若宮神社

十二月十五日~十八日に執行される春日若宮おん祭(重要無形民俗文化財)は、1136年折りからの長雨のため全国に疫病や飢饉が蔓延し、これを鎮めるために始められた祭典で、平安時代より現在に至るまで絶えることなく奉仕され続けている、日本を代表するお祭の一つです。 このお祭は神様が本殿から御旅所にお遷りになり、再びお還りになる古代の祭を伝える遷幸・還幸の儀や華やかな時代絵巻が繰り広げられるお渡り式をはじめ、平安朝以来の貴重な芸能が数多く演じられる御旅所祭などが行われます。 ◆御祭神:天押雲根命 若宮様は平安の中頃、長保五年(1003)に大宮第四殿に神秘な御姿で出現された水を司る神様。当初は第四殿の内に、 その後獅子の前にお祀りされていましたが、保延元年(1135)に現在地に神殿を造営して遷宮が行われました。 毎年、十二月十五日から十八日にかけて行われる若宮神社の御例祭春日若宮おん祭は保延二年(1136)、折からの長雨のため全国に疫病や飢饉が蔓延したのを鎮めるために始まり、以来一度も途絶えることなく現在まで奉仕され、神様が本殿から御旅所にお遷りになり、再びお還りになるなど古来の祭を伝える貴重な祭事です。 また華やかな時代絵巻が繰り広げられる御渡り式や平安朝以来の貴重な神事芸能が数多く演じられる御旅所祭等があり、国の重要無形民俗文化財にも指定されている日本を代表するお祭の一つです。

不退寺

仁明天皇の勅願により近衛中将兼美濃権守加戯郡部朝臣の建立になる不退寺は大同4年(809)平城天皇御譲位の後、平城京の北東の地に萱葺きの御殿を造営、入御あらせられ「萱の御所」と呼称せられた。その後皇子阿保親王及びその第五子業平朝臣(825-880)相承してこゝに住した。 業平朝臣伊勢参宮のみぎり天照大神より御神鏡を賜り「我れつねになんじを護る。なんじ我が身を見んと欲せばこの神鏡を見るべし、御が身すなわち神鏡なり。」との御神勅を得て霊宝となし、承和14年(847)詔を奉じて旧居を精舎とし、自ら聖観音像を作り本尊として安置し、父親王の菩薩を弔うと共に、衆生済度の為に『法輪を転じて退かず』と発願し、不退転法輪寺と号して、仁明天皇の勅願所となった。 略して不退寺(業平寺)と呼び、南都十五大寺の一として、法燈盛んであった。その後時代の推移と共に衰頽したが慶長7年(1602)、寺領50石を得て、一時寺観を整え南都に特異な存在を示した。昭和5年(1930)4月久宮邦英殿下が御来山なされ、修理進捗の記念に、香炉1基を下賜されたことが、寺史に精彩を加えている。 ◆南門(重要文化財) 切妻造本瓦葺の四脚門で、方柱には大きな面を取り左右身柱の上に豪壮な板蟇股を載せ、中央冠木の上には束を中心に、笈形風にいろいろと飾り立てているのが特異である。鎌倉末期の建築で、昭和九年の修理により墨書銘を発見確認されている。笈形を盛んに用いた室町・桃山の建築様式の先駆をなしたともいえる最古のものである。 ◆本堂(重要文化財) 桁間五間、梁間四間、屋根単層、寄棟造本瓦葺、軒は二軒で二重繁?、斗拱は三斗の枠組、中備に間斗束を配している。軸部は円柱で正面の頭貫を虹梁の様態に扱っている。これが正面中央に虹梁を架けた最初のもので、この方法が鎌倉時代に入って一般となったもので注目すべき点である。内部の柱頭部に三斗を組み、木鼻をつけている特異な構造であって、中央に二条の大虹梁を架け、梁の上に太瓶束を立て・折上組入天井の廻縁を支えている。爾未、桃山・江戸・昭和と三回の修理を経て現在に至ったもので、その様式を完全に残している。 ◆多宝塔(重要文化財) 柱は方柱大面取、方一二間で中央の間に板扉を開き、左右には青鎖窓をはめている。斗拱は三斗出組とし、斗拱間には鎌倉時代特有の美しい蟇股を配し、柱頭部には頭貫を通じ、貫端に天竺様の木鼻を附けている。内部は二重折上げの小組格天井をはめ、彩絵を以て装飾している。その一部は修理に際し復原されたものである。この塔には最初上層があって檜皮葺であったことが寛政年間刊行の大和名所図絵によって明らかで、高さは十三メートル六〇、明治以降下軸部のみとなったとはいえ、鎌倉中期の特徴を具え当代の多宝塔としては出色のもので、池を隔てゝ見る姿はまことに優雅である。 ◆聖観世音菩薩立像(重要文化財) 1メートル90(平安初期)、本尊であって木彫一木造りで、全身胡粉地に極彩色の花文装飾を施した豊満端厳な像で、業平朝臣御自作の代表的な名作である。 ◆五大明王像(重要文化財)  木彫着彩、不動明王(中尊)降三世明王(四面八臂)1メートル50、軍茶利夜叉明王(一面八臂)1メートル58、金剛夜叉明王(三面六臂)1メートル46、大威徳明王(六面六臂牛騎)1メートル45の五躯であるが、五大明王がかく完備したのは珍らしいもので金剛夜叉明王は特に傑出している。藤原時代中期の作風をもつ貴重な遺作である。 ◆阿保親王坐像(県指定文化財) 1メートル、木彫、鎌倉時代のもので、肖像彫刻中の佳作で業平朝臣の父である。 ◆地蔵菩薩立像 70センチ、木彫一木造りで、弘仁時代の作で多宝塔に安置された千体地蔵の本尊とも言うべきものであろうと言われている。千体地蔵は現在数体残しており、墨書銘によると(御仏千躰地蔵菩薩安浪御作也…)安浪作の千体地蔵が安置されてあったことが判った安阿彌のかへ字で、名工快慶をいうのであろう。 ◆石棺(5世紀) 庫裡の庭にあって石材は春日砥(砂岩の一種)で、心ない草刈の人たちがこれで鎌を研いだと思われる痕が沢山残っている。附近には古墳が沢山あって、おそらくそこから運ばれたものであろうと言われている。

