曼殊院

曼殊院は、もと伝教大師の草創に始まり(八世紀)、比叡山西塔(さいとう)北谷にあって東尾坊(とうびぼう)と称した。天暦元年(947)、当院の住持、是算(ぜさん)国師は菅原氏の出であったので、北野神社が造営されるや、勅命により別当職に補せられ、以後歴代、明治の初めまで、これを兼務した。また天仁年間(1108~9・平安後期)、学僧、忠尋座主が当院の住持であったとき、東尾坊を改めて曼殊院と称した。現在の地に移ったのは明暦二年(1656)で、桂宮智仁親王の御次男(後水尾天皇)良尚法親王の時である。 親王は当院を御所の北から修学院離官に近い現在の地に移し、造営に苦心された。庭園、建築ともに親王の識見、創意によるところ多く、江戸時代初期の代表的書院建築で、その様式は桂離宮との関連が深い。歴代、学徳秀れた僧の多かった名刹である。(国宝、黄不動尊・古今和歌集曼殊院本を蔵する。) ◆由緒 最澄が比叡山に建立した一坊を起こりとする天台宗の寺院で、青蓮院(しょうれんいん)、三千院、妙法院、毘沙門堂(びしゃもんどう)と並ぶ天台宗五箇室門跡の一つに数えられる。門跡とは皇族や摂関家(せっかんけ)の子弟が代々門主となる寺院のことで、当寺では明応(めいおう)四年(1495)に、伏見宮貞常親王(ふしみのみやさだつねしんのう)の子、慈運大僧正が入手したことに始まる。 初代門主の是算国師(ぜさんこくし)が菅原家の出身であったことから、菅原道真を祭神とする北野天満宮との関係が深く、平安時代以降、明治維新に至るまで、曼殊院門主は北野天満宮の別当職を歴任した。 数度の移転を経た跡、天台座主(ざす)(天台宗最高の地位)を務めた良尚法親王(りょうしょうほうしんのう)により、江戸初期の明暦(めいれき)二年(1656)に現在地に移された。良尚法親王は桂離宮を造った八条宮智仁親王(はちじょうのみやとしひとしんのう)の子で、父宮に似て、茶道、華道、書道、造園等に優れ、大書院や小書院(ともに重要文化財)の棚や欄間、金具など、建築物や庭園の随所にその美意識が反映されている。 大書院の仏間には本尊の阿弥陀如来立像が安置され、小書院の北側には、八つの窓を持つ明るい茶室、八窓軒(はっそうけん、重要文化財)がある。優雅な枯山水庭園は国の名勝に指定されており、寺宝として、「黄不動」の名で知られる不動明王像(国宝)を蔵するが、現在は京都国立博物館に寄託されている。 ◆名勝庭園 曼殊院門跡 桂の離宮・修学院離宮・曼殊院門跡は後水尾天皇と特別深い関係がある。桂の離宮が造営された八条宮智仁親王の次男、良尚親王(後水尾天皇猶子)が13才でご出家なされると、父君、智仁親王は喜んでこの地における曼殊院造営に助力された。 建築・作庭の基本理念は細川幽斉から伝授された古今和歌集(国宝)、古今伝授(重文)、源氏物語(重文)、伊勢物語、白氏文集等の詩情を形象化することであった。それが当院の大書院・小書院・枯山水の庭園となって実を結んだ。 良尚親王(1622~1693)は25才より29才まで天台宗の座主(管長)として一宗を司り、黄不動尊(国宝)に祀って密教を極めた。