霊光殿天満宮

1018年(寛仁2)菅原道真6世の孫、菅原定義が、九州配流の途中の道真が立ち寄った河内国若江の旧跡地に、創始したのが始まりと伝える。 その後、道真左遷の時に、天から一条の光が下ったという当地に移され、そのことから霊光殿と称するようになった。 若江家が代々の祠官として奉仕したが、応仁の乱で東寺に御神体を移した。 江戸時代になって絶えていた若江家が再興されると塔之段の若江家に再遷、さらに1761年(宝暦11)現在地に移転した。 徳川家康が若江家再興に尽力したことから、1636年(寛永13)当社に合祀されている。 例祭、11月25日。

来ぬか薬師(薬師院)

織田信長が美濃の斎藤道三の意をくみ天下統一にただ一つ、伝教大師が彫った薬師如来が現存するのは比叡山延暦寺と同院のみである。 当時の住職の夢枕に「一切の病苦を取り除こう。来ぬか、来ぬか」とお告げがあり、来ぬか薬師と称された。 薬木 黄檗樹(きはだ)で製作した疾病退散数珠(具合の悪い所をさするとよい)がある。

福長神社

本社は福井(さくいの)神(かみ)、綱長井(つながいの)神(かみ)、稲荷神を祭神として祀る。 社名は、福井、綱長井の二神を合祀することによるが、稲荷神も合祀することから「福(ふく)長稲荷(ながいなり)」とも呼ばれた。 福井神と綱長井神は、平安京大内裏内の神祇官(じんぎかん)西院(さいいん)(現在の大宮竹屋町辺)に祀られていた延喜式内(えんぎしきない)社、宮中(きゅうちゅうの)神(かみ)の座摩巫(いがずりのみかんなぎの)祭神(まつるかみ)五座(生井(いくいの)神(かみ)、福井神、綱長井神、波比伎(はひきの)神(かみ)、阿(あ)須波(すはの)神(かみ))のうちの二座である。 現在の地に遷された経緯については、社伝によると天(てん)正(しょう)年間、豊臣秀吉の聚(じゅ)楽第(らくだい)造営、あるいは廃城の際と伝えられるが、天正二年(一五七四)に織田信長が上杉謙信に贈ったと伝えられる洛中洛外図屏風(狩野永徳筆)には、すでに現在地に福長神社が描かれている。 天明(てんめい)の大火(一七八八)で焼失した後は小さな祠となったが、明治時代以降も水の神(屋敷内の井戸や泉の神)として地元の人々から篤く信仰されている。