大歳神社

創建養老2年(718)と伝えられ、式内社である。 大歳神 相殿に石作神、豊玉姫を祀ってある。 大歳神は農耕生産厄除を司る神である。 石作神は代々石棺を造っていた豪族の祖神であり、垂仁天皇の后、日葉昨姫おかくれの時石棺を献上し、石作大連公の姓を賜った。 昭和49年愛知県岡崎市石工団地神社に分神する。 例祭は10月21日であるが、10月第3日曜日を氏子祭と定め、江戸中期より引き続き金剛流家元による奉納舞あり。 境内は栢の森と称し、杜を栢の杜とも云う。 平成7年京都市の史蹟となる。

印空寺

その昔、俳人松尾芭蕉が「名月や 池をめぐりて 夜もすがら」と詠んだといわれる広沢池の東200m、「一条山越通」交差点より西へ2軒目にあります。 元禄元年(1688)に印空上人が時の仁和寺門跡覚隆法親王より土地を賜り開山し、明治維新後の荒廃の時期を経て、平成3年(1991)に本堂、山門、庫裡の全てを一新、北山杉、桜、梅、幣辛夷(しでこぶし)、紅葉などが植えられ、作家の冨永航平氏が「二河白道」と名付けられた石庭を取り囲んでいます。 また、「葉書」の語源とされる樹齢300年、高さ15mの多羅葉(たらよう)の樹は京都市保存樹に指定されています。 当寺は印空上人(1692)が美濃国(岐阜県)立政寺から入洛し、時の仁和寺御門跡覚隆法親王猊下より広沢池近くの広大な寺領を賜り、元禄元年(1688)に建立したのが始まりとされます。その後、 中興了海上人(1663~1719)が住持し、寺勢は盛んになりました。 了海上人は土地の人に親しまれ、  ねんねせん子は了海坊にかます   了海坊がこわけりゃ、ちゃとねやれ という子守歌が伝えられています。 明治維新後は次第に荒廃の途を辿りましたが、昭和45年(1970)前住園空瑞元が晋山して寺の復興に努め、浄土宗開宗八百年記念の年、昭和49年(1974)に鐘楼を建立し、平成3年(1991)には檀信徒の協力を得て本堂、山門、庫裡を一新するとともに、境内も二河白道の石庭、北山老杉、梅、辛夷、桜、紅葉などを配し、歴史風土特別保存地区に相応しい山容が整いました。 本尊は阿弥陀知来。この像は地名より「山越の阿弥陀」と称されています。脇仏の観音・勢至の両菩薩像は昭和の人間国宝松久朋琳師の作品です。 本堂西側の仏聞には大黒天を杷っています。この像は明治4年(1871)東京遷都の際、宮中に祀られていたものがその大きさと重さの為に、京都に残されたもので、縁あって一世紀を経て当寺へ安んじられました。 本堂東側の仏間には西国三十三か所各霊場の本尊を安置し、その前には三体の仏像を祀っています。 向かって右側の宝珠観音菩薩立像も松久朋琳師の作で、了海上人遺愛の五色椿を用材としています。左隣の文殊菩薩像は松久宗琳師の作で、一部サルスベリの木を用いた珍しいものです。 左端の弥鞠菩薩立像は、今宿鼎山師の作で桧材が用いられています。

斎明神社

859年(貞観1)伊勢齋王に卜定された文徳天皇皇女恬子内親王が、嵯峨の野の宮に篭られた際、天照大神を祀って潔斎した旧跡と伝え、それに因んで1344年(康永3)天龍寺慈済院の仏慈和尚によって創祀された。 現在の本殿は1771年(明和8)に建てられたもの。 末社には稲荷大神、愛宕大神、八坂大神、天満天神を祭る。 簀屋祢(すやね)に覆われた神明造の本殿と江戸末期に造営された檜皮葺の拝殿とともに、京都市登録有形文化財となっている。 毎年5月第2日曜、例大祭。

下桂御霊神社

御祭神として、左大臣橘諸兄より二代後の左中弁従四位上橘入居の御子橘朝臣逸勢公をお祀りしています。 天下に知られる能書家、特に書に秀でていたため、比叡山などの額にも逸勢公が用いられたほどです。 天皇の仰せにより、唐の国に留学もされ、唐にて秀才公と誉められ、帰国しましたが九州の伴之氏謀反(承和の変)の事件に加わっていたとのこで伊豆に追放されてしまいました。 しかし、途中静岡の三ヶ日の郷で逸勢公が亡くなりました。 やはり逸勢公は元住んでいた王城のことが忘れられなかったのか、都では不思議なことが数多く起きたため、天皇の仰せが出て都に帰っても良いとされた時、すぐに逸勢公を御霊八社の内にお祀りしました。 橘逸勢公をお祀りした下桂御霊神社の創建は、876年(貞観18年)と伝承されています。 例大祭は毎年5月第3日曜日に行っています。 樹齢400年のムクロジの樹があります。