臨済宗・天龍寺塔頭。 寛正2年(1461年)聖仲永光禅師を開山に迎え創建。 もとは上京区禅昌院町にあり、細川頼之の昭堂を寺としたという。 応仁の乱の兵火に会うなどしたが、豊臣秀吉の恩顧によって再建。 昭和47年より天龍寺塔頭弘源寺の境内にあったが、平成14年1月に現在地に移り再興した。 「都林泉名勝図会」にも掲載された、嵐山を借景とする回遊式庭園「獅子吼の庭」は紅葉と巨岩を配した庭園である。 本堂障壁画「風河燦燦三三自在」(田村能里子画伯筆)がある。特別公開時のみ。 平成15年に、庭園内に大正時代に建てられた茶室が修復を終え、「青嶂軒(せいしょうけん)」と名付けられ、茶会会場としても利用されるようになった。 ◆由緒 大亀山宝厳院は臨済宗大本山天龍寺の塔頭寺院で寛正二年(1461)室町幕府の管領細川頼之公により天龍寺開山夢窓国師の第三世法孫聖仲永光禅師を開山に迎え創建された。 創建時は、京都市上京区に有り広大な境内を有した寺院であった。応仁の乱により焼失したが再建され天正年間には、豊臣秀吉より御朱印料三十二石を付与、徳川幕府も明治に至るまで外護した由緒寺院である。その後、変遷を経て天龍寺塔頭弘源寺境内に移転の後、現在地(旧塔頭寺院跡)に移転再興された。 本堂には、本尊聖観世音菩薩、脇仏に三十三体の観世音菩薩、足利尊氏が信仰したと寺伝にある地蔵菩薩像が祀られており、西国三十三ケ所巡りに等しいと伝えられている。 ◆獅子吼の庭 この庭園は室町時代に中国に二度渡った禅僧策彦周良禅師によって作庭された名園で嵐山を巧みに取り入れた借景回遊式庭園である。「獅子吼」とは「仏が説法する」の意味で、庭園内を散策し、鳥の声、風の音を聴く事によって人生の真理、正道を肌で感じ心が大変癒される庭である。 庭園内には須弥山を現す築山、その前には人生を思わせる「苦海」(空池)が広がり対岸には「雲上三尊石」が有り海の中には、「此岸」より「彼岸」に渡る舟石、仏の元に渡る獣石が配置されている。また策彦禅師が命名された「獅子岩」、「碧岩」や「響岩」といった巨岩を身近に観る事が出来る。回遊路の途中には「破岩の松」が天に向かって真っすぐ生えているのを見ると「願心」の大切さを痛感する。 また、この庭園は江戸時代、京都の名所名園を収録した「都林泉名勝図会」(秋里籬島著)にも掲載された名園中の名園である。 春は新緑、秋は紅葉と一年を通して目を楽しませてくれる。 門前には、「嵐山羅漠」が祀られており、「羅漢」とは釈尊の弟子で崇高な修行者、「悟りを得た人」を意味する。「五百羅漢」を天下の景勝地・嵐山に建立する事により、人類の安心立命と嵐山の守護・景観保全を祈念するとともに、有縁無縁の菩提を弔うものである。 夢窓国師日く『山水ニハ得失ナシ、得失ハ人ノ心ニアリ』
京都
神護寺
高雄山と号し、高野山真言宗の別格本山である。当寺の起原は、もと高雄山寺といい、天応元年(781)愛宕(あたご)五坊の一つとして建立されたといわれ、また和気清麿(わけのきよまろ)が河内(かわち)国(大阪府)に建てた神願寺を天長元年(824)この地に移し、空海(くうかい)(弘法(こうばう)大師)が住持となって、神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ)と改稱した。 その後寺運は次第に衰え、寿永三年(1184)文覚(もんかく)上人の中興もあったが、応仁の乱で再び衰え、豊臣・徳川氏などによって漸次修営され、現在に至っている。 大師堂(重要文化財)は桃山時代に再建されたもので納涼房といって、もと空海の住房であったと伝える。また鐘楼にかかる銅鐘(国宝)は貞観(じょうがん)一七年(875)の鋳造で橘広相(たちばなひろみ)の序詞・菅原是善(これよし)の撰銘・藤原敏行の書で古来三絶の鐘といい、著名である。金堂内の薬師如来立像・多宝塔内の五大虚空蔵(ごだいこくぞう)菩薩坐像(いずれも国宝)のほか、多くの重要文化財を有する。 