一旦下山し、御所において後水尾天皇を始め、親王、皇子の方々にお茶やお華を指導なされた。明暦2年35才の時、現在の曼殊院の堂宇の完成をみて永住、40年間、茶道・華道・香道・書道・画道を仏道修行の具現と悟達、それを通して人間の完成に精進された。その努力の遺跡が当院であり、芸術の香り高い江戸公家文学の遺芳なのである。 ◆虎の間 (重要文化財) (大玄関)襖は狩野永徳筆と伝えられる。(桃山時代) ◆竹の間  (次の玄関)襖は江戸時代の版画。 ◆孔雀の間 (江戸時代中期) 岸駒(がんく)筆。 ◆大書院 (重要文化財) 江戸時代初期の書院建築。 奥の仏間は、もと書院の上段の間であったが、大書院西方にあった宸殿(しんでん)とりこわしの際(明治初め)、現在の場所にうつしたものである。本尊は阿弥陀如来。歴代の位碑を安置する。 なお、建築は、桂離宮との様式の類似に注意すべきで、引手等に種々の意匠をこらしている。(瓢箪、扇、等) ◆滝の間  障壁画は狩野探幽筆。(江戸時代初期)床の間の中央に滝の絵があった。欄間は、月型、卍(まんじ)くずしである。 ◆十雪の間(じゅせつのま)   障壁画は狩野探幽筆。違い棚は、様式、用材ともに桂離官のものと同じで、同時に作られたものという。 ◆庭園(名勝庭園指定) 遠州好みの枯山水(かれさんすい)である。庭の芯に滝石があり、白砂の水が流れ出て、滝の前の水分石(みずわけいし)からひろがり、鶴島と亀島とがある。鶴島には五葉の松(樹令約四百年)があって、鶴をかたどっている。松の根元にはキリシタン燈籠があり、クルス燈籠又は曼殊院燈籠と呼ばれる。亀島には、もと地に這う亀の形をした松があった。庭園右前方の霧島つつじは、五月の初旬、紅に映えて見事である。この枯山水は、禅的なものと王朝風のものとが結合して、日本的に展開した庭園として定評がある。 ◆小書院 (重要文化財) 大書院とともに書院建築の代表的なものといわれ、とくに小書院は、その粋を示すものである。屋根は、大、小書院ともに柿(こけら)ぶき。釘かくしは富士の形に七宝の雲を配したもの。小書院入□の梟(ふくろう)の手水鉢は、下の台石は亀、傍の石は鶴をかたどっている。なお、奥に茶室「八窓席」がある。(非公開) ◆富士の間 襖は狩野探幽筆。額は、松花堂昭乗(しょうかどう しょうじょう)筆。(「閑静(かんじょうてい)亭」)欄間は菊を型どったもので、元禄模様の先駆をなすといわれる。 ◆黄昏(たそがれ)の間 上段の間(玉座)。襖は探幽筆。違い棚は、曼殊院棚とよばれ、約十種の寄せ木をもって作られたもの。 ◆丸炉(がんろ)の間 日常用の茶所。この奥に親王の日常の間がる。 ◆中庭 一文字(いちもんじ)の手水鉢、井戸があり。庭の芯は松の根元の石。 ◆庫裡 (重要文化財) 現在の通用口。石造の大黒天は鎌倉時代のもの、甲冑(かっちゅう)を帯びた姿で仏教の守護神となす。入口の大妻屋根の額「媚竈(びそう)」は良尚親王筆。論語はちいつ(はちいつ)篇に「その奥に媚(こ)びんよりは、むしろ竃(かまど)に媚びよ」とあるによる。

