多禰寺は京都府舞鶴市にある真言宗東寺派の寺院。山号は医王山、本尊は薬師如来。大浦半島の多禰山の中腹、海抜300mに位置する。(Wikipedia) 草創の正確な事情は不明である。享保2年(1717年)の『多禰寺縁起』によれば、用明天皇2年(587年)、聖徳太子の弟、麻呂子親王(まろこしんのう)の開基と伝えられる。 縁起によれば、父・用明天皇の命を受けた麻呂子親王は、丹後の庶民を苦しめた鬼賊(与謝郡三上ヶ岳に住む英胡、軽足、土熊)を「七仏薬師の法」の力で平らげ、その加護に報いるため、丹後の国に七箇所の寺を建て、七仏薬師像を安置したという。その中で、親王の護持仏であった第七薬師瑠璃光如来を本尊としたのが当寺で、医王山多禰寺と名付けられたという。 平安時代に入ると七堂伽藍は威風を轟かし、近郷の菩提寺として栄えたが、鎌倉時代・室町時代の打ち続く戦乱に崩壊し、昔の壮観は影を潜めた。 現在は真言宗東寺派に属し、西国薬師四十九霊場30番札所として、風光明媚な自然の山懐にたたずんでいる。 また、平安時代・鎌倉時代・室町時代などの中央作の貴重な文化財を、当初の像容で遺存されている。 室町時代以降、由緒ある寺として丹後の有力者の庇護を受け、多くの安堵状・寄進状が残されている。
京都
桂林寺
朝代神社
金刀比羅神社
成相寺
成相寺は日本三景天橋立を眼下に望む景勝地にあり、元々は日本古来の山岳宗教の修験場。 ◆由緒 一人の僧が雪深い山の草庵に篭って修業中深雪の為、里人の来住もなく食糧も絶え何一つ食べる物もなくなり、餓死寸前となった。 死を予感した憎は「今日一日生きる食物をお恵み下さい」と本尊に祈った。 すると夢ともうつつとも判らぬ中で堂の外に狼の為傷ついた猪(鹿)が倒れているのに気付いた。僧として、肉食の禁戒を破る事に思い悩んだが命に変えられず、決心して猪(鹿)の左右の腿をそいで鍋に入れて煮て食べた。 やがて雪も消え里人達が登って来て、堂内を見ると本尊の左右の腿が切り取られ鍋の中に木屑が散って居た。 それを知らされた僧は観昔様が身代リとなって助けてくれた事を悟り、木屑を拾って腿につけると元の通りになった。 此れよりこの寺を成合(相)と名付けた。 ◆美人観音 五条の右大臣高藤の子は、観音祈願の授かり子玉若君を大変可愛がり2歳の時四位の侍従の位を得て、丹後但馬の国を与えられた。 小さい時から笛を上手に吹いて居られたが13歳で父母を亡くし孝行な子であったので、一週間笛を吹いて供養していた。 その笛の音を聞いた梵天国の王(仏教の主護神)が、「吾が姫を嫁に差上げよう」と云い、美しく心の優しい姫君を妻に迎え入れられた。 此の話を聞かれた天皇が羨まれて「おまえの妻を内裏に参らせよ」それが出来ねば……と無理難題を申出されたが2人の力で総て叶えられた。 最後の難題「梵天国王直々の御判が欲しい」との事。 中納言は父君に当る梵天国に行き食事を与えられた時、側で人でも鬼でもない飢えた骸骨の様なものが食事を求めた。 慈悲深い中納言は哀れに思い御飯を与えた。 すると一粒千人力と云う米を食べて鎖を切り大空へ飛んで行った。 これが羅刹国のはくもん王(悪鬼)であった。 はくもん王は邪恋していた中納言の妻を奪い羅刹国へ帰った。 中納言は御判を頂いて帰ったが、妻の居ない家や世の無常を感じお髭(モトトイ)を切り出家して願を掛け妻を助けられる様祈った……。 妻を救い出し都へ帰ったが、都の生活を嫌い丹後へ下られ妻は成相の観音様となり、中納言は久世戸の文珠となられた。 そして一切の生物をお救いなされたと、成相観音は美人観音、美人になれる観音様として名高い。 (御伽草子梵天国より) ◆撞かずの鐘 慶長14年(1609)山王賢長は、古い梵鐘にかえ新しい鐘を鋳造する為、近郷近在に浄財を求め喜捨を募った。 1回、2回と鋳造に失敗し、3回目の寄進を募った時、裕福そうな家の女房が「子供は沢山居るがお寺へ寄附する金はない」と険しい目の色で断った。 やがて鐘鋳造の日、大勢の人の中に例の女房も乳呑児を抱えて見物していた。 そして銅湯となったルツボの中に誤って乳呑児を落としてしまった。 此の様な悲劇を秘めて出来上がった鐘を撞くと山々に美しい音色を響かせていた。 しかし耳をすますと子供の泣声、母親を呼ぶ悲しい声、聞いて居る人々はあまりの哀れさに子供の成仏を願って一切この鐘を撞く事をやめ、撞かずの鐘となった。