愛宕念仏寺

天台宗。稱徳天皇開基。もとは東山の地に奈良時代に建てられた古刹。 平安初期に鴨川の洪水で堂宇が流失。天台の僧「千観内供」が再興し,等覚山愛宕院と号し、比叡山の末寺となる。 本堂は鎌倉中期の建立で重文。大正時代に奥嵯峨の地に移築された。 内部の天井は繊細な小組格天井で、さらに本尊の位置を二重おりあげ格天井にするなど、他では見られない鎌倉様式の美しい曲線を今にとどめている。 本尊は「厄除け千手観音」。 地蔵堂には、霊験あらたかな火之要慎のお札で知られるあたご本地仏「火除地蔵菩薩」が祭られている。 境内には参拝者の手によって彫られた、1,200躰の石造の羅漢さんが表情豊かに並び、訪れる人の心を和ませてくれています。建立:建立奈良時代、再興延喜時代・毎月24日に法要と住職の法話がある。 当山は寺伝によりますと、聖徳太子の発願によって、愛宕郡(現在の京都市内)に愛宕寺を建立されたとあります。また、江戸期の資料には稱徳(しょうとく)天皇(765~769)が開基とあることなどから、建立は奈良時代以前に建てられた古刹であります。 平安朝の初め、真言宗教王護国寺(東寺)に属していましたが、延喜の初め鴨川の洪水で堂宇が流失しました。この名刹の再興を発願された人皇60代醍醐天皇は、天台宗の僧、阿闍梨伝燈大法師千観内供(あじゃりでんとうだいほつしせんかんないぐ:918~984、内供とは皇居に参内を許される僧位)に命じて七堂伽藍の大寺を再興させ、等覚山愛宕院(とうかくざんおたぎいん)といい爾来(じらい)、天台宗比叡山の末寺になりました。 千観は、中納言橘頼顕卿(ちゅうなごんたちばなよりあききよう)の子として生まれました。伝記によりますと、両親は子なきを悲しみ清水寺本尊の千手観音に昼夜参籠して祈願したところ、ある夜、母は観音から蓮華一茎を授かる夢をみて懐妊したとあります。このことから、千手観音の千と観の二字をいただき、幼名を千観丸といいました。 千観は12才で比叡山に登り、運照内供の弟子となって苦行し顕蜜(けんみつ)の奥旨を修めました。また生涯仏名を唱えて絶えることがなかったので、世に念仏上人ともいわれ、当寺を愛宕念仏寺と称するようになりました。 等学山と号し、天台宗延暦寺派に属する。寺伝によれば、当寺は、聖徳太子の創建といわれ、その後延喜11年(911)醍醐天皇の勅願により、比叡山の僧、千観阿闍梨によって中興されたと伝えられている。 当初は、東山区松原通大和大路東射弓矢町の地にあったが、大正11年(1922)にこの地に移築された。 本堂(重要文化財)は、方5間、単層、入母屋造で、度々移築され、補修を加えられているが、鎌倉時代中期の和様建築の代表的遺構である。堂内には、本尊十一面千手観音像や二十八部衆群像などを安置するが、特に、木造千観内供坐像(重要文化財)は、口を開いて念仏唱名する千観の姿をあらわした、鎌倉時代の肖像彫刻の逸品である。また、地蔵堂には、愛宕山の本地仏の火除け地蔵菩薩坐像を安置している。 境内には、永正9年(1512)の造刻銘のある石塔婆をはじめ、1200体に及ぶ羅漢像が建ち並んでいる。 ◆由緒 当山は称徳天皇(764~770)の開基により山城国愛宕郡に愛宕寺として建立されました。 平安朝の初めには、真言宗教王護国寺(東寺)に属していましたが、鴨川の洪水により堂宇が流失したため、天台宗の僧、阿闍梨伝燈大師千観内供(918~984)によって七堂伽藍の大寺を再興されました。これより天台宗比叡山の末寺となり等覚山愛宕院と号しました。 千観は中納言橘頼顕卿の子として生まれました。両親は信仰の厚かった千手観音にあやかり千と観の二字をいただき、幼名を千観丸と名づけました。  千観は十二才で比叡山に登り、運照内供の弟子となって苦行し顕密の奥旨を修めました。内供とは皇居に参内を許される僧位をいいます。また生涯仏名を唱えて絶えることがなかったので、世に念仏上人ともいわれ、当寺を愛宕念仏寺と称するようになりました。 今に伝わる千観内供像は、口を開け念仏を唱えている姿に造られており、鎌倉時代の彩色寄せ木造りの坐像で肖像彫刻として優れていることから国指定の重要文化財になっています。 当山は、もと東山の地、松原通り弓矢町にありましたが、大正11年堂宇の保存とあたご山との信仰的な関係から、三ケ年をかけて当地に移築されました。 平安時代の本堂は後に兵火にあいましたので、再び鎌倉中期に建てられ現在に続いています。方五間、単層入母屋造り、本瓦茸の簡素な和様建築です。 内部の天井は、繊細な小組格天井でさらに本尊の位置を二重折り上げ格天井にするなど、他にみられない構造であり、また須弥壇の格狭間にも鎌倉様式の美しい曲線をとどめていることから、国指定の重要文化財となっています。 千観は当寺再興の勅命を受けたとき、堂宇の建立に先立ち、まず本尊から造るべきだと考えその本尊に女性三十三才の七難九厄といわれる大厄から守護してくれる法力を加えたいと、一刀三十三礼して千手観音を彫り上げたとされています。 今も厄除けの千手観音として厚い信仰を集めています。 地蔵堂には平安初期に造られた火除け地蔵菩薩坐像が祭られています。これは、火防の神として信仰されているあたご山の本地仏が地蔵菩薩であることから、京の都を火災から守るために本像が造られました。古来火難除けとしてその霊験あらたかな「火之要慎」のお札が今に伝えられています。 仁王門には鎌倉初期に造られた仁王像が祭られています。この期のものとしては、京都市内では最も古く優れたものですから、わが国の彫刻史上にも貴重な存在となっています。 この仁王門は江戸中期のものですが、昭和25年の台風で破損大となりましたので、昭和56年、解体復元修理を行ないました。この時寺門興隆を祈念して、境内を羅漢の石像で充満させたいと発願しました。十年後、その数は千二百躰となり、平成3年11月に「千二百羅漢落慶法要」を厳修しました。表情豊かに並ぶ羅漢さんが訪れる人々の心を和ませてくれます。

