宝福寺

久祥山と号し、曹洞宗の寺でむかし三十石船で伏見港に着いた旅人達がよく参詣したといわれる木挽町の金毘羅さんで知られている。 もとは「伏見久郷」の内の森村にあったが、応仁の乱(1467~77)によって兵火にあい、そのため末寺であった「瑞応院」に寺号を移した。 慶長4年(1599)に薩摩国川辺郷の曹洞宗「宝福寺」の11代住職「日孝芳旭(ほうきょく)大和尚」を招き、「久祥山宝福寺」と改め、曹洞宗開山となり現在に至っている。 また、本堂前にある金毘羅堂は、伏見城内の学文所前に安置されていたのを、元和6年(1620)、寺社奉行の山口駿賀守が、堂と「羅漢像」二体及び、豊臣秀吉・淀君が「子授成就」の祈願をし、嫡子秀頼が授かったという「陰陽石」とその秘物を当寺に置いたものといわれる。

恵福寺

伏見は醍醐の南、日野の山すそにあり、宇治と隣接している。 近くには法界寺(国宝)、親鸞上人の日野誕生院がある。 また方丈石も歩いて15分ぐらいの山中にある。 創建年代は鎌倉時代後期に天台宗として開かれ、その後慶長3年(1598)に浄土宗となった。 境内には、しだれ桜があり、花見の頃、夜間のライトアップによって近在の人達の楽しみとなっている。 平安時代の木像阿弥陀如来立像と木像地蔵菩薩像がある。 地蔵菩薩像は、寄木造の丈六の巨像で数少ないものである。

西岸寺 (油懸地蔵)

油懸山(あぶらかけざん)地蔵院西岸寺と号する浄土宗の寺で、天正18年(1590)雲海(うんかい)上人によって創建された。  地蔵堂には、俗に油懸地蔵と呼ばれる石仏の地蔵尊を安置している。 寺伝によれば、むかし山崎(乙訓郡)の油商人がこの地蔵尊に油を灌(そそ)いで供養し行商に出たところ、商売が大いに栄えたといわれ、以後、この地蔵尊に油をかけて祈願すれば願いが叶うといわれ、人々からの信仰を集めている。 境内には、「我衣(わがきぬ)にふしみの桃のしづくせよ 芭蕉」と自然石に刻まれた句碑がある。 これは、貞享2年(1685)当寺の第3世住職任口(にんく)(宝誉)上人を訪ねた芭蕉が、再会の喜びを当寺の伏見の名物であった桃にことよせて詠じたもので、碑は、文化2年(1805)に建設された。 なお、地蔵堂は、明治維新の鳥羽伏見の戦いで類焼したため、昭和53年(1978)に再建された。 ◆由緒 浄土宗のお寺で、油懸山地蔵院西岸寺といいます。1590年(天正18年)雲海上人によって創建されました。通称「油懸地蔵」として有名で、町名の油掛町も「油懸地蔵」に由来します。 寺伝によれば、昔、乙訓郡山崎の油商人が当寺の門前で油桶を転がして油を流してしまい、諦めて残りの油を地蔵尊に注いで、そのまま立ち去ったのです。その後、商人は商運に恵まれ、大金持ちになったといいます。それ以来、願いごとがある人は油を注いで祈ると霊験があるといわれ、人々の信仰を集めました。 お地蔵さんは石の仏さまで、立ち姿が浮きでるように彫刻され、右手に錫杖、左手に宝珠を持っています。お顔が美しく、なで肩、大きな胸あきの彫法、錫の部分の大きく立派なことなどから、鎌倉時代の作といわれています。銘文が刻まれているようですが、昔から油を掛けて祈願され、油が2センチも厚く積もり、調べようがありません。 境内には、芭蕉が当寺三世任口上人を訪ねた折に詠んだ句の碑もあります。

本成寺

妙栄山(みょうえいざん)と号する法華宗大本山本能寺の末寺である。 天正10年(1582)の「本能寺の変」後、同寺の再建に尽力した、本能寺中興日逕(にちきょう)聖人によって、慶長二年(1597)に創建されたのが当寺である。 当初、現在の伏見区上板橋中之町にあったが、その後、寛永13年(1636)、篤信者中村隆運が法華経千部読誦の心願成就を機に、伏見町奉行水野石見守忠貞の協力を得て、現在地に移したものである。 本堂には、創建当初の本尊があり、また、地蔵堂には、小野篁作と伝えられる木造地蔵菩薩像一体が安置されている。 この地蔵菩薩像は、もと伏見区三栖の薬師寺支配の大亀谷地蔵院にあったが、承応元年(1652)に隆閑寺学室に、更に明治三年(1870)に当寺境内に移されたもので、古来「痰切り地蔵」として地域の信仰を集め、かつては縁日に夜店が出て賑ったとのことである。