境内の大師堂(重文)は桃山時代の再建であるが、そのほか平安時代初期より鎌倉時代初期にわたる多くの寺宝(国宝16点・重文2372点)を有している。 なお、境内西端、地蔵院前で行う土器(かわらけ)投げは、高尾名物として来山者の興趣をそそる。 ◆神護寺もうで 京の郊外の清遊地として古くから知られる、三尾の一つ高雄へは、都心から自動車でなら三十分を要せずして、錦織りなす清滝川のほとりに達します。 「もみじといえぱ高雄」のここ神護寺の、約20万平方メートル(60,400坪)の山内全域は、木々の緑と紅葉におおわれて、朱の金堂はカエデと色をきそい、大師堂は七世紀間の風雪に堪えてひっそりと静まり、多宝塔は緑をぬきん出て建ち、絵筆に描き尽くせぬ美しさです。 境内最西端の地蔵院の庭からながめる、清滝川の清流がつくる錦雲峡は、有名な「かわらけ投げ」のかわらけの、ゆくえを定めかねる、千仞の渓谷です。 春は桜が満山をかざり、夏は蝉しぐれに明け、河鹿、ひぐらしの声に暮れ、冬は雪に埋もれてこよなく美しい、当神護寺は、四季を通じて自然の美しさにつつまれて、しみじみと人の世のあり方を考えるのによい環境です。 ◆神護寺のはじまり 平安京造営(794~)の最高責任者(造宮大夫)であった和気清麿公が、いまの愛宕神社の前身、愛宕山白雲寺などとともに建てた愛宕五坊の一つで、「高雄山寺」とよばれたが、天長元年(824)、河内(大阪府)の神願寺(清麿公創立)の地が、よごれた所でふさわしくないという理由から高雄山寺に合併されて、「神護国柞真言寺」と称したのがはじまりでありますが、これより先、和気一族は、叡山の最澄(伝教大師)や空海(弘法大師)をこの寺に招いて活躍の場とされたため、時の仏教界に新風を送ることとなり、平安仏教の発祥地となったところであります。 ことに弘法大師は唐(中国)より帰朝して、大同4年(809)に入山、いらい、14年間任持され、真言宗立教の基礎を築かれたところでありまして、のちの東寺や高野山金剛峰寺と並らぶ霊刹であり、弘法大師を初代としております。 ◆文覚上人の再輿 平安時代に二度の災害のため、堂塔のほとんどを焼失しましたが、一世の豪僧、文覚上人がその荒廃をなげいて、寿永三年(1184)後白河法皇の勅許を得、源頼朝の援助もあって往年以上の復興をみました。 ◆現在の盛観 応仁の乱では再び兵火をうけ、大師堂をのこして焼失しましたが、元和9年(1623)龍厳上人のとき、所司代板倉勝重の奉行によって楼門、金堂(いまの毘沙門堂)、五大堂、鐘楼を再興、近くは去る昭和10年山口玄洞居士の寄進で、昭和の名作といわれる金堂、多宝塔などが新築されて、今日の美観を整えております。 ◆当山の宝物 その始まりと、中興の歴史が示しておりますように、寺宝には、平安時代前期(約1,100年前)と鎌倉時代(7~800年前)の二期にわたるものが大部分であり、しかも芸術的価値においては第一級品に目されるものを数多く所蔵しておりまして、国宝16点、重要文化財2,372点があります。 毎年5月初旬の「宝物虫払い」行事には、これらの主要なものを順次展観いたします。 ◆弘法大師の宗教 堕落した奈良仏教にあきたらず、入唐求法によって弘法大師が将来、開宗された真言宗は、従来の仏教、すなわち顕教からは、秘密仏教(密教)といわれますが、この真言密教の宗といたしますところは、 「真言陀羅尼には神秘の力があり、その一字一句には百千の義趣を含蔵している。よってこれを念誦し、観修することによって、災を退け、福を招くことなどができるし、凡夫の身でもすみやかに仏になることができる」 と、現世において利益をうけることができることを説いているものであります。 平安時代には、当時の権力者であった朝廷や公卿・貴族の信仰が厚かったため、世に貴族仏教のように言われておりますが、その本旨とするところはすべての人びとに通じる、最も普遍的な教義であります。
