浄土宗の寺で、知恩院の末寺にあたる。創建は、慶長18年(1613)頃で、天明の大火により焼失した堂宇は再建されて現在に至っている。本堂には本尊として阿弥陀如来像をお祀りしている。 当寺の門前近くには、新撰組の馬小屋があり、毎日、門前を隊士たちが往来していた。 中には新撰組副隊長の山南敬介もいた。山門の瓦には、山南家と同じ家紋が目に入った。 当時の住職は22世の良誉上人であったが、年齢も山南と同じであった。 やがて2人の間には親交が生まれて、山南の紹介で屯所で切腹した隊士達や山南自身、またその後の多くの隊士が良誉上人に弔われ、埋葬されることになった。 ◆由緒 満月山普照院光縁寺と称し浄土宗の寺であり、知恩院の末寺である。 創建は慶長18年(1623)頃で、本堂や山門は天明の大火で焼失し、文政2年(1819)に本堂再建され山門は弘化3年(1846)に再建されて現在に至っている。 本堂には、中央に本尊阿弥陀如来を、向かって右に観音菩薩、左に勢至菩薩の三尊とその右脇に善導大師、法然上人を祀っている。 (善導大師とは、当代の中国浄土教の大成者で、法然上人が浄土宗を興すきっかけとなった「観無量寿経疏」を表した僧である) ◆浄土宗とは 法然上人が今から八百数十年前に開かれた宗派で、その教えは、阿弥陀仏の平等のお慈悲を信じ『南無阿弥陀仏』と御名を称えて、明るく、正しく、仲良く、安らかな毎日を過ごせるように勤め、阿弥陀仏の極楽浄土に生まれることを願う信仰です。 お経は、お釈迦様がお説きになった「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」の浄土三部経をよりどころとしています。 法然上人が歩んだ平安末期から鎌倉時代は、貴族の世の中から武士が台頭する変革期にあって、保元の乱、平治の乱が起こり、調停支配の院生は幕を閉じ、武家政治が成立した。 この平安から鎌倉の時代背景下、度重なる政争及び天変地異によって苦しみ傷つけられた人々を救済するため、当時の一般庶民には門戸を閉ざしていた既成仏教を乗り越えて、法然上人は専修念仏の教えを確立し、浄土宗を広めていった。 法然上人の教えは、絶望するしかない人々に光明をもたらした。貴賤の別・男女の別・罪の重い軽いなく、誰でもが念仏をとなえれば、そのままで浄土に往生できると、そう説いた宗教者はいまだかつていなかった。それはそれまでの価値判断の百八十度の転換であった。 難しいもの、高価なものが素晴らしいという人間の目から見た価値判断を、すべての人々が救われることこそが素晴らしいという仏様の目から見た価値判断への転換であった。 難行・苦行などを必要としたそれまでの仏教では、その救済からはずされていた凡夫が、法然上人によってはじめて救済の中心に置かれました。 ◆南無阿弥陀仏とは 「ナムアミダブツ」という梵語(古代インドの文語サンスクリット)を漢字で音写したもので、意味は次の通りです。 「ナム」とは「どうかよろしくお願い申し上げます」という意味。阿弥陀仏に対して帰依と信頼の心をもって唱える。「ミダ」は「量る」という意味で、これに接頭語の「ア」がつくと意味が反対になって「はかり知れない」という意味になる。「ブツ」は仏陀で、悟りを開いた人。 以上のことから「南無阿弥陀仏」とは、「はかり知れない偉大な力を持った阿弥陀仏さま、どうか私を極楽浄土にお導き下さい」とお願いする言葉であるとともに、はかり知れない命・光の中に生かされていることに感謝する言葉です。 ◆新選組と当寺の関係 当寺の門前近くには、新撰組の馬小屋があり、毎日、門前を隊士たちが往来し、その中には新撰組副隊長の山南敬介もいた。