源空寺

宝海山(ほうかいざん)と号する浄土宗の寺で、円光大師(法然)の霊場25ヶ所の一つに数えられている。 寺伝によれば、建久6年(1195)忍空(にんくう)上人によって、はじめ炭山(すみやま)(宇治市)の地に創建されたが、慶長年間(1596~1615)当地に移された。 本堂には、円光大師座像を安置し、二層からなる山門の階下両脇には、石仏六体地蔵、愛染明王像及び朝日大黒天像を祀っている。 この大黒天像は、豊臣秀吉の持念仏で、もと伏見城の巽櫓(たつみやぐら)にあったものを、一時京町大黒町に預けられたのち当寺に移されたもので、この経過により、当地はもと新大黒町とも呼ばれていた。

恋塚寺

利剣山(りけんざん)と号する浄土宗の寺院である。 寺伝によれば、平安時代の末期、北面の武士遠藤(えんどう)武者盛遠(もりとう)が、渡辺佐衛尉源渡(みなもとのわたる)の妻、袈裟(けさ)御前に横恋慕し、誤って彼女を殺してしまった。 盛遠は己の非道を深く恥じ、直ちに出家して文覚(もんがく)と名乗り、彼女の菩提を弔うため墓を設け、一宇を建立したのが、当寺の起りといわれている。 本堂には、本尊阿弥陀如来像の外、袈裟御前と源渡、文覚上人の三人の木像を安置している。 境内には、恋塚と呼ばれ、袈裟御前の墓と伝える石塔が建てられている。その傍の六字名号石は、法然上人の筆で文覚上人が建立した石板と言われ、この筆蹟は、人倫の大道を教えるものとして、古来より詩歌、謡曲などで知られている。 ◆由緒 袈裟御前の物語は古来より貞女の鑑という意味で世に傳えられ、その理想像として世人に知られているところである。 それは渡辺の橋が完成したその供養の日のことである北面の武士あった盛遠は、その日警備にあたっていた年は若干17才、はち切れそうに逞しい青年武士である盛遠には青春の血潮が燃え盛っていた。だからこの日橋のたもとで一目見かけた渡の妻、袈裟の姿に、今まで持っていた情熱が、黄恋慕というかたちであらわれたのである。 そのうえ袈裟は、 青黛の眉渡たんくわの口付愛々敷、桃李の粧芙蓉の眦最気高して、緑の簪雪の膚、楊貴妃、李夫人は見ねば不知、愛敬百の媚一つも闕ず、さしも厳女房の、心さへ情深して、物を憐咎を恐事不斜、毛嬙西施が再誕歟、観音勢至の垂跡歟 といわれるほどの美人であってみれば、心を奪われたのも当然であった。ただ盛遠の、今見出したこの恋への執念は、みさかいのない高まりにまでなっていった。 思案のすえ、盛遠は袈裟の母、衣川の許もとに行き、やにわかに刀を引き抜くや  袈裟御前を女房にせんと、内々申侍りしを聞給はず、渡が許へ遣たれば、此三箇年人しれず恋に迷て、身は蝉のぬけがらの如くに成ぬ、命は草葉の露の様に消なんとす、恋には人の死ぬものかは、是こそ姨母の甥を殺し給なれ、生て物を思ふも苦しければ、敵と一所に死なんと思ふ也 この強迫にしかたなく衣川は袈裟を呼び寄せることを約束する。しかし約束はしたものの、もし盛遠と袈裟を合わせば渡の怨を受けることは明らかであり、約束を破れば本当に盛遠は衣川を殺すであろう。迷った衣川は娘のもとに仮病を使って手紙を出す。そして「返々忍びて只一人おはしませ」と書き添える。 驚いて飛んで来た袈裟を前に、衣川は涙をながしながらいきさつを話し、小刀を取り出して、「武者の手に係りて亡びんよりは、憂目を見ぬ前に、和御前我を殺し給へ」とさめざめと泣く。袈裟もこの無理難題には驚くが、年老いた母の命には代えられない。渡の事を想えば胸張り裂ける気持であったが盛遠の申し出を承諾する。 もはや死を決した袈裟は、 誠に浅からず思し召すならば、只思い切って左衛門尉(渡)を殺し給え、互いに心安からん、去らば謀を構ん・・・我れ家に帰って、左衛門尉が髪を洗わせ、酒に酔せて内に入れ、高殿に伏たらんに、ぬれたる髪を捜って殺し給え と話す。盛遠は大いに喜び、夜討のしたくをして日の暮れるのを待った。 家に帰った袈裟は夫渡と二人だけの酒盛をもうけ、いつもより多くの酒をかれに勧め、酔いつぶれた夫を張台の奥に休ませると、自分の髪を濡らし、烏帽子を枕元に置き 露深き浅茅が原に迷う身の いとど暗路に入るぞ悲しき と辞世の句を書き終えるや、燭台の火を吹き消すのであった。運命の時が至るのを、激しく乱れ打つ胸の鼓動を静めながら袈裟は待ったのである。 一方盛遠は今宵首尾よくいけば、念願の袈裟御前が自分のものになる。そう思えばおのずと浮き立つ心をしずめながら、打ち合わせたとおり闇夜にまぎれて、今は渡に身をかえている袈裟の枕元にそれとは知らずに近づくのであった。手を伸ばせばしめし合わせた通りのぬれた髪ざわり「シメタ」とばかり、かれは唯一刀のもとに首をはね、袖にくるんで持ち去ったのである。しかし月明りのもとに照らし出されたその首は恋しい袈裟その人であった。 盛遠は袈裟の首を前にしてはじめて、自分の罪業深き身と世の無常をつくづくと感じ、ついに出家して文覚と改めたのである。頼朝に挙兵をうながしたという荒法師文覚は、この盛遠の後の姿であった。 本寺は利剣山恋塚寺と称し、境内に高さ数尺の宝筐院塔あり恋塚と称し、袈裟御前の首塚と傳えられる。また縁起石碑あり、表には渡辺左衛門尉源妻袈裟御前秀玉善尼之墓所天養元年六月文覚上人開祖恋塚根元之地、嘉應二年建立とある。 本寺の縁起物語は古来より人口に膾炙し、人倫の大道を教えるものとして、物語、小説などによって傳えられている。 古くは「源平盛衰記」より近くは芥川竜之介の「袈裟と盛遠」にいたるまで十指に余るほどである。 また、芝居、映画、舞台等にもしばしば企画され、グランプリ映画「地獄門」は本寺の物語を映画化したものであることは周知の事実である。 ◆下鳥羽 下鳥羽は昔、草津ともまた木津今津ともいった。名跡志には、草津は下鳥羽なるが、古桂川は下鳥羽の南より辰巳に流れ、淀に合す。鳥羽殿の南門に近かりき、法然上人左遷の時、南門より草津の船に向える。その様子が傳記に載せられている。 また、新拾遺集に、隆信朝臣は美福門院かくれさせ玉ひける御供に、草津と云う所より船にて漕出る。暁の空のけしき浪の音折から物かなしく読侍る。 朝ぼらけ漕行く跡にきゆるなみのあわれ誠に 浮世なりけり 名勝志には、下鳥羽今渡海場、自是乗船古草津者此所也平家物語には、治承四年、上皇(高倉)厳島御幸あり、鳥羽に立寄り法皇(後白河)に御対面あって、草津より御舟に乗玉う。とあって下鳥羽は古来より交通の要路であった。

