常照寺(檀林の寺、吉野の寺)

当山は、元和2年(1616)本阿弥光悦の土地寄進を受け、寛永4年(1627)その子光瑳の発願により日蓮宗総本山身延山久遠寺第21世寂照院日乾上人(じゃくしょういんにちけんしょうにん)を招じて開創された山城六壇林(やましろろくだんりん)の一偉観「鷹峰壇林」の旧跡である。 吉野門と呼ばれる朱塗りの山門は、寛永三名妓天下随一の太夫と謳われた二代目吉野太夫(灰屋紹益(はいやじょうえき)の妻)が寄進したものである。 境内には本堂を中心に開山堂、鬼子母尊神堂(きしもそんじんどう)、常富堂(つねみどう)、衆みょう堂(しゅうみょうどう)(書院)、梅樹庵(庫裡)などがある。 また吉野太夫の墓所や吉野窓を設えた茶席遺芳庵(いほうあん)、聚楽亭や全国でも唯一の帯塚(おびづか)などがある。 毎年4月第2日曜日には吉野太夫を偲ぶため「吉野太夫花供養」が行われ、太夫道中や供茶法要、茶会などが催され全国各地からの参詣者で賑わう。 ◆由緒 寂光山常則寺は洛北の山裳にあり俗に鷹峰三山と呼ぶなだらかな三つの丘陵を西に望むところにある。 当山は、元和2年3月(1616)本阿弥光悦の土地寄進とその子、光瑳の発願によって身延山第二十一世日蓮宗中興の相、と敬仰される寂照院日乾上人を招じて開創された鷹峰檀林(学寮)の旧跡で、それ以来連綿と続き世に山城六檀林中の一偉観をなしてきたのである。 盛大な頃は広大な境内に大小三十余棟の堂宇がならび幾百人となく勉学にいそしむ学僧で賑わったことは本阿弥行状記や元政上人の日記などに紹介されている。 ◆開山廟 本堂の右裏手に墓地がありその中央の建物に日乾上人の五輪塔のお墓がまつられている。ケヤキのお扉には珍しい形の五七の桐か彫刻されている。 ◆寺宝と茶席遺芳庵 檀林関係の写本類が多く特に珍種とされる祖書研究資料の録内啓蒙の版木、伝教大師作と伝えられる三面大黒天、妙見大菩薩像、日乾上人像、光悦筆の扁額「学室」正面の栴檀林の額は六牙日潮筆、光悦画「蓮乗口輪」などく吉野太夫の好んだ大丸窓(俗に吉野窓)を配した遺芳庵という茶席は墓地の北側の谷を望むところにあり毎月佳人を偲んで釜がかけられて賑わう。 また四月の桜の季節には名妓慰霊のため島原の太夫道中による墓参、供茶法要が営まれ境内随所に野点茶席が設けられて京の名物行事となっている。 ◆吉野太夫の墓 吉野太夫は遺言により日乾上人廟の裏手に葬られている。「唱玄院妙蓮日性信女」がその戒名であり、歌舞伎俳優や芸能人、数奇者のこの地を訪れる人が多い。 ◆名妓 吉野太夫 都の六条三筋町の郭に寛永のころ、天下の名妓として、一世を風靡しその才色兼備を謳われた二代吉野太夫(松田徳子)が光悦の縁故により日乾上人にまみゆるやその学徳に帰依し寛氷5年二十三才のとき自らに財を投じて朱塗の山門を寄進したのが今に残る吉野門である。吉野は和歌、連歌、俳句、書、茶湯、香道、音曲、問答、双六と諸芸に秀で、その美貌は唐の国にまで喧伝されたという。夫の豪商灰屋紹益(佐野重孝)も文学、趣味豊かな粋人で二人のロマンスは後世演劇、歌舞伎に戯曲化されて有名である。 吉野は寛永廿年八月廿五日齢三十八才で病没した。 ◆鬼子母尊神 当山境内の北西(いぬい)の方には、三体の鬼子母尊神像と、十羅刹女をまつる鬼子母尊神堂がある。 鬼子母尊神は、もともと子供を殺して食べる悪鬼だったが、仏の教えを聞いて懺悔し、改心してのち、子育て、子授けの神様、信仰する者を守護する神様となった。十羅刹女はその眷属である。堂内右側の厨子には、行者守護を表わす鬼面の鬼形鬼子母尊神、左側には子安の母形鬼子母尊神がまつられ、正面には、鬼面をして、お腹に子供を宿し、足もとに男女の子供を連れた姿の、行者守護と子安の両面を示す、双身鬼子母尊神がまつられ、子供め成長や、さまざまな願いを持った人々が祈願に訪れる。 ◆常富大菩薩のご縁起 当山境内には鎮守社として常富大菩薩をまつってある。 享保年間のこと、学寮に於て智湧という学僧が勉強しておられた。山内にしばしば奇瑞不思議が起るので噂となりとかく常人と異る智湧をいぷかった学頭職空妙院日善上人が一夜その室を覗いたところ白狐が一心に書見していたという。姿をみられた白狐はやむなく当山を去って摂津能勢妙見山に登って修行を重ね常富大菩薩となられたのであるが、当山を去るに際し檀林首座宛に道切証文、起請文(二通とも末文のところに爪の印が押されている)を書いて残していったのが当山に霊宝として保存されている。 ◆比翼塚 吉野太夫と紹益の比翼塚と歌碑が昭和46年歌舞伎俳優の片岡仁左衛門丈らによって建てられ、ここを訪れる人々に当時を偲ばせてくれる。 ◆帯塚 女性の心の象徴"帯"に感謝し祈りを捧げる全国初の帯塚が在洛の各界知名士の発起によって昭和44年5月ゆかりの吉野門のほとりに建立された。 因みに塚石は四国吉野川産の自然石(吉野石)で珍しい帯状をなしている。重さは6トン、作庭は造園界の権威中根金作氏によって苔をもって鷹峰三山を表現したもの。恒例行事として毎年五月には帯の時代風俗行列や帯供養が営まれる。 ◆帯塚由緒 万葉の昔から今日まで帯は時代によってその様式意匠に幾多の変遷を重ねてきました。わが国の工芸人達は帯に魂を込め祈りを捧げ、又愛好者もその魂の移り香を懐かしみました。このように帯は常に日本女性のいのちを表現してまいりました。 この日本伝統の美風を永く存続し、染織文化に携わる人は勿論、全国きもの愛好家の美と文化への感謝の象徴として、京洛各界名士の発起により昭和44年(1969)5月全国初の帯塚が建立されました。珍しい帯状をなした四国吉野川産の塚石は重さ6トンあり、苔をもって鷹ヶ峰三山を表現した庭園は中根金作氏の設計監理によるものです。ここに帯着物を供養し皆様の幸福と文化の発展を祈るものです。 ◆名妓 吉野太夫の墓 吉野太夫は西国の武士松田某の娘として育った。故あって後、京都島原(六条三筋町)名妓となる。遊女としての最上位にあったというだけではなく、教養高く詩歌、管弦、茶の湯、香道の諸芸に秀で、当時上流階級の社交場の花とうたわれた。京の町衆の代表的な文化人であった灰屋紹益とのロマンスは特に名高く、今なお美しい語り草とされている。 佳人薄命であった吉野は寛永20年8月25日、38歳の若さで没したが、当山開山日乾上人に深く帰依し生前山門を寄進した縁によりここに葬られる。 後に歌舞伎の第十三代片岡仁左衛門らによって当山に紹益・吉野比翼塚が建立される。