二尊院
野宮神社
妙心寺
全国に3400の寺院を持つ臨済宗妙心寺派の大本山。 1337(建武4)年花園法皇が関山慧玄を招いて開山。 この地にあった法皇の離宮を禅寺に改めた。 応仁の乱で多くの堂塔を焼失したが、細川勝元・政元親子らの援助で再興。 その後、豊臣、徳川家をはじめ諸大名が帰依し、隆盛を極めた。南から三門、仏殿、法堂と重文の伽藍が一直線に、その周囲に46の塔頭が並ぶ。 大灯国師墨跡(国宝)をはじめ、仏像、絵画、障壁画、庭園など多くの文化財を所蔵。梵鐘(国宝)は最古の銘を持つ。 建立:開創1337(建武4)年 中興1432(永享4)年 正法山と号し、臨済宗妙心寺派の大本山である。深く禅に帰依された花園法皇が開山慧玄を開山とし離宮萩原殿を改めて寺とされたのが当寺の起りで、室町初期に一時中断し再興後応仁の乱で再び焼失したが、乱後雪江宗深が再建、弟子にも名僧が出て寺運はさかんとなり、塔頭が相次いで建てられ、地方へも当寺の勢力は発展した。 現在末寺3,500余、臨済宗各派中最大である。勅使門より北へ三門・仏殿・法堂・寝堂・大方丈が一直線に並び、その東側に浴室・浴室鐘楼・経蔵が並ぶ。室町後期から江戸初期の建築で、近世禅宗伽藍の最も完備した形を示している。 大方丈の二面の庭園は清楚な名園である。法堂内に収蔵されている鐘は黄鐘調の鐘といわれ、698年の作、我国最古の在銘鐘で、形・音色にすぐれている。 寺宝には当寺の歴史に関する多くの文化財を蔵する。また、塔頭は40余に達し、禅宗本山として堂々たる寺容をほこっている。 ◆由緒 洛西、右京区花園、北には衣笠山などの美しい山々を望み、西には兼好法師ゆかりの双ケ丘、東南は開けて京の街々、遠く宇治、淀のあたりまで見わたす景勝の地、桓武天皇の遠い古へから、ここ花園の地はその名の如く、四季とりどりの花咲きにおう遊園の地であった。その一画に翠嵐ひときは濃かに、静寂さながらの聖地こそ、わが大本山妙心寺である。 いまその開創の古へをたずぬるに、花園天皇(1297~1348)いたくこの地の風光を愛でさせられ、離宮を営まれた。 天皇は仏教特に禅宗に深く帰依せられ、大徳寺の開山大燈国師の法嗣である関山慧玄を、美濃の伊深からお召しになり、離宮を改めて禅刹となされた。これが即ち正法山妙心寺の起りである。 かくて関山慧玄即ち妙心寺開山無相大師は、簡素溌刺たる禅風を以て、花園に法幢をかかげ、天下禅苑の冠と称せられるに到ったが、延文五年(1360)法嗣授翁に後事を托し入定された。第二世授翁宗弼は南朝の忠臣藤原藤房の後身ともいわれ、第三世無因宗因第四世日峰宗舜、第五世義天玄承、第六世雪江宗深と相承したが、雪江の門下に、景川、悟漢、特芳、東陽の四傑出で、龍泉、東海、露雲、聖澤の四派を生じ、門葉頓に栄えた。その後も逸材傑僧輩出して、関山禅の宗風、全国を風塵するに到り、大師の法孫で、時の朝廷より国師号を拝受したもの、禅師号を賜わったもの実に二六〇余、関係寺院全国に約三、五〇〇カ寺、僧侶約七千。教育機関としては、花園大学、花園高等学校、洛西花園幼稚園があり、禅専門の修行道場は二十一を数える。而して関山一流の禅風は遠く欧米の地にまで及んでいるのである。 本山諸堂伽藍の完備も、禅宗としては全国随一といわれ、七堂伽藍を中心に四十余の子院塔頭が、これを囲繞するさま、実に偉観であり荘厳である。また史跡名勝に指定された庭園、国宝、重要文化財の建造物、歴朝寝翰文書、絵画等の数もおびただしく、ここ花園妙心寺は現代禅の淵叢であると共に、一面わが国文化財の一大殿堂である。 ◆法堂(重要文化財) 入母屋造重層本瓦葺の大建築、明暦2年(1656)の建造、住持の演法や重要な儀式の行われるところ。天井には狩野探幽法眼守信の大傑作雲龍の図がある。 ◆大方丈(重要文化財) 入母屋造単層檜皮葺、承応3年(1654)の建造、方丈はもと住持の居所を意味したが、今は檀信徒の祖先を祀って、その供養を行う所、また説教、講演その他の会合の場所ともなり、多数賓客を応待するところともなる。本尊阿弥陀三尊はもと石清水八幡宮の奥の院に祀ってあったもので鎌倉時代の傑作である。襖の画は狩野探幽と狩野益信の筆である。 ◆妙心寺鐘(国宝) 黄鐘調鐘ともいう。徒然草に「およそ鐘のこえは黄鐘調なるべし…浄金剛院の鐘の声また黄鐘調なり」とあるその鐘で、もと浄金剛院(廃寺)にあったもの、記年銘のあるものとしては日本最古で、文武天皇2年(698)の作である。その秀高なる形態流麗なる唐草文様まことに天下の名鐘の名に恥じない。 ◆浴室(重要文化財) 三門の東側一に位置する浴室(明智風呂)は天正15年(1587)塔頭太嶺院(廃寺)の密宗和尚が、明智光秀の菩提を弔うために創建したものである。そののち明暦2年(1656)に改建された。一重切妻造本瓦葺、浴室内中央に浴槽と洗場があり、その南側に休息室が設けられてある。また東背面には竈室がある。 浴槽は蒸風呂形式で簀子板敷の隙間から蒸気を出し四壁は正面に出入口と調節窓をもち、他の三方は板壁で閉ざされている。入口正面には位牌棚があり、その中央に跋陀婆羅尊者画像(狩野宗信筆)が掲げられている。 ◆妙心寺 三門 臨済宗妙心寺派大本山で、46の塔頭寺院をもつ京都最大の禅寺。建武4(1337)花園法皇が離宮を禅寺に改めたのが始まりである。約10万坪の境内に一直線に建ち並ぶ典型的な禅宗伽藍のなかでも、三門(重文)は、唯一鮮やかな朱塗りの建物。七堂伽藍を一望する楼上には、観音菩薩像や十六羅漢像が安置されており、天井には天女や飛龍、楽器などが色鮮やかに描かれ、柱や組物一面の絢爛たる彩色が美しい。 ◆妙心寺法堂 雲龍図 狩野探幽筆 妙心寺の現在の法堂は、明暦2年(1656)に再建されたものである。その堂内の天井には周囲を霊雲でとりかこんだ円相内に、八方にらみの巨龍が描かれている。 禅宗の法堂の天井は、板が一面に張られた平たい天井に鏡天井ともいわれ、そこには必ず丸龍が描かれるならわしである。古来より龍は仏法を守護する瑞獣であるとされており、この雲龍は、上堂説法が行なわれ禅風が挙揚される。また、この法堂の空間を守る大切な役目を果たしているのである。
常寂光寺
慶長年間に本圀寺の日しん上人の穏退所を寺にした。 紅葉の美しい小倉山の中腹にあり、常寂光土に遊ぶような風情があるとこの名がつけられた。 高さ12メートル余の多宝塔(重文)が美しい。 小督局の遺品などがある。日蓮宗。 建立:1604(慶長9)年 日蓮宗の寺院である。慶長元年(1596)本圀寺十六世究竟(くきょう)院日禛(にっしん)が、この地に隠棲して開創した。寺域が小倉山の中腹を占め、幽雅閑寂で、日蓮宗教義にいう常寂光土の観があるところから常寂光寺の寺名がつけられたという。 多宝塔(重要文化財)は元和六年(1620)の建立で、並尊閣といい、前面に霊元天皇の勅額を掲げている。本堂は伏見城の建物の一部を当寺二世通明院日韶(にっしょう)が移転修造したものといわれる。 仁王門はもと本圀寺客殿の南門を移転、妙見堂は能勢妙見を分祀し、謌僊祠には、藤原定家・家隆、徳川家康の木像を安置する。 また、時雨亭は定家山荘がこの付近であるとして建てられたものである。 ◆由緒 開山は究竟(くきょう)院にっしん上人。権大納言広橋国光の息男として永禄4年(1561)出生す。幼にして六条の日蓮宗大本山、本圀寺(ほんこくじ)十五世日栖(にっせい)の門に入り、わずか十八才で同寺の法灯を継ぐ。 宗学と歌道への造詣深く、三好吉房(秀吉の姉婿)、瑞竜院日秀(秀吉の実姉)、小早川秀秋(木下長嘯子(ちょうしょうし)の実弟)、加藤清正、小出秀政、その他京都町衆の帰依者多し。 文禄4年(1595)、秀吉建立にかかる東山方広寺大仏殿千僧供養の砌(みぎり)、上人は不受不施(ふじゅうふせ)の宗制を守って出仕に応ぜず、やがて本圀寺を出てこの地に隠栖し、常寂光寺を開創す。 