慈眼寺

慈眼寺(じげんじ)は、奈良県奈良市北小路町にある浄土宗西山派の仏教寺院。山号は大悲山(だいひざん)、本尊は聖観世音菩薩。聖武天皇の勅願によって観音堂が創建されたのがはじまりとされる。「やくよけ観音」の名で知られる。西国第二十一番札所。また境内には樹齢400年を越える奈良市指定の天然記念物の柿の木が繁茂する。 創建は聖武天皇の御宇の勅願により観音堂に不動愛染の二尊躰とともに聖観音菩薩を安置したことが始まりとされる。 境内二丁四方、寺領百石余りある南都諸大寺の一つであったが、松永久秀の乱逆により荒廃し、その後復興された。(『南都年中行事』,1750)元禄5年の東大寺開眼供養の際には、薬師寺、唐招提寺、秋篠寺、当麻寺はじめ南都の諸寺と共に本尊寺宝の公開をおこなったという。(『晴歩雨眠』,1972)

興善寺

創建の詳細は不詳だが、古くは元興寺奥之院、奥之坊であったといわれ、元興寺の子院であったと伝わる。天正年間に慶誉和尚が堂を建立して中興し、知恩院に属した。慶長8年(1603年)3月9日、興善寺内地子の赦免状が出されている。

頭塔

頭塔(ずとう)は、奈良市高畑町にある土製の塔。1辺30m、高さ10m、7段の階段ピラミッド状の構造をしている。奈良時代の建造で、東西南北の各面に石仏を配置する。1922年(大正11年)、国の史跡に指定された。 『東大寺要録』の記録では、奈良時代の僧、実忠によって造営されたという[1]。そこでは「土塔」(どとう)と表記されている。一方で、平安時代の『七大寺巡礼私記』以来の、玄昉の首塚である、という伝承もある。「どとう」が転訛して「ずとう」と称されるようになり、玄昉首塚説との関連で、「頭塔」という漢字が当てられたものと考えられる。 昭和になってからの研究では、石田茂作が「奈良時代末期においてインドの新様式を取り入れた最先端な仏塔」と結論づけた。 頭塔の各段には、浮彫(一部線彫)の石仏が配置されている。石仏のうち当初から露出していた13基が1977年(昭和52年)、重要文化財に指定され、2002年(平成14年)にはその後の発掘調査で見出された石仏14基のうち9基が追加指定されている[3]。石仏は当初は東西南北の各面に11基ずつ、計44基設置されていたものと推定される。東・西・北面の石仏は復元整備後、屋根付きの壁龕に安置されているが、南面の石仏は土の上に直接置かれている。 奈良文化財研究所による1986年(昭和61年)からの発掘調査終了後、北半部は復元保存、南半部は発掘前の現状保存の形で残されている。塔は版築による方形の土壇で、基壇は一辺32メートル、高さ1.2メートル。上壇になるにしたがって3メートルずつ縮小して、最上壇は一辺6.2メートルである。高さは奇数壇で1.1メートル、偶数壇で0.6メートル、基壇裾から最上壇までは約10メートルの高さである。 その形態に類似性が認められる日本国内の遺址として、堺市の大野寺に見られる「土塔」がある。

登弥神社

式内社として天神地祇二十二柱を奉祀し、木嶋大明神と称されています。2月1日の粥占は奈良市の無形文化財指定の伝統行事。また植付感謝、豊饒祈念祭での御湯神事も有名です。

宅春日神社

宅春日神社(やけかすがじんじゃ)は、奈良県奈良市白毫寺町にある神社。高円山西北の麓、能登川の南に鎮座する。 社伝によると、天児屋根命は神護景雲2年(768年)、河内国枚岡から大和国添上郡高窓山麓に移座し、同年の11月9日に現在の春日大社の地に留まられたが、高円山の社地が当社地にあたる。創祀以来春日大社禰宜家が奉仕して今日にいたる。 山の辺の道沿いの当地方はかつて大宅郷と称して、古代豪族の大宅氏が北大和を領していた際の要衝であった豊かな地域であったと伝わっている。 延宝9年(1681年)林宗甫の書いた『和州旧跡幽考』では、「焼春日」の名で、「平岡明神御影向ましまして、後は本宮の嵩にうつり給ひき。遷宮の後、雷火に社焼しより、俗に焼春日といへり。当代二座のやしろは、一社は春日明神、一社は法明房忍覚をいはひしとなり。」とある。 ◆境内社 境内に大山祇命を祀る山の神社がある。 あたらしく石玉垣をめぐらせ、モチの神木を中央におく祓戸社が整備されている。 その他、松神社の古い社殿が保存され、「松大明神」「杉大明神」と刻まれた灯籠がある。延宝3年(1675年)の『南都名所集』に、御田植祭に松・杉の葉を稲に代える由来が記されている。数多ある石灯籠の中では、万治2年(1659年)の四角円柱のものが最も古い。