興聖寺

興聖寺の名は、曹洞宗の開祖道元禅師が伏見深草に開いた由緒ある寺にちなみ、慶安元年(1648)淀城主永井尚政がそれを宇治の地に再興しました。 本堂は伏見城の遺材で造ったとも伝えられており、境内は禅寺にふさわしい威厳と静寂に満ちています。 また、山門に至る参道は琴坂と呼ばれ、紅葉の名所として知られています。 境内に安置されている平安時代後期の木造聖観音立像は、かつては源氏物語宇治十帖の古跡のひとつ、手習の杜に祀られたことから「手習観音」の呼び名で親しまれています。 宇治川の清流に架かる日本三名橋の宇治橋より川に沿って上流へ約800米、宇治川を背に総門(石門)を通り、春は新緑、夏は緑陰、秋は紅葉の琴坂(参道)200米を登れば能富造りの山門に至る。寺は曹洞宗の宗祖道元禅師開創になる初開の道場、佛徳山観音導利院興聖宝林禅寺である。 道元禅師は内大臣久我通親公を父とし、太政大臣藤原基一房公の女を母として正治2年1月(1200年)誕生され、3才で父を、8才で母を喪い、13才のとき母の遺言と世の無常を感じて木幡(字治)の松殿屋敷を出でて比叡山に登り、14才にて横川解脱谷寂場房の天台座主公円僧疋に就いて出家得度して勉学、ついで建保2年(1214年)京都東山建仁寺開山栄西禅師の会下に投じて参禅、貞應二年(1223年)24才のとき栄西禅師の高弟明全和尚と共に求法のため中園(宋時代)に渡航され諸方の禅寺を歴訪しての後、天童山景徳寺長翁如浄禅師に就いて、釈尊より51代の正法を嗣がれて28才の安貞2年(1227年)秋帰朝、3年を建仁寺で、次いで深草の安養院(現在の墨染欣淨寺)に閑居、弘誓院殿や正覚禅尼の寄進により極楽寺の子院観音導利院の旧跡に七堂伽藍を建立し、正法挙揚の道場として天橋元年(1233年)道元禅師34才のとき興聖宝林禅寺を開創されたのが当寺である。 在住10年正法の眼目たる普勧坐禅儀を初め正法眼蔵九十五巻の半数及び学道用心集典座教訓など多数を撰述して正法挙揚につとめられたのである。寛元元年(1243年)夏越前の領主波多野義重公の招請を受けて入越翌年傘松峰大佛寺を開堂され、次いで覚元4年(1246年)吉祥山永平寺と改められたのが福井の大本山永平寺である。 道元禅師入越後の興聖寺は数代の後、應仁の乱(1467年)の兵火に遭い伽監や記録等を焼失している。 寛水10年(1633年)永井信濃守尚政公下総国古河より山城国淀城主として入国の後、領内の霊跡周覧のとき道元禅師開創になる興聖寺の廃絶せることを惜しみ、両親菩提のため度安元年(1648年)伏見城の遺構を用いて諸堂を建立整備し、万安英種禅師を請じて再興し以来三百数十年江戸時代には畿内五ケ国の僧録寺として又曹洞宗の専門道場として幾多の俊秀を輩出し今日に至っている。 本堂は伏見桃山城の遺構を用いて建立され慶長5年(1600年)落城の時の血の手形足跡が残る縁板を前縁の天井にし、前縁は鴬張りの廊下である。本尊は道元縄師自作の釈迦牟尼佛を安置し知祀堂には源氏物語宇治十帖にある手習の聖観音を奉安している。開山道元禅師真像は道元禅師の弟子詮慧和尚が京都永興庵に奉安せる御真像で体内に御霊骨が納められている。大書院は大正元年(1912年)建立になり大正8年6月貞明皇后様行啓の書院で、次書院は明治10年(1887年)2月英照皇太后、昭憲皇太后両陛下行啓の書院である。 「春岸の山吹」と「興聖寺の晩鐘」は宇治十境に入っている。

橋寺(放生院)

古代より、水辺、特に橋は心霊が宿るところとされており、橋姫はその守り神です。 瀬織津比咩を祭神とする橋姫神社は、明治3年の洪水で流失するまでは宇治橋の西詰にありました。 境内には橋姫神社とならんで、同じく水の神である住吉神社が祀られています。 交通の要衝として発展してきた宇治にとって、宇治橋はとりわけ大きな意味を持っており、橋姫神社を巡って数々の伝承を生み出しています。 また、宇治が主要な舞台となっている、源氏物語宇治十帖の第一帖は「橋姫」と名づけられており、橋姫神社はその古跡となっています。 ◆由緒 孝徳天皇の御宇大化二年、南都元興寺の僧道登勅許を得て創めて宇治橋を架するにあたり其鎮護を祈らん為、宇治川上流櫻谷に鎮座まします瀬織津比咩の神を橋上に奉祀す。これより世に橋姫の神と唱ふ今の三の間と称するは、即ち其鎮座の跡なり。 後祠を宇治橋の西詰の地に移し住吉神社と共に奉祀す。明治維新までは、宇治橋の架換ある毎に新たに神殿を造営し神意を慰めたりしが、明治三年洪水の為め社地流出してより此の地に移す。 住吉神社は、往古は宇治川の左岸櫻の馬場にありし小社なり。彼の源平盛衰記に、平等院の北東の方結の神の後より武者二騎云々とあるもの即ちこれなり。 尚かの源治物語宇治十帖のうち橋姫の巻といふ一帖は、これに因みしものなるべし。 さむしろに衣かたしき今宵もや、我をまつらん宇治の橋姫。 古今集。 あじろ木にいさよふ浪の音ふけて、獨や袮ぬる宇治の橋姫。 新古今集。 はしひめのもみちかさねやかりてまし、たびねは寒し宇治の川風。 蓮月集。

松花堂庭園

松花堂(しょうかどう)は、江戸時代初期の僧侶(石清水八幡宮の社僧)で文化人であった松花堂昭乗がその晩年の寛永14年(1637年)に構えた草庵の名称である。 現在の京都府八幡市、石清水八幡宮のある男山の東麓に泉坊という宿坊があり、その中にこの草庵があった。 男山には石清水八幡宮に所属する宿坊が多数建っており「男山四十八坊」とも呼ばれたが、明治初年の神仏分離で宿坊はすべて撤去され、松花堂も旧所在地の南方に移築。 現在は「松花堂庭園・美術館」という文化施設となっており、財団法人やわた市民文化事業団が管理運営している。 現・松花堂は、移転前の旧地とともに「松花堂及びその跡」の名称で国の史跡に、「松花堂及び書院庭園」の名称で国の名勝に指定されている。

勝龍寺城

勝竜寺城(しょうりゅうじじょう)は、現在の京都府長岡京市勝竜寺に所在した、南北朝時代から江戸時代初期に存在していた日本の城である。城名は付近の同名古刹(勝竜寺)に由来する。 勝竜寺城は京都盆地の西南部、小畑川と犬川の合流地点に位置し、西国街道と久我畷が交差する交通上の要衝で、京都では山崎城につぐ防衛拠点であった。また勝竜寺城は古墳を流用して築いたのではないかと言われているが、『図説中世城郭事典』によると「主郭や沼田丸ではそれらしき痕跡は認められない」としている。