退蔵院

臨済宗妙心寺派の大本山である妙心寺の山内は、石畳で結ばれた一つの寺町となっており、46もの塔頭があります。 そのひとつ、今から六百年以上前の応永11年(1404年)に建立された塔頭が退蔵院です。方丈には無因宗因禅師(妙心寺第三世)がまつられています。 退蔵院の境内にはこの方丈を取り囲むように作庭された枯山水庭園「元信の庭」、方丈南方の850坪に及ぶ池泉回遊式庭園「余香苑」と、異なる趣の庭園が広がり、一年を通じて多くの樹木や草木に彩られます。 ◆由緒 妙心寺塔頭。1404年(応永11)波多野出雲守重通が建立。方丈(重文)は慶長年間(1596-1615)の建立。 庭園(名勝・史跡)は、狩野元信の作と伝え、回遊式に観賞式を加味した枯山水の優美な名園。 水墨画の祖といわれる画僧如拙の描いた室町時代の名作瓢鮎(ひょうねん)図(国宝)を所蔵。 昭和の名園(余香苑)は中根金作氏の作で800坪の地泉回遊式庭園。 年中季節の花が咲き江戸時代の水琴窟あり。

善峯寺

当山は天台宗単立寺院で、西国三十三所第20番札所であり、本尊千手観音を祀る。 平安中期の長元2年(1029)源算上人により開かれる。 長元7年(1034)後一条天皇より鎮護国家の勅願所と定められ、「良峯寺」の寺号が下賜される。建久3年(1192)後鳥羽天皇より現在の「善峯寺」の宸額が下賜される。 また白河天皇や後花園天皇により伽藍寄進整備がなされ、後嵯峨天皇や後小松天皇など皇室の御崇敬をうけた。 鎌倉時代には慈鎮和尚や証空上人が住職を勤め、また西山宮道覚入道親王や青蓮院門跡より多くの親王が住され、他にも多数の僧の入山により、室町時代には僧坊52に及んだが、応仁の乱により大半の坊が焼失した。 その後、江戸時代には徳川5代将軍綱吉の生母である桂昌院を大檀那として、現存の鐘楼・観音堂・護摩堂・鎮守社・薬師堂・経堂が復興されて、幾多の貴重な什物が寄進される。 現在の当山は所有地36万坪、境内地3万坪、多くの堂塔伽藍ならびに数百点にのぼる貴重な什物を受継いでいる。桜・あじさい・秋明菊・紅葉など季節の彩り、京都市内の眺望が特徴である。 特に多宝塔前にある、樹齢600年以上の五葉松は国指定天然記念物で「遊龍の松」と呼ばれる。 ◆由緒 善峯寺は、西方浄土の思想から、比叡山の西の連山であるこの西山地方に、長元2年(1029)源算上人が開山された。 源算上人は、恵心僧都の高弟で、因幡国(鳥取)に生まれ、横川(比叡山)の恵心僧都に従い、顕密の蘊奥を極め47歳の時、当山に入られ小堂を結び、十一面千手観音の像を刻み本尊となし、仏法を興隆された。 長元7年9月には、後一条天皇より鎮護国家の勅願所と定められ良峰寺の寺号及び聖詠を賜わった。  「野をもすぎ 山路に向う雨の空 よしみねよりもはるる夕立」 以来歴代天皇の崇敬あつく、中世には青蓮院の宮(法親王)が代々住まわれ、西山の宮(門跡)と称された。 後花園天皇(102代)が伽藍を改築せられ、僧坊52の多きに及んだが、応仁の乱に兵火を免れず焦土と化した。 その後現在の本堂をはじめ諸堂が徳川5代将軍綱吉の母桂昌院の帰依によって再建された。 約3万坪の境内は京都が眼下に見える回遊式庭園となっており、境内には、天然記念物の「遊龍の松」があり、別名「松の寺」とも呼ばれている。西国三十三ヶ所巡りの第二十番札所でもある。 西国二十番札所・洛西一番札所 西山宮門跡  善峯寺  松の寺 (日本一の松) 神経痛・腰痛  入学成就の祈願所 当山は、長元2年(1029)源算上人の開山である。源算上人は、恵心僧都の高弟で、因幡(鳥取)に生まれ、横川(比叡山)の恵心僧都に従い、顕密の蘊奥を極め47歳の時、当山に入られ小堂を結び、十一面千手観音の像を刻み本尊となし、仏法を興隆された。長元7年9月、後一条天皇より、鎮護国家の勅願所と定められ良峰寺の寺号及び聖詠を賜わった。 ゛野をもすぎ 山路に向う雨の空 よしみねよりもはるる夕立゛ 以来歴朝の御崇敬篤く、長久3年、後朱雀天皇、洛東鷲尾寺より本尊仁弘法師作、千手観音像を当山に遷して本尊とし、先の十一面千手観音像を脇立とされた。 白河天皇、諸堂を建立し給い、その後慈鎮和尚善恵上人、その高徳を相嗣がれ、また青蓮院の宮様が代々当寺の住職を勤められた。即ち覚快、道覚、尊道、慈道、尊円、尊證、尊祐、尊真、尊寳、各法親王である。そして西山の宮(門跡)と称された。 後花園天皇(102代)が伽藍を改築せられ、僧坊52の多きに及んだが、応仁の乱に兵火を免れず焦土と化した。 その後徳川五代将軍の母堂桂昌院が当山を復旧され、二百石及び山林42万5千坪を寺領とし明治に至った。 重要文化財として、多宝塔・大元帥明王軸 その他文化財多数有り。 徳川五代将軍綱吉生母。桂昌院ゆかりの品約1200点 寺宝館特別公開期間 春期公開  4月~5月 秋期公開  10月土・日・祝-11月1日~11月30日 神経痛・腰痛に「ならないお守」ぜひお受け下さい。 ●諸堂案内記 ア.山門  桁行4間 梁行2間半  元禄5年(1692)再建。(約300年前) 楼上の本尊文珠菩薩、両脇金剛力士は運慶の作。源頼朝公が寄進された。 イ.観音堂 桁行7間 梁行7間 元禄5年再建 本尊千手観世音菩薩は仁弘法師の作。 脇立千手観世音菩薩は源算上人の作。洛西三十三ヶ所第一番の本尊である。 洛西第一番の御詠歌。 ゛わけのぼる むかうこころは よしみねの みのりをおえし たかきやまかげ゛ ウ.お香水(こうずい)  仏様にお供えするお水で、このお香水を頂けば、長寿のききめがあると伝えられている。 エ.つりがね堂 貞享2年(1685)建立(厄除けの鐘)桂昌院 五代将軍綱吉公厄除の為寄進せらる。 オ.護摩堂(ごまどう) 元禄5年建立 本尊不動明王五大尊を祠る。 カ.゛遊龍゛の松 昭和7年、天然記念物。五葉松 樹齢600年全長54mありましたが、平成6年松くい虫の為十五米余り切る。 安政4年(1857)花山前右大臣家厚公その名を゛遊龍゛と仰せられ、また標石は明治26年、鳥尾中将の揮毫である。゛日本一の松゛と人口に膾炙(かいしゃ)する。 キ.多宝塔 元和7年(1621)賢弘法師再建。重要文化財。 ク.経堂 宝永2年 建立祈願成就のえま堂なり。桂昌院、鉄眼の一切経を当堂に収める。 ケ.開山堂 元禄5年建立 源算上人を祠る。上人117歳像である。長寿を祈願せられたい。 コ.宝篋印塔 鎌倉時代 慈鎮和尚、伝教大師筆の法華経を収める。 サ.桂昌院廟所 宝永2年6月22日寿79歳薨去。遺髪を納める。 シ.十三仏堂 元禄5年建立 当山守護の神を祠る。 ス.釈迦堂 明治18年建立 本尊石仏釈迦如来。源算上人作。 明治初年までは、釈迦岳(海抜630m)に安置されたが、信者の参詣日々に増加して、明治13年に下山を乞い、同18年に当堂が建立された。 セ.薬湯場 当山の百草湯にして、神経痛、腰痛は勿論諸病に特効があり、夏季(5・6・7・8・9・10月)第2日曜日の8時より3時まで入浴随意である。 ソ.けいしょう殿 花山法皇西国中興一千年を記念して、昭和62年建立。 タ.献歌碑 桂昌院筆。 ゛たらちをの 願いをこめし 寺なれば われも忘れじ 南無薬師仏゛ チ.薬師堂 桂昌院の両親祈念せられし薬師さまにして、元禄14年建立。 ツ.蓮華寿院庭 昔・青蓮院の宮々が代々、当地で善峯寺の住職された所にして、西山宮又は、御所屋敷と称し、蓮華寿院と云う。 テ.青蓮院の宮御廟 覚快法親王以下代々宮の御廟所なり。 ト.青蓮の滝 滝の竿石は、京都青蓮院門跡より拝受せしものなり。 ナ.阿弥陀堂 寛文13年(1673)建立 本尊宝冠阿弥陀如来で常行三昧道場として常行堂ともいう。堂内には信者の位牌を安置。 ニ.枝垂れ桜ともみじ 桂昌院お手植え。樹齢300年。桂昌院がこよなくこの寺を思い、 ゛春は花 秋はもみじの むすび木は この世の幸 めでたかりけり゛と詠まれた。

