吉田神社

祭神として健御賀豆知命(たけみかづちのみこと)・伊波比主命(いはいぬしのみこと)・天之子八根命(あめのこやねのみこと)・比売神(ひめがみ)の四神を祀る。 貞観(じょうがん)元年(859)藤原山蔭郷が平安京の鎮守神として藤原氏の氏神である奈良の春日社四神を勧請したのが当社のはじめである。以来上下の信仰厚く、式外社ではあるが二十二社に加えられ、延文元年(1356)正一位の神階を授けられた。 ついで室町時代の中頃神官吉田(卜部(うらべ))兼倶(かねとも)が吉田神道(唯一神道)を大成し、東南山上に斎場所太元宮(さいじょうしょだいげんぐう)を造営してから、吉田流神道の総家として明治に至るまで神道界に大きな権威をもっていた。 本殿は慶安年間(1648~1651)の建築で朱塗春日造りである。 このほか四脚中門・御廟・神供所などがある。 境内には太元宮のほか、末社、摂社が多く、中でも神楽岡(かぐらおか)社は「延喜式」にも記載された地主神として、また雷除神として有名である。 神竜(かむたつ)社には吉田兼倶を祀っている。 祭礼のうち節分祭(毎年節分の当日を中心に前後三日間にわたって本宮及び太元宮で行われる)は疫神祭(えきじんさい)・追儺(ついな)式・火炉(かろ)祭の三部に分れ、室町時代以来の伝統をほこる神事で多数の参詣者で賑う。 ◆斎場所大元宮 天神地八百万神をまつる大元宮を中心とし、周囲に伊勢二宮をはじめ、全国の延喜式内社3132座を奉祀する。 もと、神職卜部(吉田)家邸内にあったのを文明16年(1484)吉田兼倶がここに移建したもので、吉田神道の根本殿堂をなすものである。天正18年(1590)神祇官八神殿も社内後方に移され、江戸時代より明治4年(1871)に至るまで朝廷の奉幣使派遣のとき神祇官代としてその儀式を執行した。 本殿(重要文化財)は慶長6年(1601)の建築で、平面八角に六角の後方を付し、屋根は入母屋造・茅葺、棟には千木をあげ、中央に露盤宝珠を置き、前後には勝男木をおく特殊な構造をもっている。この形式は神仏習合(神道と仏教の折衷調和)、陰陽五行(万物は陰と陽の二気によって生じ、火木は陽、金水は陰、土はその中間にあるとし、これらの消長により大地異変・災事・人事の吉凶を説明)などの諸説を総合しようとした吉田神道の理想を形に現したものといわれる。 当社に参詣すると全国の神社に詣でたものと同じ効験があるとして、毎年節分の日を中心に前後三日間行なわれる節分祭には多数の参詣者で賑わう。

大豊神社

この社は少彦名(すくなひこなの)命(みこと)・応神天皇・菅原道真(みちざね)を祀っている。 社伝によると、仁和三年(887)、宇多天皇の病気平癒のため尚侍藤原淑子が勅命を奉じた勅願所であり、朝野の信仰が篤かった。 建武の内乱・応仁の兵火などに遭って焼失したが、本殿・末社・拝殿・絵馬堂が再建され、鹿ケ谷、法然院、南禅寺一帯の土産神(うぶすなのかみ)として信仰を集めている。 特に、末社の大国社の狛鼠、日吉社の狛猿、愛宕社の狛鳶は、それぞれの神のお使いとして有名である。 また、神花として椿、枝垂れ紅梅、紫陽花や山野草が四季折々、参拝者の心を和ませている。 更に、椿の名所としても知られている。 由緒 鹿ケ谷・南禅寺一帯の産土の神、氏神様 枝垂紅梅、椿、四季折々の山野草が心を慰めてくれます。 社伝によると、仁和3年(887)宇多天皇の御悩平癒祈願のために、贈正一位尚侍藤原淑子が勅命を奉じて、少彦名命を東山三十六峰、第十五峰目の椿ヶ峰に奉祀して創建されました。後に応神天皇と菅原道真公が合祀されました。昭和29年には、京都市よりいにしえの都の古刹として「名勝地」に指定され、又、哲学の道の「ねずみの社」として全国より多くの参拝者を迎えることとなりました。 御神徳としては、治病健康、福徳長寿、学業成就、縁結び、子授け安産があります。