天授庵

1339年(暦応2)光厳天皇の勅許により虎関師錬が南禅寺開山無関 普門(大明国師)の塔所として建立。1602年(慶長7)細川幽斎が再興した。 方丈の襖絵は長谷川等伯の筆で重文。池泉を主にした庭と枯山水と二つの庭園がある。 ◆由緒 天授庵は南禅寺の開山第一世大明国師無関普門禅師を奉祀する南禅寺の開山塔であり、山内で最も由緒のある寺院である。 凡そ七百年前の文永元年(1264)亀山上皇は当地の風光を愛されて離宮を営まれ、禅林寺殿と号された。たまたま正応年間(1288年頃)妖怪の出現に悩まされ給ふたが、これを一言の読経を用ふるでなく、唯だ規矩整然と坐禅するのみで静められた当時の東福寺第三世大明国師の徳に深く帰依されて自ら弟子の礼をとり法皇となられ、正応4年(1291)離宮を施捨して禅寺とされ、大明国師を奉じて開山となし給ふた。これが南禅寺の開創である。 国師は離宮を賜はって禅寺とされたが既に老境にあり、未だ寺としての構造が整はざるに先立って正応4年12月東福寺に於いて病を得られ同月12日80歳の生涯を終わられた。 此の時亀山法皇は東福寺の龍吟庵に国師の病状を見舞われ御手づから薬湯をすすめられた事が侍従として御供された実躬卿の日記に記されている。 大明国師は入寂に先出ち規庵祖円禅師を推挙して第二世とされたが、離宮を改めて禅寺として構基を整備されたのは、尽く規庵禅師南院国師の功績であったため大明国師の開山としての功績は殆ど湮滅の状態となり、このためこの後数十年間は開山塔の建設さえなかったのである。 暦応2年(1336)虎関師錬が南禅寺第十五世にでるやいたくこの状態を気に留め、同年朝廷に上奏して開山塔建立の勅許を請い同年9月15日光厳上皇の勅許を得、塔を霊光と名付け菴を天授と名付くとの勅状を賜って建設に着手し、翌3年始めて南禅寺に開山塔の建立を見るに至った。これが天授庵の開創である。然るに文安4年4月2日(1447)の南禅寺大火に類焼し、幾ばくもなく再び応仁の兵火に見舞われた後は復興の事もなく後輩のまま130年余を経過した。 慶長年間に至り世情の安定と共に伽藍の復興が盛んとなるに及び一山の僧達は協議の結果開山塔天授庵の復興を当時五山の間に屈指の名僧と言われた当時の南禅寺住持たる玄圃霊三和尚に一任するに至った。 霊三はその弟子雲岳霊圭をして天授庵主とし、知友であった細川幽斎に天授庵に復興を懇請したのである。 霊圭は若狭国熊川の城主山形刑部少輔の子で細川幽斎の室光壽院の俗姪であり五山の間に知られた名僧でもあったので幽斎の快諾する処となり、此処に幽斎の寄進によって慶長7年8月(1602)現存の本堂、正門、旧書院を始め諸堂尽く重建せられ旧時の面目を復興し今日に至ったのである。 ◆本堂 前述の如く幽斎の重建する処である。優雅な柿皮葺屋根をもつ建築であり光厳帝御銘の霊光塔を復興したものである。 中央に開山大明国師等身大の木像を安置し、一隅に幽斎夫妻を始め細川家歴代の位牌所がある。 棟札には玄圃霊三の自筆によって慶長七歳舎八月吉日、住山霊三、復興沙門霊圭、大工木工藤原宗正、坂上新左衛門吉家と記されている。 ◆本堂襖絵(非公開) 桃山画壇の偉才長谷川等伯の筆であり、三十二面全て重要文化財に指定されている。 本堂重建の慶長7年に制作されたもので、等伯64才晩年の傑作である。 中央の室に禅宗祖師図、上間に高士騎馿図、下間に松鶴と夫々趣きの変わったものが描かれている。 等伯は画題の多彩な事で知られているが、当庵の禅宗祖師図の如く禅宗の祖師の行状、逸話を題材とし禅の鋭く且つ厳しいはたらきを描き出したものは他に類例を見ず恐らく当庵のものが唯一であろうと思われる。 豪放とも表現しがたい筆致の上に等伯晩年の作風を伝えるものとして有名である。 ◆庭園 本堂前庭(東庭)と書院南庭とに分かれる。東庭には枯山水で正門より本堂に至る幾何学的な石畳を軸として配するに数箇の石と白沙を以てし、これに緑苔を添えたものである。二条の石畳の中で正門より本堂に至るものは恐らく暦応4年当庵建設当初のものと思われるが一方の短いものは幽斎の廟所に向ふもので、慶長15年幽斎没後に設けられたものである。 書院南庭は庭園の根本的構想或は設計とも言うべき地割の上から見ると明らかに鎌倉末期から南北朝時代の特色を備えている。特に中央の出島にそれが顕著である。即ち書院側より長大な出島を作り、向い側からやや小さい出島を配し、之等をさながら巴形に組み合わせることによって東西大小の二池を区切って居る処、また大小の出島を作り池庭の汀の線に多くの変化を見せている事、或いは東池を西池より小にし之になだらかな斜面の堤を設けるなど、東池瀧組付近の石組に残る手法と共に暦応4年本庵創建当時に作庭されたものであることを物語っている。 東方築山付近わずかに慶長重建の際に改造したらしい趣きが見られるのと、更には西池蓬莱島を設け石橋を作るなど明治初年に著しい改造を行った為一見すると明治調が強く感じられるのが惜しまれる。 幸いにも改造が庭の生命ともいうべき地割にまで及ばなかったのがこの庭の風趣をして南北朝の古庭らしい高雅さを保持せしむる所以であって、最初作庭の時最も苦心した地割の美しさを入念に味得して欲しい処である。 ◆その他 当庵には少なからぬ古美術品を所蔵するが中でも国内唯一といわれる大明国師自讃の肖像は国師の筆跡としてこれのみで重文に指定されている。聖一国師自讃像一幅、平田和尚自讃像二幅、細川幽斎夫妻像二幅等はいづれも重文指定である。 墓地には幽斎夫妻の墓、細川忠利遺髪塔の外、細川家の墓多数があり、幕末の勤王詩人梁川星巌夫妻、幕末の学者で維新政府の参議であった横井小楠、近くは京都新聞創刊の功労者村上作夫、堀江純吉等の墓もある。

