即宗院

臨済宗東福寺派、大本山東福寺塔頭。嘉慶元年(1387)九州薩摩藩島津氏久公が、剛中玄柔禅師(東福寺第54世住持)を開山として建立。 薩摩藩の菩提寺で氏久公の法名「齢岳玄久即宗院」から寺名とした。 創建当時は現在より南に位置していたが、永禄12年(1569)に火災で焼失し、島津義久公が慶長18年(1613)頃再建した。 その地は、関白藤原兼実公が晩年営んだ山荘「月輪殿」の跡で、国宝「法然上人絵伝」にも描かれている。 寛政11年(1799)発行のガイドブック「都林泉名勝図絵」にも名園として紹介されている。 庭園は現在京都市名勝に指定され、紅葉の美しさと千両の鮮やかさで有名である。 西郷隆盛公と僧月照(京都清水寺の勤皇僧)は、王政復古を志し、新撰組や幕府の追っ手を逃れこの即宗院の採薪亭で幕府転覆の策をめぐらした。 西郷隆盛公はその後の苦難を乗り越え、鳥羽伏見の戦い(慶応5年)から勝ち進み勝利を手中にした。 戦いの戦死者524霊を弔うためこの即衆院で斎戒沐浴し碑文を書きしたため、明治2年に「東征戦亡の碑」を建立した。 また、篤姫が、近衛家の養女となって徳川家へのお興しいれの際、この即宗院に立ち寄ったと言われる。

蓮光寺

負別(ふべつ)山と号し、浄土宗の寺である。 天台宗真盛(しんぜい)派の祖、真盛上人の開基にかかり、もと新町通松原にあったが、のち玉譽和尚がここに移して浄土宗に改めた。本堂の本尊は仏師安阿弥作と伝える阿弥陀如来である。 その昔、安阿弥が東国の一僧の求めに応じ、阿弥陀如来を作った。 安阿弥自らその会心の作なるを惜しみ、この像を取り戻そうとして僧のあとを追って山科のあたりまで行くと、僧の護持した仏像が自ら二体に分かれたので、二人はその各像を背負って東西に別れたと伝えられる。この本尊はその一体であるといわれ、山号もこれに因んだものである。 境内には平清盛の駒を止めたという駒止(こまどめ)地蔵や長曽我部盛親(ちょうそかべもりちか)の墓がある。

伏見稲荷大社御旅所

御旅所とは、祭礼のときに神輿を本宮から移し一時的に奉安する場所のことです。 伏見稲荷大社の御旅所は、かつては「油小路七条」と「八条坊門猪熊」の2箇所にありました。 その後、豊臣秀吉が一つに合わせてこの地に移したと伝えられています。 普段は静かな御旅所ですが、4月・5月の稲荷祭の期間には一変し、大変賑わいます

正行院(輪形地蔵)

開山円誉上人(明宝5年~天正12年)(1496~1584)が、北山の中川の里で念仏修行の時、猿に災難除けと仏縁結縁のために「南無阿弥陀仏」の御名号を書いたお守りを授けられ、そのお守りのお陰で猿が危難から救われたという故事から「災難さる」の猿寺と呼ばれるようになった。 本殿には猿をひざに乗せた上人の座像がまつられている。寺内には他に八猿はじめ多くの猿の人形がある。 天文7年(1538)創建された浄土宗捨世派の古刹。参拝は事前に問い合わせが必要。 門前に輪形地蔵堂がある。 竹田街道を行き来する牛馬車の通行を楽にするため車の下に敷かれた石を輪形の石と呼んでいたが、輪形地蔵はその石から堀り起こされた。牛馬車の通行の苦難を助け安全を守られた「交通安全」の御利益があるといわれている。 また堂内には竹田街道の竹田口にもまつられ、旅人が道中の安泰を祈願した西国三十三箇所の観音様もまつられている。

本覚寺

山号を佛性山(ぶっしょうざん)といい浄土宗の寺で、開祖は團譽(だんよ)上人玉翁(ぎょくおう)和尚である。 ここは嵯峨天皇の皇子・源融(みなもとのとおる)の河原院塩竃(しおがま)の第(だい)のあったところで、今この辺を本塩竃町という。 寺伝によれば、初め西八条の遍照心院(1名、大通院)内に将軍源実朝(さねとも)の後室・坊門信子(ぼうもんのぶこ)が貞応元年(1222)に創建したもので寺名は信子の法名本覚をとったものである。 その後、梅小路堀川に移転し、応仁の乱の荒廃のあと細川政元により高辻烏丸に再建せられ、末寺14を有する本山となった。 その後、後柏原天皇の勅願寺となったが、天正19年(1591)豊臣秀吉の命によってさらに今の地に移った。 境内墓地には八文字屋本の全盛期を築いた江戸中期の版元・八文字屋自笑(じしょう)の墓がある。

文子天満宮

祭神として菅原道真を祀り、洛陽天満宮25社の一つに数えられている。 社伝によれば、大宰府(だざいふ)(福岡県)に左遷された道真は、延喜3年(903)59歳で没したが、没後、道真の乳母であった多治比文子(たじひのあやこ)は、「われを右近の馬場に祀れ」との道真の託宣を受けたという。 しかし、文子は貧しく、社殿を建立することができず、右京七条二坊の自宅に小祠を建て道真を祀ったといわれている。 これが当社の起りで、北野天満宮の前身ともいわれている。 以後、天明、安政、元治の大火で類焼したが、その都度再建され、明治に至り、村社に列せられた。 現在の社殿は、大正7年(1918)に造営されたものである。 なお、毎年4月16日には、例祭がとり行われる。

長講堂

もと後白河法皇(ごしらかわほうおう)が仙洞(せんとう)御所に営まれた持仏堂で、正式名を「法華長講弥陀三昧堂(ほっけちょうこうみださんまいどう)」といい、法華経を永遠に讃し、阿弥陀仏を念じて三昧境に入る道場という意味である。 寿永2年(1183)、法皇が六條西洞院の平業忠(なりただ)の邸に移られたので、この堂もそこに移建され六条長講堂とよんだ。法皇は多くの所領を寄進したが、これが史上に有名な長講堂領で、法皇の崩後、皇女宣陽門院覲子(きんし)内親王に継がれて以来、いわゆる持明院統によって相続された。 再三の火災のため転々と寺地を変え、天正6年(1578)に現在地に移った。 現在、粟生光明寺(あおうこうみょうじ)の所轄する西山浄土宗(せいざんじょうどしゅう)に属する。 後白河法皇の臨終仏(りんじゅうぶつ)である本尊阿弥陀如来及両脇侍(りょうわきじ)像と御影堂(みえいどう)に安置する後白河法皇木像はともに重要文化財に指定されている。