化野念仏寺

華西山東漸院(かさいざんとうぜんいん)と号する浄土宗の寺である。 化野は古来より鳥辺野(とりべの)、蓮台野(れんだいの)とともに葬地として知られ、和歌では「化野の露」として人生の無常をあらわす枕詞(まくらことば)に使われている。 寺伝によれば当寺は空海が弘仁年間(810~824)に、小倉山寄りを金剛界、曼荼羅(まんだら)山寄りを胎蔵界と見立てて、千体の石仏を埋め、中間を流れる川(曼荼羅川)の河原に五智如来の石仏を立て、一宇を建立し、五智如来寺と称したのが始まりといわれている。 当初は真言宗であったが鎌倉時代の初期に法然の常念仏道場となり浄土宗に改められ、名も念仏寺と呼ばれるようになった。 正徳2年(1712)に黒田如水の外孫の寂道(じゃくどう)が再建したといわれている本堂には、本尊の阿弥陀如来坐像を安置し、境内には西院(さい)の河原を現出した多数の石塔石仏が立ち並んでいる。 なお、毎年8月23、24日の両日には、これらの石塔石仏に灯を供える千灯供養が行われ、多くの参詣者で賑わう。 ◆由緒 寺伝によれば、化野の地にお寺が建立されたのは、約千百年前、弘法大師が、五智山如来寺を開創され、野ざらしとなっていた遺骸を埋葬したと伝えられる。その後、法然上人の常念仏道場となり、現在、華西山東漸寺念仏寺と称し浄土宗に属する。本尊阿弥陀仏座像は湛慶の作、参道の釈迦・彌陀二尊の石仏と共に鎌倉彫刻の秀作とされている。現在の本堂は・庫裡は、正徳2年(1712)11月、岡山より来た寂道和尚によって中興されたものである。 境内にまつる八千体を数える石仏・石塔は往古あだし野一帯に葬られた人々のお墓である。何百年という歳月を経て無縁仏と化し、あだし野の山野に散乱埋没していた石仏を明治中期、地元の人々の協力を得て集め、釈尊宝塔説法を聴く人々になぞらえ配列安祀している。この無縁仏の霊にローソクをお供えする千灯供養は、地蔵盆の夕刻よりおこなわれ、光と闇と石仏が織りなす光景は浄土具現の感があり、多くの参詣がある。 石仏や石塔が、肩をよせ合う姿は空也上人の地蔵和讃に これはこの世の事ならず死出の山路のすそのなるさいの河原の物語・・・ もどり児が河原の石をとりあつめもれにて廻向の塔をつむ 一重つんでは父の為二重つんでは母の為・・・ とあるように、嬰児が一つ二つと石を積み上げた河原の有様を想わせる事から西院の河原という。 あだし野は化野と記す。「あだし」とは、はかない、むなしいとの意で、又「化」の字は「生」が化して「死」となり、この世に再び生まれ化る事や、極楽浄土に往生する願いなどを意図している。この地は古来より葬送の地で、初めは風葬であったが、後世土葬となり人々が石仏を奉り、永遠の別離を悲しんだ所である。 兼好法師の徒然草に あだし野の露消ゆる時なく鳥部山の烟立ちさらでのみ住果つる習ならば如何に物の哀もなからん世は定めなきこそいみじけれ としるされ、 式子内親王は、 暮るる間も 待つべき世かはあだし野の 松風の露に嵐たつなり と歌い、 西行法師も 誰とても 留るべきかはあだし野の 草の葉毎にすがる白露 と人の命のはかなさを詠んでいる。 竹林と多聞塀を背景に茅屋根の小さなお堂は、この世の光はもとより母親の顔すら見ることもなく露と消えた「みず子」の霊を供養するみず子地蔵尊で、毎月お地蔵様の縁日には、本堂にみず子地蔵尊画像をおまつりする。 [千灯供養] 毎年八月二十三日、二十四日の地蔵盆の夕刻、境内にまつられた多くの無縁仏にろうそくをお供えする行事です。平安から鎌倉時代にかけ、繰り返された戦乱や疫病で、人の命ははかなく、この地は東の鳥部野、北の蓮台野と共に、西の化野(あだしの)として風葬の地であったと云われています。 人々によって、死者の供養の為に少しずつ石仏がまつられましたが、時代の変化に伴い地中に埋もれていったとされています。 一帯に埋没、散乱した石仏は明治時代中頃に境内に集められ、現在の姿にまつられました。以後、信者の方々や地元の人々の協力により、供養として蝋燭が供えられたことが千灯供養の始まりといわれています。 これら多くの石仏は、今でこそ無縁仏となっていますが、時代を遡っていけば、私達のご先祖様もいらっしゃるかもしれません。そういう意味では決して私達とは無縁ではないのです。先に述べた化野の歴史的背景において、長い時代を経て再びおまつりされた石仏に、きっと何かのご縁があるものと思ってろうそくをお供えください。

