崇泰院

弘長2年(1262)に入滅した浄土真宗の宗祖親鸞聖人の遺骨は、鳥辺野北辺に葬られましたが門弟の協力のもと、親鸞聖人の末娘である覚信尼により吉水の北の辺に改葬し大谷廟堂を建立。 延慶2年(1309)青蓮院により覚恵の長男である覚如が継承することと裁定が下され、敗れた唯善は本堂を破壊し影像と遺骨を持って鎌倉へ逃亡しました。 その後、同年に高田の顕知上人により影像が刻まれ遺骨を安置、応長元年(1321)に奥州安積の法智上人により本堂が建立され復旧されました。 応永22年(1415)存如の長男・蓮如(幼名・布袋丸)誕生。 八世法主となった蓮如上人の精力的な布教活動により、本願寺(大谷本願寺)は急速に 勢力を拡大していくが、比叡山衆徒の反感が強くなり正月と三月の二度に渡り襲撃を受け破却(寛正の法難)。 この法難に遭うまでの約200年間「本願寺」はこの地にありました。 慶長8年(1603)に徳川家康は母(於大の方、傳通院殿)を弔いのために、浄土宗総本山知恩院の再興の大工事「知恩院慶長の恢弘」を行いました。 その時、家康の命を受けて知恩院再建普請奉行として従事していた竹村丹後守九兵衛道清により崇泰院は建立。 寺号は竹村道清のお戒名「崇泰院殿勝譽道清居士」より崇泰院となりました。 明治以降は無住となったこともあり本堂は修理できない程大破した状態となりましたが、本山より4名の再建公認役・津留眞孝、笹井教道、松村恩定、國子順戒が任命され復興し現在に至る。

大将軍神社

素戔嗚尊を主祭神とし、藤原兼家を配祀する。 794年(延暦13)平安京造営の際、桓武天皇が大内裏鎮護のために都の四方に祭祀した大将軍神社の東南方角の一つ。 特にこの地は京に入る七口の一つ、三条口の要地に当るため、邪霊の侵入を防ぐ意を以って重要視されてきた。 藤原兼家の東三条殿はこの周辺にあったが応仁の乱で荒廃、現在では当社境内に東三条社として名跡を留めている。 ◆由緒 素盞嗚尊(すさのおのみこと)を祭神とし、相殿には関白藤原兼家(かねいえ)公を祀る。 桓武天皇は、平安京造営にさいし、大内裏(だいだいり)鎮護のため四方四隅に神を祀り、四方に和魂を祀って天王ととなえ、四隅に荒魂として素盞嗚尊を祀って大将軍と称したと伝えられ、当社は東南隅の大将軍社の由緒を伝えている。 ただし、社殿はたびたびの戦火によって廃絶し、文政12年(1829)朝議大夫(ちょうぎたいふ)陸奥守千葉正胤(ちばまさたね)がここに再興した。 大将軍神社の由緒に加えて、この地は平安京三条口の交通の要地にあたり、悪神の侵入をふさぐため荒魂を奉祀することは中世以来の長い伝統をもっていたと考えられる。 境内の東三條社は東三條殿(ひがしさんじょうでん)の故地で平安中期、藤原兼家・道長らの邸宅として景勝の美をうたわれた屋敷のことである。 その故地は現在の釜座(かまんざ)三条あたりと推定されるが、この附近一帯の地名によって当社にその名跡をとどめているのである。

粟田神社

大己貴命の疫病除け御神託による創建で、‘牛頭天王’を祭った粟田口の総社だった。 のち天台宗青蓮院門跡の鎮守社に。 社殿は平安初期にできたが江戸中期から末期に本殿、拝殿とも再建。 スサノオノミコトを祭り、厄除け、旅立ち守護の神。 「粟田祭」は10月体育の日前々日・前日・体育の日・15日。 体育の日前日は祭の呼びもの剣鉾18基が飾りつけられ、「阿古陀鉾」「地蔵鉾」の2基が大燈呂とともに知恩院前の「瓜生石」前にて「れいけん」の祭りを行った後に夜渡りする。 体育の日は神幸祭で剣鉾巡行と神輿渡御。15日は例大祭。 この剣鉾は祇園祭の山鉾の原形といわれている。 ◆由緒 平安時代 清和天皇貞観18年(876)春に神祇官並びに陰陽寮より、「この年隣境に兵災ありて、秋には疫病多いに民を悩ます」と天皇に奏上されました。天皇ただちに勅を下され、五畿七道の諸神に国家と民の安全を祈願された。その際、従五位上出羽守藤原興世は勅使として感神院祇園社(今の八坂神社)に七日七晩丹精を込めて祈願された。その満願の夜、夢枕に老翁が立ち、「帝都の東祇園の東北に牛頭天王素盞嗚尊に縁の地在り。その地に我を祭れば必ず国家と民は安全なり。我は大己貴神なり。」と告げて消えられた。 興世は夢とは思わず神意なりと奏上し、勅命により奉行としてこの地に社を建ててご神霊をお祭りした。 また一説には上古、粟田氏の氏神として創建されたとも伝えられる。 ◆粟田神社 三棟 本殿・幣殿・拝殿 粟田神社は、旧粟田村の産土神である。江戸時代までは感神院新宮、あるいは牛頭天王を祭ることから粟田天王社または粟田八大王子社と呼ばれていたが、現在は素戔嗚尊ほかを祭神とする。 社伝によると、貞観十八年(876)に従五位上出羽守藤原興世が勅を奉じて勧請したことに始まり、その後天台座主東陽坊忠尋大僧正が永久年間(1113~18)に再建するが、応仁の乱で焼失し、明応9年(1500)に吉田兼倶が再興したという。 本殿・幣殿は昭和八年の棟札写から、文化2年(1805)6月に焼失後、文政6年(1823)に再建されたことが明らかとなる。建物は、三間社流造の本殿の前に桁行二間・梁行三間で正面に方一間の拝所を付設した幣殿が接続する複合社殿である。拝所の彫刻装飾には時代的特色がみられ、また流造の屋根の前に入母屋造・妻入、さらにその正面に向唐破風造の屋根を続けて変化に富んだ外観をみせており、江戸時代後期の複合社殿として価値が高い。拝殿は、確実な史料を欠くものの元禄十六年(1703)に建てられたと伝え、細部様式もこの頃のものと判断される。本殿・幣殿より建築年代は遡るものの、これらと一連のものとして貴重である