実相院

もと天台宗寺門派の門跡寺院。寛喜元年(1229)、静基(じょうき)僧正の開基。寛永年間、足利義昭の孫に当たる義尊が入寺。 その後、後西天皇の皇子義延親王が入寺。以来、宮門跡が続いた。 客殿・御車寄など、東山天皇の后、承秋門院の薨去に際し、大宮御所の建物を賜ったもので、現存する数少ない女院御所といわれている。 寺宝には、後陽成天皇宸翰(しんかん)「仮名文字遣」(重要文化財)、後水尾天皇宸翰「忍」他、狩野永敬をはじめとする狩野派による襖絵を多数蔵する。 ◆「古文書」 -解き明かされる世界- 平成の世に紐解かれた古文書 実相院にはその歴史や寺格にふさわしい古文書・典籍が伝来しています。その内容は多岐に亘り、天皇・将軍の自筆書状や当時の政治・経済・社会・文化を競わせる古文書、そして「古今和歌集」「新続古今和歌集」「滞氏物語」に代表される国文学資料などがあり、日本史研究や国文学研究の上で重要な資料として認識されています。そのため、現在も各分野の研究者が実相院の書庫を訪れて調査・研究を行っています。 また、江戸時代約260年間の歴代門主の日記が伝来しており、これらには当時の風俗や事件が門跡の目を通して語られています。その意味において、江戸時代の歴史を解明する上で新しい資料を提供するものと期待されています。その中には、赤穂浪士や幕末の池田屋事件に関する記事など、従来知られていなかった新事実も確認されています。 岩倉具視を庇護し、松平春嶽ら幕閣の上洛時の宿所となるなど、幕末の倒幕・佐幕両派と繋がりのあった実相院ならではの記録は、研究者のみならず江戸時代ファンのロマンや興味をかき立てるはずです。 ◆「不動明王」一厳しさの中の慈愛- 衆生を見つめる「まなざし」 実相院の本専は木造立像の不動明王で、鎌倉時代作と伝えられています。その形相は、怒りに髪を逆立て、左目を細めつつ右目を見開いて天地を睨む「天地眼」を備え、口元は右下の牙で上唇を、また、左上の牙で下唇をかみ合わせるものです。 そして、右手には宝剣をとり、左手には羂索(網)を手にして、背後には怒りの象徴である火焔を光背としています。姿は異形・忿怒の恐ろしいものですが、その装い自体は条帛を左肩からかける姿や胸の装飾具など、基本的な菩薩の装いと同じであり、衆生を救う慈愛は菩薩となんらの変わりのないことが知られます。 実相院の不動明王は、厳しい眼差しで激動の歴史を見つめてきました。しかし、その奥には仏の慈愛があふれています。そして、人はその慈愛の「まなざし」に心が救われていくのです。 ◆ 「門跡」-その格式と歴史- 皇族方の御殿・門跡を訪ねる 門跡とは、皇族・貴族が出家し、住んだ特別な寺格のことを意味します。ここ実相院は現在では単立寺院ですが、室町時代から江戸時代にかけては皇子や皇族の入室が続き、天台宗寺門派では数少ない門跡寺院の随一とされていました。 実相院は、寛喜元年(1229)今の京都市上京区小川通今出川に創建され、大納言鷹司兼基の子静基僧正をその開基とし、今の寺地には応永18年(1411)に移されました。 その前身である実相房は園城寺(三井寺)内にあり、文献上、貞元3年(970)頃にはその存在が確認され、その時代を含めれば実に千年にも亘る歴史を誇ります。 そんな歴史的な背景から、今も院内のそこここに、格式の高い歴史を伝える文化遺産が数多く残っています。例えば、四脚門、御車寄せ、客殿などは、20世門主として伏見宮邦永親王の子、義周親王が入室されていた折、東山天皇中宮であった承秋門院の薨去(1720)に際して旧殿を移築したもので、まさに宮廷文化を今に留めています。 また、江戸時代、寺院としては門跡寺院のみに飾ることを許されたとも言われる狩野派の襖絵も、実相院には京・江戸両狩野派がその技を結実させた124面がその華麗さを伝えています。

