新善光寺

来迎堂(らいこうどう)と号する浄土宗の寺である。 本尊の阿弥陀如来像は、善光寺(長野県)の創建者である本田善光の子、義助によって善光寺の阿弥陀如来像の分身像として造られたものと伝えられている。 当初、この仏像は、南都(奈良県)にあったが、天仁2年(1109)に、堀川松原の地に伽藍が建立され、そこに安置された。 以後、来迎堂新善光寺と呼ばれ、多くの帰依者を集めた。 しかし、応仁の乱後、兵火に遭い、寺地も転々とし、天正19年(1591)、豊臣秀吉の命により現在の地に移された。 江戸時代には、幕府より御朱印の寺領を受け、天下泰平、国民安全の御祈祷所として栄えたが、天明・元治の大火で類焼してしまった。 現在の堂宇は、その後に再建されたものである。

市中山 最勝王院 金光寺

時宗。山号、市中山は、平安京の東の市に有った事に由来する。 空也上人が松尾大社の神勅に依り、松尾社前の鰐口半分を頂き、鉦たたき念仏の道場として市屋道場のもとを創建したと伝えられる。 本尊引接阿弥陀如来は定朝作といわれ、花山天皇の御念持佛を空也上人が受けたと伝えられる。もと天台宗であったが、鎌倉期32代唐橋法印胤恵が一遍に帰依し、作阿弥陀佛(作阿)と名を改め時宗とした。 その所在地から市屋道場と呼ばれ、大永年間(1521~1528)には足利義晴が泊ったことから、一夜道場とも呼ばれた。 市の祭神、市姫神社を鎮守とし保護する。 1591年(天正19)豊臣秀吉の行なった京の街の区画整理で、市姫社と共に現在地に移転した。

若一神社

平安末期平清盛がここに別邸を建て「西八条殿」と称し、紀州熊野の若一王子の御霊を祭ったのが始まり。 以後清盛の勢威がのびたというので開運出世の神として崇められる。社前の清盛手植の大楠がシンボル。 11月10日例祭、火焚神事がある。 建立:1166(仁安元年)

城興寺

瑞宝山と号する真言宗泉涌寺派の寺院で、洛陽三十三所観音めぐりの第二十二番札所となっている。 この地は、太政大臣藤原信長の邸宅であったが、知足(ちそく)院関白藤原忠実(ただざね)が伝領して、永久元年(1113)に寺に改めたといわれる。 創建当初の規模は明らかではないが、寺宝に有する境内伽藍図には現在の烏丸町全域にわたって寺域としていた様が描かれている。 当初は、四宗(顕・密・禅・律)兼学の道場であったが、のちに天台宗となり、天台座主最雲法親王の没後、その弟子の以仁王(もちひとおう)が当寺を領した。 その後、治承3年(1179)、平氏によって寺領を奪われ、このことが、平氏討伐の挙兵の一因になったと考えられている。 中世を通じて、延暦寺の管理に属したが、応仁の乱後、衰微し、現在は円仁(えんにん)の作と伝えられる本尊千手観音像を安置する本堂のみが残っている。