奈良
石光寺(染寺)
石光寺(せっこうじ)は、奈良県葛城市にある浄土宗の寺院である。山号は慈雲山。本尊は阿弥陀如来。出土遺物等から飛鳥時代後期(白鳳期)の創建とみられる古寺で、中将姫伝説ゆかりの寺院である。境内には中将姫が蓮糸曼荼羅を織成する際に蓮糸を染めたという井戸「染めの井」と、糸を干したという「糸掛桜」があり、「染寺」と通称されている。観光的にはボタンの寺として知られ、境内にはボタン、シャクヤク、アジサイ、サクラ、サルスベリなどが植えられている。関西花の寺二十五霊場20番札所である。 役小角の開山と伝えられる。『元亨釈書』等に記載される縁起によれば、天智天皇(在位668〜671年)の時代、霊光を放つ大石が見つかり、天皇の勅命を受けてこの石に弥勒如来を彫らせ、堂宇を建立したのが始まりとされる。1991年(平成3年)には弥勒堂改築に伴う発掘調査の結果、飛鳥時代後期(白鳳期)の石造如来坐像、瓦、塼仏が出土した。この時の発掘調査で、平面五間x四間の堂跡が検出され、前述の石仏はこの堂に安置されていたものとみられる。また、境内に飛鳥時代後期といわれる塔の心礎がある。
今井町春日神社
おふさ観音
久米寺
当寺は推古天皇の勅願により用明天皇の皇子聖徳太子の御弟君にまします来目皇子の御建立された寺院であります。 皇子が七才の御時、眼病を患い給いしとき、御兄君聖徳太子のおすすめで、ここにおいて衆病悉除の薬師如来の願力を頼み、三十七日丹精無二の祈願を成し、二十一日満願の暁き、不思議なるかな二十五菩薩と御供に、一寸八分閻浮陀金の薬師瑠璃光如来天より皇子の左の御手に御降臨あらせられ、皇子の両眼は如来の大慈光明に照らし給ひ、両眼忽ちに平癒あらせられ故に皇子自ら吾は来目皇子と称し、金堂講堂鐘楼経蔵大門五重塔等造営ありて伽藍となし、皇子の御名を取りて来目の精舎と来目皇子七堂伽藍創立以前に武人の始祖大久米部之命の末孫等久米部の氏寺として、小寺院建立ありたり、即ち久米寺と称しその後養老二年印度摩伽陀国王善無畏三蔵は十善帝王の位を捨て、遠く天竺より我朝に来り当寺に寄留して日本最初の多宝大塔を建立し、三粒の佛舎利と大日経とを塔柱に納め給う。 大同二年十一月八日弘法大師は諸大弟子と宝塔内において経王を講讃し、はじめて真言密教宣布し給う、真言宗を日域に弘め給う密教弘演の根本秘宗傳燈の聖地である、後に久米寺と改称せられる。 ◆弘法大師と益田岩船 弘法大師と因縁深き益田岩船は久米寺元南大門より南七丁の丘上にある巨岩で不思議な石造物の一つである。 益田池碑の岩座であるとの説もあり、又、益田池の硬写は当山金堂の裏にあり。 ◆久米仙人と中風除箸 久米仙人は欽明天皇の御代金剛山麗葛城の里に生まれ吉野山龍門ヶ嶽にて神通飛行術を修得その後当寺に百数十年間奇住聖武天皇東大寺大仏殿御建立に際し国々の大木、大石を御徴発あらせらし砌勅命により神変不思議の仙術を以て三日三夜奈良大仏殿境内に運び集められその為御建立も速やかに成就せしめ給ふ聖武帝深くお喜びあらせられ、その功により免田三十町歩を仙人に賜わる仙人修行功徳の功あり一切衆生の中風と下の病を除かんため、御本尊薬師如来に誓願を立て吾身の像を彫刻あらせられ自ら孟宗竹を以て箸を御作りあらせられこの箸を日々利用するものは一生中風下の病を除き健康長寿疑ひなしと昔より伝えられている御利益をお受けになられた箸は年正月一回法要後焼却している、なを久米仙人自作の尊像は金堂内部にお祭してあります。 ◆重要文化財 多宝塔の由来 養老二年(718年)印度摩伽陀国の王善無畏三藏という人が帝王の位を持って我が国に来朝、720日(約二ヶ年間)の間、久米寺に寄留して髙さ八丈(10米909)四方の塔を建設し三粒の仏舎利、並びに大日経を塔中に納めた 当時我が国最髙最大の塔として広く内外に知られたのである実に弘法大師は延暦年間当久米寺に於て大日経を感得桓武天皇の勅を賜わり渡唐受伝の上大同2年11月8日(807年)多宝塔内に於て初めて真言宗密教を宣布した、即ちこれが真言宗根本道場の基礎となったのである。 たゞし 現在のこの塔は、嘉永初期京都御室御所仁和寺より賜わりいにしへの礎石の上に移築したものである