瑠璃光院

ここ「八瀬」は「矢背」とも記されるように、壬申(じんしん)の乱(六七二)で背に矢傷を負った大海人(おおあまの)皇子(おうじ)(天武(てんむ)天皇)が「八瀬のかま(竈)風呂」で傷を癒したことから、平安貴族や武家の時代を通じて「やすらぎ」の郷として長く愛されてきた。 この地には、当初、明治に建てられた別荘があり、三条(さんじょう)実(さね)美(とみ)はこれを「喜(き)鶴亭(かくてい)」と名づけ、直筆の命名額が当院に残されている。 「喜(き)鶴亭(かくてい)」は茶室名として現在も受け継がれている。 その後、昭和初期にかけて、一万二千坪の敷地に東山を借景とした築庭と延べ二百四十坪に及ぶ数寄屋造りに大改築された。 建築にあたった棟梁は、京数寄屋造りの名人と称された 中村外二(なかむらそとじ)、築庭は、佐野(さの)藤(とう)右(え)衛門(もん)一派の作と伝えられている。 その後現在まで、日本情緒あふれる名建築・名庭として著名人をはじめ多くの人々に親しまれ、近年では囲碁本因坊や将棋名人戦の舞台にもなったことが知られている。 山門を入ると、数十種類のもみじや苔、数百本の馬酔木(あせび)、比叡山の伏流水が、主庭「山(やま)露(ろ)路(じ)の庭」、「瑠璃の庭」、「臥(が)龍(りょう)の庭」を四季折々の趣で彩っている。 ◆瑠璃の庭 八瀬逍遥、風雅有情。 花馬酔木と青もみじがまばゆい春、一面錦に彩られる秋…。 豊かな自然と日本情緒あふれる建造物や名庭があやなす四季折々の興趣。 ◆山門 叡山電鉄の八瀬比叡山口駅より高野川の清流に沿い、橋を渡ると瀟洒な姿が目に入ります。 ◆山露路(やまろじ)の庭 苔むした庭から見え隠れする茶庵と十三重の石塔。よく手入れされた数十種のカエデが、春の青もみじ、秋の錦繍を競い合います。 ◆玄関 池に掛かる石橋から、泳ぐ鯉を見下ろせば、すぐそこは玄関。数寄屋造りの優雅さに期待が弾みます。 ◆書院 典雅な中にも匠の技が光る名建築。「瑠璃の庭」を一望して、至福の一時がゆるやかに流れます。 ◆瑠璃の庭 一面に苔の絨緞で覆われた当寺の主庭。苔の間をぬって一条のせせらぎが優美な曲線を描き、清らかに流れます。 ◆臥龍(がりょう)の庭 今にも天に駆け昇ろうとする龍を水の流れと石組で躍動的に表した池泉庭園。佇む人の心を解き放ち、昇運の兆しをもたらします。 ◆茶庵「喜鶴亭」 三条実美公ゆかりの由緒ある茶室。和敬静寂の精神を映す千家第六代覚々斎原曼好みの佇まい。 ◆花馬酔木と紅葉 春は白いつぼ形の可憐な花を咲かせる樹齢百年を超える花馬酔木の花。秋は異なる種類のカエデの木々が錦織の景観を見せてくれます。 ◆八瀬名物「かま風呂」 日本式蒸し風呂の原型であり、有名な「八瀬のかま風呂」の現存する希少な遺構。ご見学も可能です。

赤山禅院(赤山さん)

