報土寺

浄土宗知恩院派に属する寺である。 当寺は、貞観元年(859)、行教(ぎょうきょう)が真言宗の寺として創建したものと伝えられている。 その後、応仁の乱などにより堂宇は荒廃したが、永禄2年(1559)、選誉照阿(せんよしょうあ)により、浄土宗の寺院として、相国寺惣門の東南に再興された。  以後、浄土宗の念仏道場として栄え、寛文3年(1663)頃に、現在地に移転した。 表門と共に重要文化財に指定されている本堂は、桁行七間梁行六間、入母屋造の本瓦葺の建物で、寛永6年(1629)に建立され、寺地移転に際し、移築されたものである。 また、当寺が、所蔵する木造阿弥陀如来立像(重要文化財)は、正嘉2年(1258)7月12日の造像銘があり、もとは、近江(滋賀県)の八幡宮に祀られていたものと伝えられている。

華光寺

1582年(天正11)妙顕寺の12世日堯が隠居所として開創。豊臣秀吉が伏見城に安置していた毘沙門天像を寄進し、寺の守護神とした。江戸時代以降、この像が開運厄除けの神として信仰を集めた。像は平安後期の作と伝える。日蓮宗。 境内の梵鐘は鎌倉後期の代表作で戦時中の供出をまぬがれ府の文化財指定を受ける鐘の下には、秀吉手植えの松という「時雨松」の古株が置かれている。晴れの日も枝からしずくを落としたとされ五色の花をつけたという「五色椿」とともに、「出水七不思議」の一つに数えられた。 二つの銘木とも枯死してしまったが境内の庭園では子孫の松や七種の椿が名残を惜しむ。幕末期の尊攘画家宇喜田一恵をはじめ山陵研究家の平塚瓢斎、加藤清正公の累代子孫一族の墓碑など30数基がある。 建立:1582(天正11)年12月7日 火付盗賊改めとして、凶悪犯の捕縛につとめた西町奉行長谷川平蔵の父・長谷川宣雄の葬儀記録も保存されている。

光勝寺極楽院(空也堂)

空也を本尊とするため空也堂と呼ばれるが、正しくは紫雲山光勝寺極楽院(しうんざんこうしょうじごくらくいん)と号する、天台宗の寺。天慶2年(939)、空也上人の開創といわれ、当初は三条櫛笥にあったので櫛笥道場とも市中道場とも呼ばれた。応仁の乱で焼亡したが、寛永年間に現在地に再建された。 空也は鐘を叩き念仏を唱えて全国行脚し、仏教の庶民階層への布教に尽力する傍ら、橋を架け、道路や井戸を整備し、野にある死骸を火葬して荼毘に付すなど社会事業も行った。 そのため、空也は市聖とか阿弥陀聖と称され、後の一遍をはじめとする布教僧に大きな影響を与えた。 毎年11月の第2日曜日に、空也上人を偲んで開山忌(空也忌)の法要が営まれる。王服(おうぶく)茶の献茶式の後、空也僧による歓喜踊躍(かんぎゆやく)念仏と重要無形民俗文化財の六斎(ろくさい)念仏焼香式が奉修される。