圓光寺

瑞厳山(ずいげんざん)と号し、臨済宗南禅寺派に属する。 慶長6年(1601)に徳川家康が下野足利(しもつけあしかが)学校を伏見指月(しげつ)に移し、その第九世元佶三要(げんきつさんよう)和尚を開基として寺に改めた。 のち相国寺の境内に移ったが、元和年間(1615~1623)焼失し、細川忠利の再建を経て、寛文7年(1667)幕命により今の地に定められた。 この寺が建てられたとき、家康は朝鮮文書や多数の書籍ならびに朝鮮の木活字十万を寄せてこれを和尚に管理させた。 貞観政要(じょうかんせいよう)や武経七書等の書は、これによって印刷出版されたものという。 本堂には本尊として千手観世音坐像を安置する。 禅堂は12代住持南嶺尼(なんれいに)が尼僧の専門道場とした。 寺宝には元佶和尚像一幅及び円山応挙筆の竹林図屏風六曲一双(重要文化財)がある。 また、栖龍池と水琴窟のある庭園「十牛の庭」は、紅葉の名所としても有名である。 ◆由緒 ●開山 三要元佶(閑室)禅師 ●開基 徳川家康公 慶長6年(1601)徳川家康は国内教学の発展を図るため、下野足利学校第九代学頭・三要元佶(閑室)禅師を招き、伏見に圓光寺を建立し学校とした。 (元佶禅師は郷里・肥前三岳寺、駿府圓光寺の開山である。) 圓光寺学校が開かれると、僧俗を問わず入学を許した。また孔子家語・貞観政要など多くの書籍を刊行し、これらの書物は伏見版または圓光寺版と称された。 当寺には、出版に使用された木活字が現存しており、我国出版文化史上特筆すべき寺院であるといえよう。その後、圓光寺には相国寺山内に移り、更に寛文7年(1667)現在の一乗寺小谷町に移転された。 寺内には本尊千手観音像(伝運慶作)・開山元佶禅師像(重文)・竹林図屏風六曲(応挙作・重文)・近世初期制作の木製活字五万個(重文)がある。 庭園には水琴窟・栖龍池(洛北で最も古い池)があり、春の新緑、秋の紅葉時には美観を呈している。 また、境内山上には徳川家康を祀った東照宮や、墓地内には村山たか女(花の生涯のヒロイン)、マレーシア留学生オマール氏(広島原爆にて死亡)の墓がある。

