伏見稲荷大社の境外(けいがい)末社で田中社ともいう。 大己貴命(おおなむちのみこと)、伊弉諾命(いざなぎのみこと)、伊弉冊命(いざなみのみこと)、猿田彦命(さるたひこのみこと)、倉稲魂命(うがのみたまのみこと)を祭神とするが、このほか現在、天智天皇像(木像)、大友皇子像(木像)を安置する。 当社は、天暦2年(948)に創始され、同10年(956)、勅により燎祭(りょうさい)が行われ、その時「炬火(たいまつ)殿」の号を賜った(たまわった)ことに由来すると伝えられる。 はじめ、黒門通塩小路下るにあったが、その後、七条東洞院などを経て、宝永8年(1711)現在の地に移ったとされる。 江戸時代に出された「都名所図会(みやこめいしょずえ)」には、伏見稲荷大社春の稲荷祭のとき、当神社の氏子の人々が松明(たいまつ)をともしてその神輿(みこし)を迎えるのを古例としていたことから「松明殿」の名で呼ばれたと記されている。 また、境内西側には、江戸時代中期の木食正禅養阿(もくじきしょうぜんようあ)の銘のある手洗石及び井戸がある。
京都
渉成園 (枳殻邸)
興正寺
佛光寺
市比賣神社
延暦14年(795)、藤原冬嗣が垣武天皇の命により、官営市場東市・西市の守護神として創建。中世には空也上人が神託により市屋道場を開創。 一遍上人が境内で踊り念仏を遊行。天正19年(1591)に現在地へ移転。現在も京都中央市場の守護神。 境内天之真名井の水は歴代天皇の産湯に用いられ、現在も名水として茶会等に用いられる。 また、皇族・公家が生後50日目には五十日餅を授かり、今も旧家では当社より餅を頂きお食べ初め発祥の神社、母神が童神を抱いた御神像は、慈愛に満ちた大変珍しい姿で、平安時代、花山天皇の作 御所守護の為、本殿は北向き(御所向かい)歴代皇后の崇敬篤く、女人守護の神社で特に女性厄除けに御利益がある。 ◆由緒 祭神は神大市比賣(かみおおいちひめ)命・多紀理比賣(たきりひめ)命・多岐都比賣(たきつひめ)命・市寸嶋比賣(いちきしまひめ)命・下光比賣(したてるひめ)命の五女神を祀る。 平安京が制定された翌年の延暦14年(795)東西市(常設市場)の守護神として七条堀河の地に創建され、天正19年(1591)に現在地に移された。 皇族誕生の際には、境内の「天之真名井(あまのまない)」の水を産湯に用い、また、平安時代より、生後50日目の子供に当社で「五十日百日餅」を授ける風習がある。 安徳天皇の記録を初め、花山院家・足利家歴代の史記にも見られ、現在の「お食初め」発祥の神社といわれる。 秘蔵の女神像は平安時代の作で、母神が童神を抱いた慈愛に満ちた大変珍しい姿であり、創建以来歴代皇后の信仰を集め、特に女性の「厄除け」に神徳が高い。
観智院
教王護国寺(東寺)の塔頭(たっちゅう)(小院)の第一で、別格本山である。延慶元年(1308)後宇多法皇が東寺西院に3年間参籠され、21院を建立されたうちの一つで杲宝(ごうほう)を開基とする。 代々学僧が住し、東寺塔頭中もっとも格式が高く、当院の住持が東寺の別当職をかねた。 古来多くの経文、書籍を所蔵していて有名で、徳川家康が古書を調査して、一宗の勧学院として後学の用に供するよう命じたことがある。 現在の建物は、慶長10年(1605)完成の客殿を中心に、本堂、書院、土蔵、門など何れも江戸時代の建築である。客殿(国宝)は、入母屋造、銅板葺の代表的な書院造の住宅建築で襖絵は宮本武蔵の筆と伝えられる。 本堂には山科安祥寺の恵運(えうん)が唐から伝来した五大虚空蔵菩薩(こくぞうぼさつ)を安置していたが、現在は国宝に指定されている経文、書画、工芸の名品多数と共に東寺収蔵庫に収められている。
上徳寺 (世継地蔵)
塩竈山(えんそうざん)と号し、浄土宗に属する。 寺伝によれば、慶長八年(1603)に、徳川家康によって、上徳院殿(阿茶の局)が開基となり、伝誉蘇生(でんよそせい)上人を開山に招じて建立した寺といわれる。寺内に泰栄院の宝筐院塔がある。 以後、度重なる災火により、堂宇、塔頭は焼失し、現在の諸堂は明治時代に再建されたものである。 本堂は、宝暦三年(1753)建立の永観堂の祖師堂を移築したものである。 堂内には、江州矢橋(やばせ)(滋賀県)の鞭崎(むちざき)八幡宮から移したといわれる阿弥陀如来像を安置している。 境内の地蔵堂は、明治四年(1871)に再建され、高さ二メートル余の石地蔵を安置している。 この地蔵は、「世継(よつぎ)地蔵」と呼ばれ、往古から、良い世継が授かる御利益があるとして遠近の人々の信仰を集めている。 また、境内には、江戸時代の冠句の唱導者・堀内(ほりうち)雲鼓(うんこ)(1728年没)の句碑及び墓がある。
福勝寺
神光院
放光山(ほうこうざん)と号する真言宗の寺である。 寺伝によれば、建保五年(1217)に上賀茂神社の神主、賀茂能久(よしひさ)が、「霊光の照らした地に一宇を建立せよ」との神託を受け、当寺を創建したと伝えられている。 寺名はこの由緒に因み、神光院と名づけられた。 以後、密教の道場として栄えたが、天保年間(1830~43)に災火により堂宇を焼失した。 明治11年(1878)、和田月心により再興され、以後書院等が整備され、現在に至っている。 本堂に安置する弘法大師像は、大師が自ら刻んだものと伝え、「厄除大師」の名で知られている。 寺宝としては、仏眼曼荼羅図(ぶつげんまんだらず)(重要文化財)などの貴重な文化財を蔵している。 また、境内の茶室は、幕末の歌人大田垣蓮月尼が晩年隠棲していたところとして知られている。