旧社殿は舞台を中心に拝殿・氏子詰所を配する相楽郡地域に伝わる社殿配置形態をとどめています。 秋には江戸末期より続く御輿祭が行われます。 5基の御輿がそれぞれ町内を練り歩き、岡田国神社などで宮入りが行われます。
木津・加茂
泉橋寺
高倉神社
木津川市山城町綺田神ノ木にある高倉神社は、後白河法王の第二皇子以仁王を祀った神社で、隣接して以仁王の御墓がある。 「平家物語」によると、以仁王は、 治承4年(1180)源頼政のすすめにより、平清盛とその一族の追討を命じる令旨を諸国の源氏勢力にあてて出していた。 このことが露見したため、 平家の追討をうけ、 南部の興福寺をたよって都を落ちる途中この地に至り、光明山寺の鳥居の前において流れ矢にあたって落命されたという。後に、この地に王の御霊を祀ったのが、この神社の起こりと伝える。 ◆阿弥陀寺 高倉神社に近接する阿弥陀寺は、僧円輸の開基と伝え、 もと阿弥陀堂三艸庵と称したという。 以仁王落命の折、仏事を営み、 建久3年(1192)、これに因んで山号も高倉山としたと伝える。 なお、境内には、厚肉彫の石仏(阿弥陀如来座像)があり、鎌倉時代の優品である。
松尾神社
笠置寺(正月堂)
笠置寺の創建は古い、すでに2000年前から笠置山の巨岩は信仰の対象となっていた。この事は笠置山の中心をなす大岩石の前から弥生式時代の有樋式石剣が発見されたことによってわかる、しかし実際に建物が建てられ人が住みついたのは1300年前である。 1300年前東大寺の実忠和尚、その師良弁僧正によって笠置山の大岩石に仏像が彫刻されその仏を中心として笠置山全体が一大修験行場として栄えたのである。 平安時代永承7年(1052)以後世の末法思想の流行とともに笠置寺の大磨崖仏は天人彫刻の仏として非常な信仰をうけたのである。鎌倉時代建久2年(1191)藤原貞慶(後の解脱上人)が日本の宗教改革者としてその運動を笠置寺から展開するとき笠置山は宗教の山、信仰の山として全盛を極めた時であった。 しかし元弘元年(1331)8月27日倒幕計画に失敗した後醍醐天皇を当寺に迎えたことにより攻防1ヶ月ついに笠置山は全山焼亡以後室町時代少々の復興を見たが江戸中期より荒療、ついに明治初年無住の寺となった。 明治9年丈英和尚孤狸の住む荒れ寺に住して笠置寺の復興につくすこと20年ようやく今日の姿となったのである。