檀王法林寺

檀王法林寺(だんのうほうりんじ)は京都市左京区川端通三条にある浄土宗の寺院である。 正式な山号院号寺名は 朝陽山 栴檀王院 無上法林寺 であるが、人徳厚かった第2世住持の團王良仙を人々が親しみを込めて「だんのうさん」と呼んだ事から、当寺の呼称も檀王法林寺として定着した。 琉球王国より帰国後、袋中が創建した浄土寺院の1つ。

大雲院

東山区祇園町南側。浄土宗の単立寺院。 天正年間(1573-92)織田信長・信忠親子の菩提を弔うため、父子の知遇を得ていた貞安上人が、信忠の法名をもって二条烏丸に創建。 のち寺町四条に移転したが、天明・元治の大火で焼失。 明治初期に復興、1973年(昭和48)現在地に移転した。 本堂の背後に山鉾を模した祇園閣がそびえる。 信長父子供養塔がある。 ◆祇園閣 1928年(昭和3年)に建築された3階建ての建物で、大倉財閥の設立者である大倉喜八郎が別邸とし建てた別邸「真葛荘」の一部である。 屋根は銅板葺きであるが、これは大倉が金閣、銀閣に次ぐ銅閣として作ったためである。 祇園祭の鉾を模したもので、設計は伊東忠太。 1997年(平成9年)12月12日、国の登録有形文化財に登録された。

退耕庵

臨済宗東福寺の塔頭寺院である。 貞和2年(1346)東福寺第43世住持性海霊見(しょうかいれいけん)によって創建され、応仁の乱の災火により一時荒廃したが、慶長4年(1599)安国寺恵瓊(あんこくじえけい)によって再興された。 茶室作夢軒(さくむけん)は、再興寺に恵瓊によって建てられたもので、豊臣秀吉の没後、ここで、恵瓊、石田三成、宇喜多秀家らが、関が原の戦いの謀議を行ったと伝えられている。 庭園は、書院をはさんで南北2庭からなり、南庭は美しい杉苔に覆われた枯山水庭園で、北庭は池泉式庭園となっている。 地蔵堂に安置する高さ約2メートルの地蔵菩薩像は、胎内に小野小町に寄せられた多数の艶書を収めていたことから「玉章(たまずさ)地蔵」の名で知られている。 なお、慶応4年(1868)の鳥羽伏見の戦いの際には、東福寺に長州藩の陣が置かれていたことから、当庵はその戦いの殉難者の菩提所となっている。

毘沙門堂 勝林寺

東福寺の塔頭で、天文十九年(一五五〇)に第二百五世住持・高岳令松によって創建された。 仏法と北方を守護する毘沙門天を祀ることから「東福寺の毘沙門天」と呼ばれている。 もと、海蔵院という寺の鬼門に当たった事からその鎮守とされ、やがて東福寺一山の鎮守として祀られるに至った。 本堂は大壇那であった近衛家の大玄関を移して建立され、境内には一切経を埋めた石塔が建てられている。 毘沙門堂に安置する毘沙門天立像は、高さ百四十五・七センチメートルの等身大に近い一木造の像で、左手に宝塔、右手に三叉戟をもった憤怒相、作は平安時代十世紀後半頃に遡ると言われている。 長く東福寺仏殿の天井裏にひそかに安置されていたが、江戸時代に開山・高岳令松の霊告により発見され、勝林寺の本尊として祀られたという。 脇侍の吉祥天像、善膩師童子像はともに江戸時代の作で、衣の色彩も鮮やかに残っている。

龍吟庵

臨済宗東福寺塔頭。 1291年(正応4)東福寺三世大明国師無関普門(南禅寺開山)の住房跡で、多くの文化財を有する。 本尊宝冠釈迦如来。国宝方丈・庭園(重森三玲作庭)・特別公開時のみ。 開山堂に、寄木造、玉眼入り、彩色の等身大で、曲ろくに座す大明国師像(重文)を安置する。 庫裏・表門とも重文、方丈は、現存する最古の方丈建築(国宝)。