六孫王神社

清和天皇の孫、六孫王源経基を祭る。経基の子満仲が邸宅跡に霊廟を建て六の宮と称したのが起こり。 その後源実朝夫人がここに寺を建て、その鎮守社となった。 本殿の背後に経基の墓石があり、境内から「満仲の誕生水」「児ノ水」など名水が出る。 ◆由緒 この神社は清和源氏(せいわげんじ)の祖と仰がれる六孫王源経基(みなもとのつねもと)を祀っている。神社の伝えでは、この地は経基の邸宅のあった場所で、その子源満仲(みつなか)が応和年間(961~963)に初めて社殿を建立したといわれる。 その後、いつしか荒廃していたものを、元禄13年(1700)、当社の北隣の遍照心院の南谷上人(当時の能筆、作庭家)が幕府に請うて再建し、この神社を遍照心院(別名大通寺)の鎮守とした。これが現在の社殿である。  本殿に経基、相殿に天照大神(あまてらすおおみかみ)、八幡大神を合祀している。本殿背後の石の基壇からは神廟といわれる、経基の遺骸を納めた場所、境内北の弁天堂内には六孫王誕生水がある。古くから京都名水の一つとされている。江戸時代には源氏ゆかりの神社として武家の信仰が厚かったことは、境内石燈篭に松平吉保(よしやす)など諸大名の寄進者名が見えることでしのばれる。 ◆六孫王のいわれ 主祭神の経基王は、清和天皇(第五十六代)の第六皇子貞純親王の御子で天皇の孫にあたるゆえ、六孫王といわれる。 ◆王の御事蹟 王は生まれつき気質温厚で好文博学にして、よく武道にも励み、承平・天慶年間の乱には鎮守府将軍として任地に赴き乱を平定、その功により天皇より源性を賜り源朝臣を名乗ることとなり、やがて武門の棟梁として名を天下に知られることとなったのである。また、王は和歌にも長じ『拾遺和歌集』にもその歌詞が採用されている。 ◆創建は平安時代 経基王は六十四歳(諸異説あり)を以て薨去されたが、遺言に『亡き後も霊魂は龍(神)と化し 此の西八条亭の池(境内中央の神龍池のこと)に住みて子孫の繁栄を祈らん』と申されたとある。王薨去後、御子の満仲公が応和三年(963)九月に王の邸宅であった此の地に葬り、その前に社殿を建立したのが当六孫王神社の始まりである。 ◆神社の盛衰 鎌倉三代将軍源実朝が、公暁に暗殺された折り実朝の夫人は亡符の菩提を弔うために出家して、源氏ゆかりの此の地に庵を結び、萬祥山大通寺と号して、六孫王神社を鎮守社として明治維新政府の神仏分離令により、又東海道線敷設により九条大宮南へ移築されるまで盛衰を共にしたのである。 特に北条政子(頼朝夫人)が、又室町時代には代々の足利将軍家が多くの社領を寄進し、源氏の宗社として之を庇護したが、足利義満の時代には社殿佛閣がほとんど炎上し、応仁の乱によって社領を奪われてしまった。しかし往古よりの祭祀佛事は滞りなく、公武の栄幸を祈り祀れるを、江戸時代に入って、元禄13年より徳川家並びに清和源氏嫡流の諸侯と共に再興に取りかかり、宝永4年(1707)に竣成し、盛大に祭儀が執行された。(これ以後の10月の例祭を宝永祭とも称する)又元禄14年には東山天皇より 権現号並びに正一位の神階を賜り、名実ともに京都洛南の名社として栄えたのである。 末社の弁財天像は弘法大師御作と云われ、経基王が御子満仲公誕生の折り産湯に使われた井戸の上に祀られたところから誕生水弁財天と呼ばれ、昔から幼児の守護神(井戸水は特に安産の水・健育の産湯として都七名水の内の一つに数えられていた)として、又無病息災の守り神としてこれまた霊顕あらたかな御祭神であり、毎年6月13日には弁財天御開帳祭が行われます。

本光寺

新撰組「七条油小路の変」の伊東甲子太郎他三名殉難の地。 新撰組の参謀であった伊東甲子太郎が意見の相違から新撰組から脱党したため、慶応3年11月18日近藤勇の別宅からの帰途、新撰組の襲撃にあい、本光寺門前の門派石(題目石塔)によりかかり絶命した殉難の跡。 その後七条油小路の事件が起きた。

倉掛神社

祭神は「倉掛の神」。五穀豊穣を祈る農耕の神で、この辺りに住みついて稲作を始めた人々が、米倉を建てて豊作を祈った名残りの、古い形態の神である。 一般に良く知られているのは、もう一柱の祭神で「九面大明神(弁財天)」。智慧、福徳、財宝を授けてくださる有難い女神として、古くから篤い信仰を集めて来た。 寛文6年(1666)造営の一間社春日造こけら葺の本殿は、京都市の指定文化財、大木が茂る境内も環境保全地区に指定されている。 近年まで、付近一帯は大きな森と竹藪で昼なお暗く『暗がりの宮はん』の通称で近郷近在に広く知られていた。水溜まりが点在する中に細い道が通じていたが、狐狸が棲む不気味な場所としても知られ、夕刻ともなれば人通りは絶えたと伝わっている。