広隆寺

603年(推古天皇11年)秦河勝が聖徳太子から賜った仏像を本尊として建立した京都最古の寺。 その本尊が国宝指定第1号の弥勒菩薩像。 桂宮院(国宝)は法隆寺の夢殿に似た単層八角円堂。 10月の‘牛祭’は京都三大奇祭の一つ。真言宗。 建立:603年(飛鳥時代) ◆由緒 広隆寺は、推古天皇十一年(603)に建立された山城最古の寺院であり、四天王寺、法隆寺等と共に聖徳太子建立の日本七大寺の一つである。 この寺の名称は、古くは蜂岡寺と云い、また秦寺、秦公寺、葛野寺、太秦寺などと云われたが、今日では一般に広隆寺と呼ばれている。 広隆寺の成立に就いて、日本書紀に次のように載っている。 十一年十一月已亥朔。皇太子謂諸大夫曰。我有尊仏像。誰得是像以恭拝。時秦造河勝進曰。臣拝之。便受仏像。因以造蜂岡寺。 以上のように秦河勝が聖徳太子から仏像を賜わり、それを御本尊として建立した事がわかり、この御本尊が現存する弥勒菩薩であることも広隆寺資財交替実録帳を見ると明らかである。 さて、秦氏族が大勢で日本に帰化したのは書紀によると、第十五代応神天皇の十六年で、養蚕機織の業が主であったが、その外に大陸や半島の先進文明を我が国に輸入することにも努め農耕、醸酒等、当時の地方産業発達に貢献していた。 我が国に大陸文明を移し産業と文化の発達の源流、経済の中心ともなった太秦の、この広隆寺こそは、仏教を興隆して文化の向上を図り、民衆の和合を熱願された聖徳太子の理想の実現に尽力した秦氏の功業を伝える最も重要な遺蹟であり、信仰と芸術の美しい調和と民族の貴い融和協調とを如実に語る日本文化の一大宝庫である。 広隆寺は、弘仁九年(818)に火災に遭ったが、秦氏出身の道昌僧都によって再興、更に久安六年(1150)にも炎上し、永万元年に復興された。このように、度々の災禍にも拘わらず、多くの仏像がよく保存された事を思うと、これらの仏像がいかに強い信仰の対象となっていたかがうかがわれる。 ◆講堂(重要文化財) 永万元年(1165)に再建された京洛最古の建物で、俗に赤堂と呼ばれている。中央に本尊阿弥陀如来坐像(国宝)を、向って右に地蔵菩薩坐像、左に虚空蔵菩薩坐像を安置してある。 ◆太秦殿 太秦明神、漢織女(あやはとりめ)、呉秦女(くれはとりめ)を祀る。 ◆上宮王院太子殿(本堂) 享保十五年(1730)に建立された桧皮葺入母屋造のこの堂は、本尊に聖徳太子像を安置している。この太子像には、太子の偉徳功業を景仰せられる歴代天皇が、即位大礼に御着用の黄櫨染桐竹鳳麟御袍御束帯を贈進される御例になっており、毎年十一月二十二日に開扉される。 ◆桂宮院本堂(国宝)別名 八角円堂(四・五・十・十一月の日曜・祝日のみ公開) 聖徳太子が楓野別宮を起こされたところと伝えられ現在は広隆寺の奥の院と称される。現在の建物は建長三年(1251)に中観上人澄禅により再建された。 ◆新霊宝殿 飛鳥時代の弥勒菩薩半跏思惟像(国宝)をはじめ、天平・弘仁・貞観・藤原・鎌倉と各時代の仏像を祀る。 ◆地蔵堂 平安時代に我国繁栄の為に弘法大師が諸人安産、子孫繁栄の御誓願に基き御製作になった腹帯地蔵尊である。 ◆薬師堂 阿弥陀三尊立像、薬師如来立像、不動明王 道昌僧都 弘法大師 理源大師を祀る。 ◆弥勒菩薩半跏思惟像(国宝) 我が国で最も古く最も美しいこの弥勒像は、永遠の微笑で人々を苦しみから救ってくださる仏さまです。細い眼、はっきりした眉、それにつゞく通った鼻すじによって、まことにすっきりと整えられていて、唇の両端にやや力をこめているために多少微笑を含んでいるように感ずる。両手の表現は変化があり優雅な趣に溢れ、特に右腕の力ーブの線が美しく、そして、両足を被う裳が台座に垂れかゝる部分は皺を顕著に表わし、又、衣端に変化を与えている点は上方の簡素な表現と対照的で非常に美しいのである。 用材は赤松であり、製作は飛烏時代であるが、この時代の彫刻でこれ程人間的なものはないと同時に、人間の純化がこれ程神的なものに近附いていることも他に類をみない。

法輪寺(嵯峨の虚空蔵さん)

和銅6年(713)行基(ぎょうぎ)菩薩の開基と伝え、古義真言宗(こぎしんごんしゅう)に属する。 もと葛井(くずい)寺と称したが、弘法大師の高弟の道昌僧正が貞観10年(868)堂塔をおこして法輪寺と改め、弘法大師の修行の遺跡として有名な境内の葛井(かどのい)に姿を現した虚空蔵菩薩を自ら彫って本尊としたと伝える。 奥州柳井津、伊勢朝熊(あさま)とともに日本三大虚空蔵といわれ、智福技芸の守護仏として信仰されている。 天慶年間(938~947)に空也上人が参籠し、勧進によって堂塔を修造した。 本尊は幼年期から成長期に移ろうとする人生の転換期を守護されるというので、毎年4月13日に13才になる男女が参詣する。 これを十三詣りという。 本堂は元治元年(1864)の兵火にかかって焼失したのを明治になって再建したもので、堂内には本尊の傍らに持国(じこく)天、多聞天立像二体(重要文化財)を安置する。