法然院

善気山万無(ぜんきさんばんぶ)教寺と号し、浄土宗捨世派の本山である。 この地はもと法然上人が弟子の住蓮、安楽と六時礼賛(ろくじらいさん))を勤めた旧跡で、寛永年間(1624~1644)ほとんど廃絶していたのを延宝8年(1680)知恩院第三十八世万無心阿上人と弟子忍徴(にんちょう)が中興したものである。 本堂には恵心僧都作阿弥陀如来座像と法然上人自作木像を安置し、直壇には毎晨朝(じんじょう)に二十五の生花を散華する。 方丈は、桃山御陵の遺物を移建したものといわれ、襖絵十四面の「桐に竹図」「若松図」「槇に海棠(かいどう)図」及び屏風の松図はいずれも重要文化財に指定されている。 ◆由緒 善気山萬無教寺(ぜんきさんばんぶきょうじ)と号する浄土宗系の単立寺院である。 鎌倉時代の初め、法然上人が弟子の住蓮(じゅうれん)、安楽(あんらく)とともに、阿弥陀仏を昼夜に六回拝む六時礼讃(ろくじらいさん)を勤めた草庵で、寛永(かんえい)年間(1624~1644)ほとんど廃絶していたが、延宝(えんぽう)八年(1680)に知恩院の第三十八世萬無心阿(ばんぶしんあ)上人と弟子の忍澂和尚(にんちょうかしょう)が念仏道場として再興した。 本堂には恵心僧都(えしんそうず)作の阿弥陀如来坐像と法然上人自作木像を安置し、直壇(じきだん)には毎朝二十五の生花(せいか)が散華される。 方丈は、桃山御殿の遺構を移建したものといわれ、襖(ふすま)絵十四面の「桐に竹図」「若松図」「槇に海棠(かいどう)図」及び屏風の雪松図はいずれも重要文化財に指定されている。 参道に散る椿が名景として知られており、境内には、谷崎潤一郎、九鬼周造、河上肇ら多くの文化人の墓がある。 ◆法然院 しおり 南無阿弥陀佛。ようこそご参詣下さいました。当山の歴史は、専修念佛[せんじゅねんぶつ](阿弥陀佛にいのちをあずける一切の生きとし生けるものを佛にならせるという阿弥陀佛の本願を信じて、もっぱら南無阿弥陀佛と唱えること)の元祖、法然上人源空(1133~1212)の開創に始まります。 鎌倉時代の初期、法然上人は如意ケ嶽[にょいがたけ](大文字山)の東南に草庵を結ばれ、弟子の安楽・住蓮とともに六時礼賛[ろくじらいさん](1日に6回、阿弥陀佛を讃えて抑揚を付けて唱えるお経)を唱えられ、念佛三昧[ねんぶつさんまい]の別行(時と場所を定めて一心に南無阿弥陀佛を唱えること)を修められました。 法然上人の専修念佛の教えが広まるにつれて、比叡山延暦寺や奈良興福寺の衆徒などから念佛停止[ちょうじ]の訴えが起こっていましたが、1206年(建永元年)12月、後鳥羽上皇の熊野臨幸の留守中に院の女房、松虫・鈴虫が安楽・住蓮を慕って出家し上皇の逆鱗にふれるという事件が生じ、安楽・住蓮は死罪に処され、法然上人は土佐(実際は讃岐)へ流罪となられました。 その後、如意ケ嶽東南の草庵は久しく荒廃していましたが、心ある人々により村中に移され、絶滅は防がれていたと伝えられています。 江戸時代になり、忍澂[にんちょう]上人は当時の浄土宗僧侶の道心の衰えを嘆き、宗祖法然上人ゆかりの鹿ケ谷の地に授戒清浄の道場を建てることを発願[ほつがん]し、浄土宗総本山知恩院第38代の法灯を継いだ師の萬無上人に相談し、四代将軍 家綱に具申して善気山の麓に新たに二千余坪の土地を拝領し、造営に着手しました。 工事は1680年(延宝8)7月25日に始められ翌年5月に完成し、ここにおいて当山は、善気山 法然院 萬無教寺と称しました。 すなわち善気山は山の名をとり、法然院は開山上人の御名により、萬無は中興上人の称によっております。 萬無上人は完成を喜び、寺法17箇条を立て、当院を独立の一本山としましたが、工事半ばより病の床にあった上人は、完成後1ケ月余り経った6月25日知恩院方丈において往生を遂げられました。 この後、忍澂上人は直ちに当山に移り、もっぱら萬無上人の遺志を守り、六時礼賛、不断念佛、持戒修道の行法をたて、別に白蓮小清規[びゃくれんしょうしんぎ]を作って細かい規則を定めました。 また、忍澂上人は中国における浄土教興隆の地である廬山[ろざん]東林寺、即ち慧遠[えおん]の白蓮社[びゃくれんじゃ]の遺風を慕い、念佛の行儀はもとより、境内の風致も、宇治の黄檗山[おうばくさん]萬福寺[まんぷくじ]の独湛禅師[どくたんぜんじ]の指南によって、廬山の風を移されたものです。 当院は現在、単立[たんりつ]宗教法人(宗派の組織に属していない寺)になっていて、壇信徒によって維持されている佛教寺院ですが、専修念佛の修行道場としての精神は中興よりこのかた300年余り、今に至るまで脈々と受け継がれています。 1980年(昭和55)には、中興満300年を記念して、本尊の台座・天蓋[てんがい]等の解体修理、境内及び伽藍の大整備を行ない、11月9日に「中興満300年慶祝法会」を厳修いたしました。 当院は、日常的に壇信徒のために法事を執り行っておりますので、伽藍内は通常非公開とさせていただいておりますが、年2回(4月1日~7日、11月1日~7日)伽藍内の特別公開を行っております。