当時歌人としても著名なりし上人に、歌枕の名勝小倉山に隠栖処として提供せし人は、角倉栄可(了以の従兄にして舅)と了以(りょうい)なり。その後慶長11年(1606)、了以の大堰川(おおいがわ)浚鑿(しゅんさく)工事の行われるや、上人は備前伊部(いんべ)の本圀寺末檀家たりし瀬戸内水軍の旗頭、来住(きす)一族に書状を送り、熟達せる舟夫の一団を招き、了以の事業を支援せり。これ即ち保津川下りの濫觴(らんしょう)なり。 上人は元和3年(1617)この地に遷化(せんげ)、時に五十七才なり。 苔衣(こけごろも)きて住みそめし小倉山松にぞ老いの身を知られける(にっしん)
鈴虫寺(華厳寺)
1723年(享保8)学僧鳳潭上人が最福寺跡地に華厳宗の再興の為に当寺を創建。 19世紀初頭臨済宗に改宗。 八代目住職 台巌和尚が鈴虫の音に開眼し研究を始め、今では年間5万匹を育て一年中鈴虫の音が絶えない。 参拝者にはお茶・菓子が付き僧侶による簡単な法話が聞ける。 どんな願いでも一つだけ叶えてくれる草鞋を履いた幸福地蔵が有名。 ◆由緒 当山の開山鳳潭上人(ほうたん)は承応3年富山県小矢部市埴生町に生まれ12才に上京比叡山延暦寺にて得度せられ新華厳宗の開祖であらせられる。 正徳5年未年この地に華厳寺創建せし華厳経宇論昆盧法身観に至る迄140余冊を上梓せし大学者にて元文3年2月26日85才を以て示寂せられた。 明治初年に到り8代目住職の代に於いて禅宗臨済宗に所属し今日に至る。 どんな願い事でもかなえて下さるめずらしいワラジを履いた幸福地蔵様がおまつりして有ります。 ◆幸福地蔵さま どんな願い事でも一つだけはかなえて下さる有名な幸福地蔵さん。 ワラジを履いて貴方の家まで願い事をかなえに来て下さいます。 ・お願い事の有る人・参拝される人はお寺の内で幸福地蔵さまのお守りを受けて拝み方の説明等を聞いてからお帰りにお願いして下さい。 ・願い事のかなった人・お礼参りの人はまずお地蔵さんにお礼を言ってから古いお守りを寺に返して、お帰りに新しい守りで又一つだけお願い事をする事が出来ます。
諸羽神社
祭神は天児屋根命、天太玉命など、六柱。 貞観4年(862年)、清和天皇の勅により、社殿が造営され両羽大明神と称せられた。 その後、両羽の文字も諸羽と改称された。社殿は応仁の兵火で、その後再建の社殿も明和年間の大火で焦土と化した。 その後、三度目の造営がなされ今日に至る。本殿の西北に「琵琶石」といわれる石があるが、仁明天皇の第四皇子である人康親王の山荘の跡にあったものを移したと伝えられている。 10月の第3日曜日に行われる神幸祭には神輿2基が自動車編成により氏子中を巡幸する。そして神社近くの区間は往復共神輿を人が担ぐ。 ◆由緒 天孫降臨(てんそんこうりん)の神話の中で、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の左右に従った天児屋根命(あめのこやねのみこと)と天太玉命(あめのふとだまのみこと)を祀るところから、兩羽(もろは)大明神と称したという。 貞観(じょうがん)四年(862)、清和天皇の勅命でこの地に社殿を建てたのが当社の始まりとされる。 この後、正殿(せいでん)に応神天皇、脇(わき)殿に伊奘諾尊(いざなぎのみこと)・素戔鳴尊(すさのおのみこと)・若宮八幡を合わせ祀るようになり、社名の「兩羽」の文字も「諸羽」に改められた。社殿は応仁の兵火により焼け、その後もしばしば火災に遭った。 当社は、山科一八郷の中で第四番目に当たるとされ、古くは「四ノ宮」と呼ばれて、この付近の産土神(うぶすなのかみ)として人々に崇敬された。 神社の背後の山は諸羽山といい、平家物語の中に、「木曽、もろは山の前、四の宮川原に打出で・・・」と記されているのは、当社周辺のことである。