大覚寺

嵯嵯峨山と号する真言宗大覚寺派の大本山である。 当山は、嵯峨天皇の離宮嵯峨院の一部で、天皇崩御の後の貞観18年(876)に寺に改められ、大覚寺と名付けられた。 その後一時荒廃したが、徳治2年(1307)に後宇多天皇が入寺し、寺を復興するとともに大覚寺統を形成した。 以後、持明院統と皇位継承について争い、明徳3年(1392)当寺で南北両朝の媾和が成立した。 宸殿は、後水尾天皇の中宮東福門院の旧殿を移築したもので、内部は、狩野山楽筆の「牡丹図」、「紅白梅図」などの豪華な襖絵で飾られている。 その外、御影堂(みえどう)、霊明殿(れいめいでん)、五大堂、安井堂、正寝殿(しょうしんでん)、庫裏などの堂宇が建ち並び、旧御所の絢爛さを今に伝えている。 ◆由緒 嵯峨山と号する真言宗大覚寺派の総本山である。当山は、嵯峨天皇の離宮嵯峨院の一部で天皇崩御の後の貞観18年(876)に寺と改められ、大覚寺と名付けられた。 その後、一時荒廃したが、徳治元年(1308)に後宇多天皇が入寺し、寺を復興すると共に大覚寺統を形成した。以後、持明院統と皇位継承について争い、明徳三年(1392)当寺で南北両朝の媾和が成立した。宸殿は、後水尾天皇の中宮東福院の旧殿を移築したものと伝え、内部は、狩野山楽筆の「牡丹図」、「紅梅図」などの豪華な絵で飾られている。その外御影堂、霊明殿、五大堂、安井堂、正寝殿、庫裏などの堂宇が建ち並び、旧御所の絢爛さを今に伝えている。 ◆五大堂 大覚寺の古文書の中に「嵯峨天皇の勅願により嵯峨離宮に嵯峨五台山明王院五大堂を建立し、弘法大師が入唐した折 大唐より伝わった。 五大明王(重要文化財につき宝物殿に安置)を奉祀し、弘仁2年(811)3月11日に利民安世、五大明王秘法を修し給う。たちまち、五風十雨節序にしたがい百穀豊饒し、万民其澤に潤う」と、その由来が伝えられています。 現在の建物は、江戸時代の天明年間(1781~89)に再建されたもので、大覚寺の本堂です。本来は境内中央、勅使門の正面(現在の石舞台)の位置にありましたが、大正14年(1925)大正天皇即位式の饗応殿が下賜され御影堂(心経前殿)として建築されたため、現在地に移築されました。 また、現在お祀りされている本尊は、大覚寺創建1100年を記念して昭和50年(1975)に京都の大仏師松久朋琳と人間国宝松久宗琳の手で新しく造像されたものです。 近畿三十六不動尊第十三番の霊場として多くの人々に親しまれております。  ◆嵯峨菊の由来 嵯峨菊は旧嵯峨御所大覚寺境内の大沢池にある菊ヶ島に源を発し嵯峨帝がこの菊を親しくお挿しになった故事がある。 また、平安朝の歌人 紀友則は、「一本と思ひし菊を大沢の池の底にも誰か植ゑけん」と詠んでいる。 この嵯峨独特の野菊を、永年に亘り王朝の感覚を以って育成し、一つの型に仕立て上げた、風情のある洗練された格調高い菊が嵯峨菊である。