仁和4年(888)天台座主安慧(ざすあんね)が、師の慈覚大師円仁(えんにん)の遺命によって創建した天台宗の寺院である。本尊の赤山明神は、慈覚大師が中国の赤山(せきざん)にある泰山府君(たいざんふくん)(陰明道祖神(おんみょうどうそじん))を勧請したもので、天台の守護神である。 後水尾上皇の修学院離宮御幸の時には、上皇より社殿の修築及び、赤山大明神の勅額を賜った。 御神体は、毘沙門天に似た武将を象る神像で、延命富貴の神とされている。 この地は、京都の東北表鬼門(おもてきもん)にあたることから、当院は、方除けの神として人々の崇敬を集めている。 また、赤山明神の祭日にあたる5日に当院に参詣して懸(かけ)取りに回ると、よく集金ができるといわれ、商人たちの信仰も厚く、俗に五日払い(いつかばらい)といわれる商慣習ができたと伝えられている。 閑静なこの地には、松、楓が多く、秋には紅葉の名所として多くの人々で賑う。 ◆由緒 慈覚大師ご遺命による創建 天台宗総本山・比叡山延暦寺・赤山禅院は京都の表鬼門に位し、赤山大明神(陰陽道の祖神・泰山府君)を皇城の鎮守として祭祀されています。 第三世天台座主・慈覚大師円仁様が若き日、遣唐使船で中国に渡り「天台教学」を修められ日本への帰路「航路平穏」を守護して下さった出港地の山神、赤山大明神様に感謝し、その勧請をご遺命なさいました。 赤山大明神様が、お大師様の、荒海の日唐渡海・船旅平安をお守りになったからです。 一、都の表鬼門を守護する方除けのお寺。 二、日本最古「都七福神」のお寺。 三、比叡山延暦寺・天台随一の荒行・千日回峰行・赤山苦行(八百日目)のお寺。 四、仲秋名月(旧暦)、阿闍梨様加持御祈祷「ぜんそく封じ・へちま加持」のお寺。 五、紅葉まつり「珠数供養」のお寺。 ◆【夢見の宝船】 宝船を描いたものとしては、七福神舟遊びの図がよく知られている。正月二日や節分の夜に、宝船の絵を枕の下に敷いて眠ると吉夢を見て、七福神の福徳を授かると言われてきた。この習俗は「初夢」を吉善ならしめようとする信仰であり「夢占い」なのである。 一、「夢占い」の願主の欄にお名前を、願文には「心願」をしたためる。 二、そして枕の下に敷き、左記のご墓言を七度唱えてご就寝ください。 ◆ご真言 おん。だきしゃたら。にりそだにえい。そわか。 三、心願成就ご祈念のあと、ご使用の夢見の宝船は赤山禅院へご返送下されば、阿闍梨様御護摩供の折に、お焚き上げ(炎によるお浄め)を致します。 ◆江戸の正月風景「宝船売り」 縁起物の一つ。江戸時代、正月元旦、あるいは二日の夜、米俵を乗せた船の絵に、「回文」の歌を版画に記したものを、枕の下に敷いて寝ると、良い初夢を見ると信じられ、「おたから、おたから」と呼びながら、その版画を売り歩く「宝船売り」は、江戸の正月風物の一つでありました。 