古御香宮

日本第一安産守護之大神とされる「神功皇后」を始め九柱の神をまつる当社は、深草大亀谷敦賀町を中心とする「峠」一帯の氏神として深く信仰されている。 文禄三年(一五九四)、豊臣秀吉は伏見築城にあたり、城内鬼門除けの神として伏見九郷の石井村にあった「御香宮」をこの地に遷し、本殿等を造営して社領三百石を寄進した。 秀吉の没後、天下人となった徳川家康は慶長十年(一六〇五)城下町の人心の安定を企って、この神社を再び元の地に戻した。秀吉の造営した本殿は江戸末期に大破し、その後に建てられたのが現在の本殿である。(平成十年五月解体修理) こうした経緯から地元の人々より「古御香宮」と呼ばれ、十月御香宮神幸祭には神輿の御旅所として神輿渡御がある。 秀吉がここに神社を祀ったのは、隣接する「桓武天皇陵墓参考地」を保護する必要上とも伝えられている。 尚、明治維新、すふぃみの戦いに際して、一時御香宮の御神霊が遷御された。

羽束師坐高御産日神社

御祭神は「むずび」の霊力をお持ちのタカミムスビノ神、カンミムスビノ神です。 御鎮座は477年です。 この地は桂川、旧小畑川等河川の合流するところで、農耕、水上交通に恵まれ開けてきました。 延喜の制がととのえられて式内大社に列せられ、式内第一の称号をいだき天下泰平の加護を給いました。 羽束師祭(5月)は御創建を祝う伝統ある祭りです。