社より授与される方除けの御札は、災害方災解除、悪方を吉方に転じて、普請・造作・家の移転・婚礼・旅行・開店などに霊験あらたかな神社として信仰されている。 また当社所蔵の天正14年(1586)の棟札に「丹波津宮」とあることから、寛永14年(1637)淀藩主永井尚政が淀城下町整備のため、木津川付替え工事を行ったが、それ以前は、木津川旧流路沿いの丹波津に鎮座していたのであろう。 丹波津の西には「延喜式」左右馬寮に「山城国美豆厩畠十一町。野地五十町余」とみえる「美豆牧」もあり、先の社伝にいう「代々の帝信仰浅からず」の伝承や、「名馬火鎮由来記」の記述にも当社と朝廷との関係の深さを知ることができる。 ◆宮座と祭礼 神社が「氏の神から土地の神へ」と変わる過程で、祭祀を司る集団も同族的なものから地域における特権的な祭礼者の結合に変わっていった。 このような神事奉仕の集団は、中世に入ると宮座として組織を整え、神事を執行するに際し、参加する特権を持つようになった。 玉田神社の宮座は、玉弓講(たまゆみのこう)・御幣座(ごへいざ)・御箸座・本當座(ほんとうざ)・森座(もりざ)・北相島座(きたおじまざ)・中相島座(なかおじまざ)・明主座(みょうしゅざ)がある。 当家をつとめる家は、門口に青竹を立てて注連縄(しめなわ)を飾り、床の間に設けた祭壇に座の神宝を祀って、一年の間は朝夕欠かさずに洗い米・酒・塩・水・灯明を上げて拝礼する。 秋祭りは10月5日が「おいで」(神幸祭)、8日が宵宮(よいみや)、9日が本祭り(還幸祭)で、宮座は5日に裃姿で社参し、8日の宵宮にそれぞれの座のしきたりによって神前に鏡餅・白蒸などを供える。 そして9日の本祭りには、宮司の先導で宮座の当家は立烏帽子(たてえぼし)・狩衣(かりぎぬ)装束で神宝を捧げて社参する。 ◆名馬火鎮由来記 当社に伝わる「名馬火鎮由来記」によれば、聖武天皇の御代、左大臣橘諸兄公が御牧の地から1頭の名馬を献上した。 ある時、その馬がしきりにいななき続けるので、人々は不思議に思っていたところ、3日後宮中で火災が発生した。 その時は、発見も早く大事には至らなかった。 数日後、再び馬が3日間いななき続けた。 やはり、3日後に内裏が炎に包まれるほどの大火事になった。 すると馬は、くつわをはずして火中に飛び込むと紅蓮の炎は静まった。 天皇は希代の名馬であるといたく感心され、馬に「火鎮(ひしずめ)」の名を与え、明神の化身の神馬であるとして、元の御牧に返された。 その後、火鎮は年を経て亡くなったが、人々は名馬にふさわしい塚を作り、長く火鎮のことを伝えた。 その故事に因み、当社は火鎮(防火)の社として崇敬されている。 ◆土割祭り 7月10日に行われる土割祭りは、降雨を祈願する雨ごいの神事である。社伝によると、昭和7年(1770)は希に見る大干ばつの年であった。5月28日から8月4日まで一滴の雨も降らず、大地は割れ、農作物は枯死してしまった。しかも全村に悪疫が流行し、住民は悲嘆の極に達した。 このため淀藩主稲葉丹後守は悪疫除けと五穀豊穣を願って玉田神社に参詣された。すると不思議にも7日目に大雨が降った。待望の慈雨に農作物は蘇生し、悪疫も消えた。この時以来、玉田神社では7月10日を土割祭りと称して、祭神に湯立神楽を奉納する神事が続けられている。 湯立神楽は熱湯を神前に供えた後、巫女が釜の中の熱湯に神酒を注ぎ、笹の葉を熱湯に浸して勢いよく大地に降り注ぐという神事で、この地方の豊穣と平安を祈願する伝統の行事となっている。