宮中では、米俵と宝物とを乗せた船の帆に「摸」(ばく)の字を描いた絵を、宮家や堂上家に賜るのが例で、「猿」は「貘」とも書き、悪い夢を喰うと、日本で昔から言われてきた想像上の動物であります。 ◆都七福神 天海大僧正、七つの福徳を 家康公の器量になぞらえられ 徳川家康公の崇敬を一身に受けていた、比叡山の名僧・慈眼大師天海様は、しばしば国政の機務に参与し、家康公の人柄をよく知りぬいていた。そこで天海様は、乱世を治める器量を備えた家康公を、七福神の七つの福徳になぞらえて示されました。 一、長寿→寿老人  五、愛敬→弁財天 二、富財→大黒天  六、威光→毘沙門天 三、人望→福禄寿  七、大量→布袋尊 四、正直→恵比寿(以上、七福神) これを聞き知った家康公は大いに喜び、絵師・狩野法眼に命じて、七福神遊行図を描かしめたと伝えられています。 境内に彩りを添える、手描きの、愛らしい「お姿みくじ」が、ご参詣の方々に喜ばれておりますが、「福禄寿神」をイメージしたもので、胎内に、おみくじが収めてあります。また相生明神様の「おしどり絵馬」赤山大明神様を梵字で表した絵馬にあらず「字馬」もお珍しいものだそうで、収集家からの問い合わせもございます。 「おしどり絵馬」を奉納して良縁の願いを、祈念しましょう。 ◆慈覚大師様と大文字送り火 京都の夏の風物詩、観光名物「大文字送り火」は、平安時代は「秋の宗教行事」でした。 偉大な足跡を残された慈覚大師様のご遺徳を偲んで、お大師様の「大」をお山に刻して点火。帝、百官を始め都人が合掌して伏拝するうちに、やがて次第に火勢が細まり、横の月待山から大きな満月(旧暦八月十六日)が現われ、あたかも「お大師様」の御霊がそれに乗り憑って中空に昇天なさる・・・それはまさに、平安の大宮人達の壮大なロマンだったのであります。 古来より「紅葉寺」として世人に親しまれて参りました赤山禅院では十一月中紅葉まつりの出店や露店が賑わいを添えております。 尚11月23日に催される「珠数供養」では、古いお珠数ご持参の方々ご自身の手による「お珠数のお焚上げ」をして頂いております。 紅に映える紅葉の境内は、「寛老池」がひときわ美しく、平安の音、時の南淵大納言・小野年名卿が、当代の「老七賢」たちを小野山荘(赤山禅院)に招き、池に舟を浮かべて詩歌管弦の宴・尚歯会を催したとある。尚歯会(しょうしえ)は、即ち我が国「敬老会」発祥の由縁なのでございます。 五日・いつか(何日) の・申(猿)の日に 一年の中でも滅多にない「申の日」の五日に「赤山さん」に詣でると、吉運に恵まれると言われだし、江戸時代、「赤山さんは掛け寄せ(集金)の神さんや」 との噂がたつようになりました。五日講ご縁日に、商売繁盛を願うお詣りが多かった由縁でございます。 この五日講ご縁日詣でが「五十払い(ごとばらい)」風習の源になり商売繁盛を願って早朝、集金前にお詣りなさる方々のお姿をお見かけします。