山門を見上げれば、瓦に「丸に右離れ三つ葉立葵」の山南家と同じ家紋が目に入った。当時の住職は二十二世 良誉上人で年齢も山南と同じであった。この時代、筵に巻かれた死体が、よく当寺門前に放置されていたという。それは葬式をだせない困窮した人達が、この寺の住職がそのような死人であっても分け隔てなく弔っていたのを知っていたのである。 この住職良誉上人と山南敬介との間に親交が生まれたのは当然の成り行きかもしれない。その山南の紹介で、屯所で切腹した隊士達、三人目には山南自身、その後多くの隊士達関係者が良誉上人に弔われ、埋葬されることになった。 また、当寺には、幕末に平安四名家と呼ばれた京都円山派の絵師 中島来章及びその子 有章の墓がある。来章は、京都御所や二条城本丸等に襖絵を残し、有章は、孝明天皇が将軍家茂や慶喜等文武百官を従えての上賀茂神社・下賀茂神社への行幸を描いた屏風図を残している。
京都
粟嶋堂(宗徳寺)
当堂は、西山浄土宗に属する宗徳寺の一堂で、堂内に粟嶋明神を祀ることから粟嶋堂の名で知られている。 寺伝によれば、応永年間(1394~1428)南慶和尚が紀伊国(和歌山県)淡嶋から粟嶋明神を勧請して上洛する際、当地あたりで急に御神体が重くなったので、神意としてここに祀ったのが起りといわれている。 以来、宗徳寺の鎮守社、粟嶋神社として祀られてきたが、明治時代の神仏分離により粟嶋堂と改められた。 粟嶋明神は、古来より婦人の守護神とされ、婦人病平癒や安産祈願に御利益があるといわれ、当堂にも婦人の参拝者が絶えない。与謝蕪村も当堂を訪れ、娘の病気回復を祈願した。 その時詠んだ句が、境内石碑に刻まれている。 また、当堂北の庭内にある石灯籠は、応永28年(1421)の刻名のある弥陀板碑(みだばんひ)が用いられている。
天道神社
当天道神社は、延暦13年(794)、桓武天皇が都を平安京に遷都のとき、もともと長岡京に鎮座されていた天道神社を万民豊穣、子孫繁栄、悪疫退散を祈願され、三条坊院東洞院(現在の東洞院御池上る付近)の地に勧請されました。 当時の境内は1町四方におよぶ広大で荘厳な宮でしたが、その後、応仁の乱など度々の兵火に包まれました。 天正2年(1574)織田信長公により五条坊門猪熊の地を授かりここに鎮座され今日に至ります。 主神は伊勢皇大神宮の天照大神、左右に正八幡大神、春日大明神、の三柱の神々を祀る。境内社に洛陽二十五社天道天満宮、約束稲荷神社、祇園八坂神社、弁財天厳島神社を祀る。 また歴代皇室の崇敬篤く境内には明治天皇の皇后昭憲皇太后の御胞衣(おえな)を埋納した塚がある。 毎年11月3日に例大祭併神幸祭が盛大に斎行されます。 5月17日に執行される「天道花神事」は国宝上杉本「洛中洛外図屏風」にも描かれている伝承的行事であり今や天道神社でしか見られません。
法雲寺 (菊野大明神)
清水山洗心院と号し、浄土宗に属している。 この地は、関白太政大臣藤原兼家が、その邸宅二條第を正暦元年(990)寺に改めて創立した法興院の旧地である。 その後、しばしば火災にあって平安末期以来伽藍は廃絶していたが、旧第の池水のあとと思われる清泉のみが残っていた。 永禄10年(1567)源蓮社清善上人がこの泉のほとりに草庵をむすび、元和元年(1615)に清久上人がこのあとに堂宇を建立したのが当寺のおこりと伝えている。 本堂は文化15年(1818)に再建されたもので、本尊阿弥陀如来像を安置している。 庫裡の東に「菊野大明神」が祀られている。良縁は結び、悪縁は切るという縁切り祈願の神として民間信仰の特異な存在である。