善想寺

本地蔵尊は今から1200年前、伝教大師最澄上人自らお彫りになられた大師一代の念持仏(守り本尊)であり、大師亡き後は滋賀県坂本村にまつられた。 この地蔵尊を天正15年(1587)3月23日、当山初代住職がご縁を得て善想寺山門横の堂内にお迎えした。 泥足地蔵、汗出し地蔵とも呼ぶ。 この地蔵尊に祈願しておけば、もし難産だったとき、お地蔵さんが玉のような汗を出して、妊婦の苦しみを引き受けてくれる「汗だし地蔵」と呼ばれ、また、田植え時に急病になった信者に代わって田植えをし、泥だらけになっていたところから「泥足地蔵」とも呼ばれている。 地蔵菩薩像(泥足地蔵尊 汗だし地蔵尊)

元祇園梛神社

スサノオノミコトほかを祭り疫病除けの神で知られる。 貞観年間、京の悪疫退治のため祭神を東山八坂に祭る前いったんこの地の梛の森に神霊を仮祭祀したのが起こり。 このため元祇園とも。 祇園祭傘鉾の起こりも同社の祭祀に由来するという。 5月第3日曜は氏神祭で祭事のあと神霊を鳳輦(ほうれん、子供神輿)に移し、北・三条通、南・松原通、東・壬生通、西・土居の内通に囲まれた氏子社中を巡行する。 特に少年勤王隊、獅子、鉾、花傘などの祭列は見もの。

出世稲荷神社

寛文年間(1661-73)、聚楽第のなかにあった社を移した。 倉稲魂命ほかを祭る。 社名は豊臣秀吉の出世にあやかったもの。 本殿には6代目清水六兵衛作の神像、堂本印象の‘登り竜’天井図。 また尾上松之助寄進の石鳥居、新門辰五郎寄進の狛犬が、境内にある。 ◆由緒 足軽から関白太政大臣へと世にも希な立身出世を成し遂げられた豊臣秀吉公は幼少の頃から稲荷五柱の信仰が篤く、天正十七年(1587)に聚楽第を造営する際、天下統一の成就は稲荷信仰のおかげと感謝して邸内に稲荷社を勧請されました。 これが当出世稲荷神社の始まりです。翌年、聚楽第行楽の折に稲荷社に参拝された後陽成天皇より『出世』の称号を賜り、諸大名が開運出世祈願する社として大いに栄えました。 寛文三年(1663)にこの地に移されてからは秀吉公の出世にあやかって出世開運を願う人々がいつも絶えず、江戸時代後期には鳥居の数も三百二十九本に達したと伝えられています。 境内には秀吉公と北の政所をお祀りした豊の社があります。 出世稲荷には『開運出世の福』『衣食住の福』『地位名望の福』『農工商その他一切の生業に大繁栄の福』等の十種の神徳があるとされています。 境内の水天宮には水難・火難・病難・盗難除けのご利益があるとされ、寿石、福石、禄石の三つの石を御神体にした三石大神はかつて「勝石・取り石・打出し石』などと呼んで大変信仰した勝負運の神様です。

明王院不動寺

平安京遷都の前103年(691年)、今から約1320年前創建の寺である。空海作「石像不動明王」が本尊である。 平安京造営時(794年)、桓武天皇は王城鎮護のため平安京の東西南北に四つの磐座(石倉)を定めたが、明王院はその一つで、「南岩倉」と称したと伝えられている。 天暦年間(947~957年)の賀茂川氾濫による堂舎流没や、応仁の乱で荒廃し、石像も塵芥の中に埋もれてしまった。 天正年間(1573~1592年)豊臣秀吉は、聚楽第造営に際して苔むした本尊不動明王を得て霊験を感じ、旧知に堂舎を建立してこれを再び奉安したという。 太平洋戦争末期京都にも空襲が来ると言われて、本尊を本堂下の磐座に避難させた。それから約70年やっと元の厨子に安置し、2012年11月24・5日、牛若丸・弁慶の旧「五条大路」活性化の一環としてご開帳を盛大に執行した。