蓮華寺

1057年(天喜5)藤原康基が、木喰単称上人作の石造五智如来像を本尊として開創。 広沢の池畔から鳴滝音戸山へ、さらに1928年(昭和3)現在地へ移転。 離散していた石仏を集めて境内に安置された石仏群は壮観で、五智如来像5体が、観音坐像11体とともに並んでいる。 真言宗。 ◆由緒 蓮華寺は、元西八条塩小路付近(今の京都駅付近)にあった浄土教系の古寺で、応仁の乱後荒廃していたのを、寛文2年(1662)加賀前田家の老臣今枝民部近義が祖父今枝重直の菩提の為に、この地に移し再興したものである。 再興の際に石川丈山、狩野探幽、木下順庵、黄檗の隠元禅師等当時の著名文化人が協力している。 尚本堂、鐘楼堂、井戸屋形、庭園は創建当時のままであり、小規模ではあるがいずれも文人の残した貴重な文化遺産であった。

詩仙堂

正しくは、六六山(ろくろくざん)詩仙堂丈山(じょうざん)寺と号する曹洞宗の寺院である。 当寺は、江戸時代の文人石川丈山が、寛永18年(1641)隠棲のため建立した山荘で、凹凸か(おうとつか)とも呼ばれている。 丈山は、三河国(愛知県)の人で、徳川家康に仕えていたが、禄を辞して京都に住み、詩作に励むとともに林羅山ら一流の文化人とも交わり、茶道においては奥義を極めた。晩年は当地で悠々自適の生活を行い、寛文12年(1672)89歳で没した。 建物は、詩仙堂、嘯月楼(ちょうげつろう)など十の区画からなり、詩仙堂には、狩野探幽(かのうたんゆう)筆による中国の三十六詩人の肖像と詩を描いた額が掲げられている。 庭園は、東には滝を、前庭には躑躅(つつじ)、皐月(さつき)の苅込みを配した枯山水庭園で、庭の奥からの丈山愛好の僧都(そうず)(鹿(しし)おどし)の音が風情を添えている。 毎年5月23日には、丈山忌が営まれる。 ◆由緒 現在詩仙堂とよばれているのは、正しくは凹凸か(おうとつか)であり、詩仙堂はその一室である。凹凸かとは、でこぼこした土地に建てた住居という意である。詩仙堂の名の由来は、中国の漢晋唐宋の詩家三十六人の肖像を狩野探幽に描かせ、図上にそれ等各詩人の詩を丈山自ら書いて四方の壁に掲げた″詩仙の間″を中心としているところから呼ばれる。  丈山がこの堂に掲げるべき三十六詩人とその詩を選定したのは、寛永十八年、五十九才の時であった。これは、我国の三十六歌仙にならったもので、その選定には林羅山の意見も求め、左右十八人、それぞれの組合せに意味をもたせた。蘇武と陶潜、韓愈と柳宗元等七対は羅山の改定した所である。  建造物は後に寛政年間、多少変更を見たが、天災地変の難を免れ、庭園と共に往時をそのままに偲ぶことが出来る。  丈山はここに”凹凸か十境”を見たてた。入口に立つ (1)小有洞(しょうゆうどう)の門、参道をのぼりつめた所に立つ (2)老梅関(ろうばいかん)の門、建物の中に入り (3)詩仙堂、読書室である (4)至楽巣(しらくそう)猟芸巣(りょうげいそう)、堂上の楼 (5)嘯月楼(しょうげつろう)、至楽巣の脇の井戸 (6)膏肓泉(こうこうせん)、侍童の間 (7)躍淵軒(やくえんけん)、庭に下り、蒙昧(もうまい)を洗い去る滝という意の (8)洗蒙瀑(せんもうばく)、その滝が流れ込む池 (9)流葉はく(りゅうようはく)、下の庭に百花を配したという (10)百花塢(ひゃっかのう)、その他丈山考案の園水を利用して音響を発し、鹿猪の庭園を荒すのを防ぎ、又、丈山自身も閑寂の中にこの帝を愛し老隠の慰さめとしたという ″僧都(そうず)″(添水、一般には鹿おどしともいう) 等は今も残されている。  詩仙堂の四囲の眺めを見たてた″凹凸か十二景〃は画家に絵を描かせ丈山自ら詩を作ったものである。丈山の遺愛の品である〃詩仙堂六物”、多数の硯、詩集である「覆醤集(ふくしょうしゅう)」等多数の品々が残されている。これらは毎年五月二十三日の丈山忌後、二十五日から数日間、「遺宝展」として一般公開している。  現在は曹洞宗大本山、永平寺の末寺である。  詩仙堂の四季にはそれぞれ趣きがあるが、特に五月下旬の ″さつき″、十一月下旬の紅葉等がすばらしい。 ◆石川丈山 石川丈山は、天正十一年(1583年)三河国(現在の愛知県安城市)に生まれた。石川家は父祖代々徳川譜代の臣であり、丈山も十六才で家康公に仕え、近侍となつた。松平正綱、本多忠勝等はその親族である。三十三才の時、大坂夏の陣では勇躍先登の功名を立てたが、この役を最後とし徳川家を離れ、京都にて文人として藤原惺窩(せいか)に朱子学を学んだが、老母に孝養を尽くすため、広島の浅野侯に十数年仕えた。 後母を亡した丈山は五十四才の時京に帰り相国寺畔に住居した。寛永十八年(1641年)五十九才で詩仙堂を造営し、没するまでの三十余年を清貧の中に、聖賢の教えを自分の勤めと寝食を忘れてこれを楽しんだ。 丈山は隷書、漢詩の大家であり、又煎茶(文人茶)は日本の開祖である。寛文十二年(1672年)五月二十三日、従容として、九十才の天寿を終った。