三善院

菅原道真御帰依の十一面観世音菩薩安置。 平安時代の文章博士三善朝臣清行卿が創建した寺。清行の八男浄蔵貴所が初代住職である。 平成14年に二年掛けて改築し、浄土の楽土即ち佛の三千世界・二十五菩薩を雲間に配した極楽世界を表現。内陣の円柱には上り龍・下り龍が黒光茂明画伯により描かれている。 すべての設計は現在の日本を代表する一級建築士、山本良介氏による近代的建築で、厳かな、なんとも言えぬ心温まる本堂です。

吉祥院天満宮

祭神として菅原道真を祀り、洛陽天満宮25社の一つに数えられている。 社伝によれば、道真の祖父清公(きよきみ)が、邸内に一宇を建立し、吉祥院と名付けて菅原家の氏寺としたのが、当社の起りで、承平4年(934)朱雀天皇が、自ら道真の像を刻み、この地に社殿を築き道真の霊を祀ったことから吉祥院天満宮と呼ばれるようになったと伝えられている。 境内には、道真が参朝の時、顔を写したといわれる「鑑(かがみ)の井」や「菅公胞衣(えな)塚」など道真ゆかりの遺跡が残っている。 また、この地は、古くから六斎念仏(ろくさいねんぶつ)が盛んに行われていたところで、今も吉祥院六斎念仏踊として継承されており、国の重要無形民俗文化財に指定されている。 毎年、4月25日の春祭と8月25日の夏祭には、境内の舞楽殿でこの伝統芸能が奉納される。

大通寺

清和天皇の第6皇子貞純親王の御子、六孫王経基(ろくそんのうつねもと)の子満仲(みつなか)が父の墓所に一宇を建立したのが大通寺の起こりといわれる。 その後、260余年を経た貞応(じょうおう)元年(1222)に、源実朝(さねとも)の妻、本覚尼が亡夫の菩提を弔っていたが、真空回心上人を請じて梵刹(ぼんさつ)を興し、萬祥山遍照心院大通寺と名付けた。 実朝の母、北条政子も大いにこの寺を援助したという。 後、十六夜(いざよい)日記の著者阿佛尼も入寺し、亡夫藤原為家を供養したという。 足利尊氏・義満を初め織田・豊臣氏の崇敬もあつく、徳川氏代々も大いに興隆につとめ、元禄年間には今の六孫王神社が造営され、塔頭も多数建立された。 東は大宮、西は朱雀を限りとし、南は八条、北は塩小路を境とする広大な境内であったが、江戸幕府の滅亡により衰微し、廃仏毀釈にあった。 明治44年(1911)には旧国鉄の用地となり、六孫王神社だけを残して現地に移転し逼塞(ひっそく)した。 創建当時から伝わる善女龍王画像、醍醐雑事記は重要文化財に指定されている。 実朝木座像、本覚寺置文2巻、阿佛尼真蹟、阿佛塚など国文学上重要人物を偲ぶにふさわしいものが多く、尊氏・義満の文書も多数蔵されている。

鎌達稲荷神社

元、陰陽師安倍晴明が子孫、安倍・土御門家の祭祀にして、万生業に福利を授け給う開運の神・倉稲魂大神と、広く人事を良きに導き、交通安全の神でもある猿田彦大神が主神で、御鎮座地は、西寺跡であります。 鎌達さま御利益由来には、開運・勝負運を招き奇蹟を生む神さまの霊験ありと敬われております。 お守りのうち、サムハラ呪符は災難除け、奇蹟を生むお守りと言われています。

神明神社

当地は平安時代末期、近衛(このえ)天皇(在位一一四一~一一五五)がしばしば皇居としたと伝わる藤原忠通(ただみち)(近衛天皇妃の養父)の屋敷跡で、「四条(しじょう)内裏(だいり)」または「四条(しじょう)東洞(ひがしのとう)院内裡(いんだいり)」と言われた。 この邸内にあった鎮守の社が神明神社で、天(あま)照(てらす)大神(おおかみ)を祭神とし、創建年代は明らかでないが、平安時代から今日まで人々の崇拝の社となっている。 社伝によると、近衛天皇の時代、頭は猿、尾は蛇、手足は虎の「鵺(ぬえ)」という怪鳥が毎夜,空に現れ都を騒がせた。 弓の名手であったという源(みなもとの)頼政(よりまさ)は退治の命を受け、神明神社に祈願をこめた後、見事に鵺を退治した。この時使われた弓矢の「やじり」二本が当社の宝物として伝わっており、今でも祭礼の時に飾られる。 当社が厄除け・火除けの神と言われるゆえんである。 その後、天台宗の護国山(ごこくざん)立願寺(りつがんじ)円光院(えんこういん)という寺によって管理されていたが、明治初期の神仏分離令によって神社だけが残され、それ以来、神明町が管理を行っている。榎の大木があったので「榎(えのき)神明(しんめい)」とも言われた。 また、当社には豊園(ほうえん)小学校内(現在の洛(らく)央(おう)小学校)に祀られていた文子(あやこ)天満宮(菅原道真を祀る)の祭神が戦後合祀されている。 祭礼は九月の第二土曜日とそれに続く日曜日である。