この菊の仕立ては一鉢に三本立とし、長さは二メートルにする。 これは殿上から鑑賞されるに便利なよう高く育てる為である。 花は先端に三輪、中に五輪、下に七輪で七・五・三とし、葉は下を黄色に、中程は緑、上の方は淡緑になるようにする。花弁は平弁で五十四弁、長さは約十センチが理想の嵯峨菊の型であり、淡色の花が色とりどりに妍を競い高い香をただよわせる。 ◆大沢池 庭湖ともいい日本最初の庭池で最も古い庭園といわれています 池には天神島と菊ヶ島の二つの島と巨勢金岡(こせのかなおか)が配置したといわれる庭湖石(ていこせき)があります この二島一石の配置が嵯峨御流いけばなの基盤となっています 遠くの山並みは東山連峰で正面の山は大文字山(如意ヶ岳)左手前は朝原山(遍照寺山)です この観月台からの中秋の名月は有名で 松尾芭蕉の   名月や 池をめぐりて 夜もすがら と句にも詠まれています。  また、左手奥には多宝塔や藤原公任が詠んだ   滝の音は絶えて久しくなりぬれど     名こそ流れてなほ聞こえけれ の名古曽の滝の石組み跡があります。 また 平安時代から鎌倉時代にかけての石仏(野仏)がみられ名勝に指定されています ◆霊明殿(れいめいでん) 昭和十一年の二・二六事件の凶弾に倒れた斎藤実第三十一代内閣総理大臣は昭和恐慌の折、国民の自力更正を願って昭和五年に東京都沼袋に自費で日仏寺を建立しました。その本堂を、大覚寺第五十二世草繋全宜(くさなぎぜんぎ)門跡が昭和三十三年に当地に移築し、霊明殿としたものです。正面には御本尊の阿弥陀如来を、右側には草繋門跡をお祀りしています。平成十一年、東京・招福不動住職斑目(まだらめ)日光僧正の寄進により修復され、移築当時の鮮やかな漆・丹塗がよみがえりました。 ◆貴賓館(きひんかん)・秩父宮御殿(ちちぶのみやごてん) 大正十二年、当時東宮仮御所であった霞ヶ関離宮に建てられたもの。昭和四十六年 大覚寺にご下賜されました。昭和四十八年移築復元され、現在は大覚寺の貴賓館です。竣工式には秩父宮妃殿下のご来臨をいただき、ご見分を賜りました。 ◆庭湖館(ていこかん) 江戸中期に建てられた大沢池畔にあった休憩所で、明治元年、現在地に移築されました。上段の間には、江戸時代の名僧慈雲(じうん)尊者の大幅掛軸「六大無礙(むげ)ニシテ常ニ瑜伽(ゆが)ナリ」が掛かっており「六大の間」と呼ばれています。 ◆心経殿(勅封心経殿) 大正十四年(一九二五年)の建立で法隆寺の夢殿を模した八角形で高床式のコンクリート造りの建物です。殿内には嵯峨天皇をはじめ後光巌、後花園、後奈良、正親町(おおぎまち)、光格天皇の般若心経の御写経が納められ薬師如来立像が奉伺されています。この勅封写経は天皇の命により封印をした経典として奉られ六十年に一度開封されています。 この建物は平成十年(一九九八年)に文化庁から「登録有形文化財」に指定されました。