綱敷行衛天満宮

もともとこのあたりにあった「綱敷天満宮」と西にあった「行衛天満宮」が合併され「綱敷行衛天満宮」と呼ぶようになりました。 「綱敷天満宮」は道真が筑紫に左遷され博多仁上陸されたとき船の綱を敷いて御座としたら一夜にして白髪となりました。 道真のその様を画にし、綱敷天神像とか、一夜白髪の御影と呼び、社名はその神像を祭ったことが由来とされています。 「行衛天満宮」は「鞠負ゆきえ」が正しいとされ、右京の西鞠負小路に面していたことから社名になったようです。 西鞠負小路は「猪隈通」とも呼ばれ、北野天満宮の南門を経て吉祥院天満宮に通じる道で道真はこの道を利用して吉祥院に通ったといわれています。

福田寺

安産と雨乞い祈願のお寺 西山浄土宗の寺で、山号は迎錫山福田寺。今から1300年前の養老2年(718)行基菩薩の開基で福田寺縁起書には、元正天皇(718)代に行基菩薩が夢のお告げによりこの地で「地蔵釈迦」のニ尊を刻み、精舎を建立し「福田寺」と号したという。創建当時は八町四方に七堂伽藍を有していた。 歴代住職のうち、平安時代末期には百人一首の詠み人で有名な歌人、俊恵法師がいる。 俊恵法師は平安時代の歌人として、数多くの和歌を残している。歌の同好の友を集め文学結社「歌林苑」を形成、自らそのリーダーとして月例会などを催したという。 歌友には、有名な源三位頼政、鴨長明などの名もある。