十念寺

華宮山宝樹院と号し浄土宗西山光明寺派に属している。 永享3年(1431)後亀山天皇の皇子真阿(しんな)上人が将軍足利義教の帰依をうけて当時誓願寺のあった元誓願寺通小川の辺に創立し、天正年間(1573~1591)この地に移った。 本尊阿弥陀如来は、東山雲居(うんご)寺から移したと伝える文六の坐像である。 寺内には、後陽成天皇の皇子高雲院宮の墓所をはじめ、足利義教、施薬院全宗法印、鋳造師金座銀座両家、徳大寺公城等の墓や、竹内式部贈位の碑がある。 なお、寺宝には室町時代の仏鬼軍(ぶっきぐん)絵巻一巻(重要文化財)及び十年寺縁起、十年寺歓進帳等がある。

林光院

足利三代将軍・足利義満が四代将軍義持の弟義嗣の菩提を弔うため、夢窓国師により開創されたという古刹。 慶長五年(1600)関ヶ原の戦いの際、伊賀に隠れていた島津義弘を、親交の厚かった大阪の豪商田辺屋今井道與が潜伏先に急行し、薩摩に帰れるよう困難極まる逃避行を助け、海路護送して無事薩摩に帰国させ、その功により薩摩藩の秘伝調薬方の伝授を許される。 そのため薩摩藩とも関係が深い。

五台山 法泉院 竹林寺

浄土宗西山禅林寺派・永観堂の末寺。 1279年(弘安2年)、顕意道教上人(時宗の一遍上人が一歳年下の兄弟僧)の開基以来730年余の歴史を持つ古刹。 本尊、阿弥陀如来。乾第十五番札所で藤原時代初期の作と伝えられている一木等身の十一面観世音菩薩を安置。 但馬の生野の変(1863年・文久3年)で捕らえられ処刑された平野国臣や三条小橋の池田屋騒動(1864年・元治元年)で新撰組に捕えられた古高俊太郎ほか勤皇志士37士の墓がある。

六請神社

北山と号する臨済宗相国寺派の別格本山で、足利義満が応永4年(1397)に営んだ山荘・北山殿を、その死後、禅寺に改め、義満の法号をとって鹿苑寺と名付けたものである。 金閣(舎利殿)は、宝形造り(ほうぎょうづくり)こけら葺きの山荘楼閣で、初層は藤原時代の寝殿造り風、第二層は鎌倉時代武家造りの仏間風、第三層は禅宗仏殿風の様式をとり、二層、三層とも漆塗の上に金箔を押してある。 昭和25年(1950)に焼失し、昭和30年(1955)に再建され、さらに昭和62年(1987)に金箔張替修理が行なわれた。

護浄院

常施無畏(じょうせむい)寺と号し、天台宗の寺で通称清荒神という。 本尊の清三宝大荒神は千二百余年前、光仁天皇の皇子開成親王の作といわれ、摂津の国にあったのを後小松天皇の勅により僧乗厳(じょうげん)が醒ヶ井高辻の地に勧請し、初めて清荒神といわれた。 その後、慶長5年(1600)ここに移され、後陽成天皇御自作の如来荒神尊七体を合せ祀って長日の御祈願を行い、元禄10年護浄院を院号を賜わり今日に至っている。 また、一般の家庭では、かまどの上に祀られ火の守護神とされる。 尊天堂内に安置される福徳恵美須神はもと禁裏に奉安せられていたが、明治維新に際しここに移され、京都七福神の一に数えられ、世に尊信が篤い。 なお、荒神町の地名はここより起ったものという。

天寧寺

山号は萬松山(ばんしょうざん)と号し、曹洞宗に属する。 当寺は、もと会津(福島県)城下にあったが、天正年間(1573~1592)に、天台宗松陰坊の遺跡といわれるこの地に移転されたと伝えられている。 その後、天明の大火により堂宇を焼失したが、本堂は文化9年(1812)に、書院は天保14年(1842)に再建された。 本堂には、仏師春日作と伝える本尊釈迦如来像を、観音堂には後水尾天皇の念持仏聖観音像及び東福門院の念持仏薬師如来像を安置している。 境内墓地には、江戸時代の茶人として有名な金森宗和(かなもりそうわ)、剣道示現流の開祖といわれる善吉和尚(ぜんきつおしょう)らの墓がある。 また、山門を通して眺める比叡の秀峰は、あたかも額縁に入れたように見えるところから、山門は「額縁門」と呼ばれて親しまれている。