祇王寺

往生院祇王寺と号する真言宗の寺である。 寺伝によれば、この地は、平安時代に、法然上人の弟子、念仏房良鎮(りょうちん)が往生院を開創し、後に祇王寺と呼ばれるようになったと伝えられている。 平家物語によれば、祇王は、平清盛に仕えた白拍子であったが、仏御前の出現により清盛の心が離れてしまったので、母刀自(とじ)、妹祇女と共に出家し、当地に移り住んだ。 後には、仏御前も加わり、念仏三昧の余生を送ったと伝えられている。 現在の本堂は、明治28年(1895)に再建されたもので、堂内には、本尊大日如来像をはじめ、平清盛と祇王ら四人の尼僧像を安置している。 境内には、祇王姉妹等の墓と伝える宝筐印塔及び平清盛の供養塔などがある。 「平家物語」の遺跡。平清盛が愛した祇王、仏御前がのちに妹の祇女、母刀自とともに尼僧として余生を過ごした、と伝える。 真言宗。本尊大日如来のほか、清盛、祇王・祇女らの木像を安置。祇王・祇女の墓といわれる宝筐印塔、鎌倉時代の作とされる清盛の五輪の石塔がある紅葉の名所。 紙王寺は竹林と楓に閉まれたつつましやかな草庵で、『平家物税問』にも笠場し、平山市盛の飽愛を受けた内拍子の祇£が消肢の心変わりにより都を追われるように去り、母と妹とともに出家、入寺した悲恋の尼寺として知られております。 紙王寺は北口の往生院の境内にあり、往生院は法然上人の門弟良鋲によって創建されたと伝わっています。山上山下にわたって広い寺域を占めていた往生院も後年は北廃し、ささやかな尼寺として残り、後に紙王寺と呼ばれるようになりました。 紙王寺墓地の入口にある碑には「妓王妓女仰刀自の旧跡明和八年半卯正当六百年己心往生院現住尼法専建之」とあって、 この碑の右側に「性如禅尼承安二(1172)年壬辰八月十五日寂」と刻まれているのは紙王のことと思われます。 紙王寺は明治初年に廃寺となりましたが残された慕と仏像は旧地頭の大覚寺によって保管されました。大覚寺門跡の楠玉諦師はこれを惜しみ、再建を計画していた時に、元京都府知事北垣国道氏が祇王の話を聞き明治28年に嵯峨にあった別荘一棟を寄付されました。これが現在の紙王寺の建物です。これらの関係から祇王寺は真言宗大覚寺派の寺院で、旧嵯峨御所大覚寺の塔頭寺院ともなっています。