喜光寺

当寺は、養老5年(721)天平の僧行基菩薩によって創建された寺である。 この地は、平城京の右京三条三坊にあたり、通称菅原の里といわれ、寺名も菅原寺と呼ばれていた。 行基菩薩は東大寺造営にあたり、この寺の本堂を参考にしたことから、本堂は「大仏殿の試しの堂」としても知られている。 天平20年(748)、聖武天皇は菅原寺に行幸された折、ご本尊より不思議な光明を感得され、そのことを喜ばれ、「喜光寺」の寺額を与えたという。以後、菅原寺を喜光寺と改名したといわれている。 天平21年(749)2月2日、当寺の東南院において行基菩薩は入寂された。遺言により火葬とし、母の墓所のほとりに埋葬された。 その後、喜光寺は広い寺領を所有していたが、平安末期から鎌倉時代にかけて荒廃衰退した。 本堂(金堂)は室町時代初期(1400年頃)に再建され、現在国の重要文化財に指定されている。 ご本尊は、平安時代後期の造像で丈六の阿弥陀如来坐像である。国の重要文化財として信仰されている。 ◆本堂(重要文化財 室町時代) 当寺は、明応8年(1499)に焼失しましたが、その後再建されたのが、現在の本堂です。重層の本堂は薬師寺の東塔や金堂と同様に裳階を付けた美しい復古建築であります。上層支輪のあたりに天窓を造り、西方の光が入り、阿弥陀如来の来迎を彷彿とさせ、浄土信仰にふさわしい阿弥陀堂といえます。 ◆阿弥陀如来像(重要文化財 平安時代) 創建当初のご本尊が何であったかは不明ですが、現在は平安時代に像造された丈六の阿弥陀如来がご本尊であります。木彫の上に下地漆を塗り、その上を金箔仕上げにして造られていますが、今は,お顔にその一部を残すのみでお顔の表情は実に静かで穏やか、そして肩から胸にかけて衣文の線は流麗であり、彫りはやや浅くそれがかえって阿弥陀如来の慈悲深さを感じさせています。 ◆南大門 平成22年(平城遷都1300年)に「いろは写経」勧進と、「南大門復興奉賛会」初め多くの方々のご結縁により、450年振りに復興されました。南大門には、彫刻家(文化勲章受章者)中村晋也氏が制作された仁王像が祀られ、また上層内陣には納経された「いろは写経」が永代供養されています。 ◆行基菩薩 行基菩薩は、喜光寺を東大寺の大佛建立勧進の拠点として全国を行脚されました。また天平21年(749)、ここ喜光寺にて入寂されました。 行基菩薩は、師・道昭菩薩の教えを継ぎ、民間伝道や社会福祉に傾注し、民衆から「菩薩」と仰がれ、信仰を集めました。天平17年(745)には、聖武天皇から日本で最初の大僧正に命ぜられた奈良時代を代表する名僧です。