瑞雲院

日蓮宗本圀寺の元塔頭。 1602年(慶長7)日求が小早川秀秋(1582~1602)の菩提を弔うため、玉陽院を改めて開創したと伝わる。 秀秋の祭祀料として徳川家康が寺領100石を与えたのに因み、百石寺とも称する。 また、豊臣秀吉の姉日秀尼が、安土城内の秀頼旧邸を移し方丈とし、秀秋追善のために建立、100石を施入したとする説もある。

安養寺 (倒蓮華寺)

浄土宗西山禅林寺派に属する寺である。 由緒はきわめて古く、寛仁2年(1018)恵心僧都が奈良県當麻(たいま)に建てた蓮台院が当寺の起こりで、ついで恵心の妹安養尼が居住して安養寺と改名した。 天永年間(1110頃)隆暹(りゅうせん)が京都に移し、鎌倉時代に入って証仏(しょうぶつ)が大いに寺運をひろめた。 天正年間(1580頃)豊臣秀吉によってこの地に移された。 本尊は阿弥陀如来立像で、八枚の蓮華を逆さに置いた上に立っているのが特徴で、このことから倒蓮華寺と呼ばれる。 伝説によれば、本尊をつくる際、蓮座がどうしても壊れるので、蓮華を逆さにしたところ、無事完成した。 これは女人は業が深く、心の蓮華はさかさまとなっていて極楽往生できないので、これを救済するため、わざと蓮華を逆さにしたのだといわれる。 この本尊にまつわる伝説によって、昔から特に女性の信仰が深い。

聖光寺

錦綾山(きんりょうざん)と号し、浄土宗鎮西派に属する寺である。 寺伝によれば、当地には平安時代後期、仏師康慶(こうけい)の居宅があり、その後園に浄土宗第二祖聖光房弁長(しょうこうぼうべんちょう)(鎮西上人)の草庵があったといわれている。 弁長は、ここから8年間、法然上人の許に通い、浄土宗の法灯を受け継いだと伝えられている。 当寺は元久元年(1204)、弁長の帰郷に際し、康慶がその別離を悲しみ、弁長自身の真影をこの草庵に奉安し、聖光庵と名付けたことに始まるといわれている。 本堂には、鎌倉時代の作と伝えられる嵯峨式釈迦如来立像を安置し、寺宝としては清海曼荼羅(せいかいまんだら)、当麻曼荼羅(たいままんだら)の二幅を蔵している。 また、境内には大石良雄の母と、綿屋善右衛門好時(わたやぜんえもんよしとき)(天野屋利兵衛(あまのやりへい))の墓がある。

染殿地蔵院

秘仏。裸形立像。伝空海作。名地蔵の一つ。時宗。 安産守護、腹帯授与。 文徳天皇の皇后藤原明子(染殿皇后)が本像に帰依して清和天皇を出産したと伝える。 国宝「一遍聖絵」第七巻絵二十六にある四条京極の釈迦堂とは当院である。 木造地蔵菩薩立像(染殿地蔵)

厳島神社

京都御苑間ノ町口を入った池のそばに建つ。 平清盛が母祇園女御のため厳島神社の神を祀ったのが始まり。 祇園女御も祀る。池と傍らの拾翠亭はもと九条家のもので、この社は同家の鎮守社だった。 社前の石鳥居は笠木が唐破風で京都三珍鳥居の一つ。 建立:不詳 祭神 市杵島姫命 田心姫命 端津姫命 祇園女御 祭儀  例祭 6月15日  秋祭(火焚祭)11月15日  鳥居 破風形(京都三珍鳥居の一つ)重要美術品(昭和13年文部省)

管大臣神社

菅原道真公を祭神とする神社。 この地はもと道真公の邸や、菅家廊下といわれた学問所の跡で、誕生の地と伝えられ、天満宮誕浴の井が保存されている。 また「東風吹かばにほひおこせよ梅の花 主なしとて春なわすれそ」と詠まれた飛梅の地も当神社である。 古くは天神御所紅・白梅殿とも呼ばれ、境内には本殿、幣殿ほか多くの社殿が建つ。 本殿はもと下鴨神社の本殿を、1869年(明治2)に移築したもの。 幣殿と合わせて八棟造り、銅巻柿葺の豪華な建築。

平等寺(因幡薬師)

この寺の起りは、「因幡堂縁起(いなばどうえんぎ)」(現東京国立博物館蔵)にくわしい。 すなわち、長徳3年(997)因幡国司橘行平が、任終って帰洛の途中、夢告によって因幡賀留津(いなばかるつ)の海中から一体の薬師如来像をひきあげ、仮堂に安置しておいたが、薬師は行平のあとを追って京都に飛来したといわれ、長保5年(1003)行平は自宅を改造してこれをまつったという。 この霊験談はひろく親しまれ、歴代天皇はじめ一般庶民の深い信仰をうけ、承安元年(1171)には高倉天皇により平等寺と命名された。 しかし堂舎はたびたび火災にかかり寺地も次第に小さくなったが、明治初年再建の現本堂には、たび重なる火災にもかかわらずよく伝えられてきた本尊薬師如来立像を安置している。 藤原時代、一木作りの優品で重要文化財に指定されている。 嵯峨釈迦堂の釈迦如来、信濃善光寺の阿弥陀如来とともに日本三如来の一つにかぞえられ、ことのほか信仰されている。 ◆由緒 長徳3年(997)因幡(現在の鳥取県)国司橘行平が、任を終えて帰京の途中、夢のお告げに従って因幡賀留津(いなばがるつ)の海中から引き揚げ、安置しておいた薬師如来像が行平のあとを追って京都に飛来したといわれ、長保5年(1003)行平は自宅を改造してこれを祀ったと伝えられている。この霊験談は広く親しまれ、歴代天皇をはじめ一般庶民の深い信仰を受け、承安元年(1171)には高倉天皇により平等寺と命名された。 なお、この寺の起こりは、「因幡堂縁起」(東京国立博物館蔵)に詳しく書かれている。 堂舎は度々火災に遭い、寺域も次第に小さくなったが、明治初年(1868)に再建された現本堂には、度重なる火災にもかかわらず伝えられてきた本尊薬師如来立像が安置されている。この薬師如来立像は藤原時代の一木作りの優品で、重要文化財に指定されている。嵯峨釈迦堂の釈迦如来、信濃善光寺の阿弥陀如来とともに日本三如来の一つに数えられ、ことのほか信仰されている。