帯解寺

当山は、勤操大徳の開基巌渕千坊の一院で霊松庵と申しました。 そして今から約千年前、人皇55代文徳天皇の御妃染殿皇后 (藤原良房公の女)が永い間お子様が生まれず、大変お悩みの折、祖神春日明神のお告げによって、さっそく勅使を立てられて帯解子安地蔵菩薩にお祈り遊ばされ、間もなく御懐妊、月満ちて惟仁親王(清和天皇)を御安産になられました。 文徳天皇はお喜びのあまり天安2年(858)春、さらに伽藍を建立になり寺号を改められ、帯解寺と勅命せられました。帯解の名称はこれから始まりました。 ◆徳川時代 徳川2代将軍秀忠公にお世継ぎがなく、正室お江の方が 当本尊に御祈願になって、めでたく竹千代丸(3代将軍家光公)を御安産されました。そして、3代家光公もお世継ぎがなく、側室お楽の方が同様に祈願されて、4代家綱公をご安産され、家光公は、当寺に仏像、仏具等を寄進されております。寛文3年(1663) には4代家綱公より手水鉢の寄進があり、 元禄5年(1692)東山天皇の御時も当山に祈願されて亀の宮を御安産、また明和7年(1770)烏丸大納言の方、嘉永4年(1851)伏見邦家親王の御女伏見宮御息所等、いずれの御方も当地蔵尊にお祈りになって、御安産遊ばされています。 ◆近年の帯解寺 このように創建以来あまたの皇族・将軍はじめ大衆の安産・求子祈願霊場として人口に膾炙され、昭和34年美智子皇后(当時皇太子妃)御懐妊に際して東宮御所に伺候、安産岩田帯、御守を献納、その折「この度のおめでたに際して御所としては、全国200ヶ所の神社仏閣(安産霊場)の中 から御霊験のあらたかな、皇室と関係の深い帯解寺と香椎宮とを選びました。」とのお言葉あり、ついで平成3年秋篠宮妃紀子殿下そして平成13年皇太子妃雅子殿下御懐妊に際しでも同様安産岩田帯、御守を献納しております。 当山では千年来伝わる秘宝の祈祷を修し、安産御守を授与、また子宝なき方には門外不出の秘伝文書により住職自ら御守、護符をしつらえ、一週間祈祷を修して授与申し上げております。このご本尊帯解子安地蔵菩薩は至心に祈願すればたちどころに利益を賜る広大無辺の御仏です。 ◆本尊・地蔵菩薩像(国指定重要文化財) 帯解寺の本尊地蔵菩薩像である。左手に宝珠、右手に錫杖を執り、左足を踏み下げて岩座上に坐す。 地蔵菩薩がこのように半跏の姿勢をとるのは、一説に釈迦入滅後、弥勒仏がこの世に下生するまでの無仏の期間に現れて衆生済度につとめる地蔵菩薩を、兜率天で修行中の弥勒を表わす弥勒半跏思惟像と同じような姿勢で表わしたことによるといわれる。わが国では、平安時代後半期から流行するが、また腹前に 裳の上端の布や結び紐を表わすことが多く、それ故、「腹帯地蔵」として安産祈願の対象としても信仰をあつめた。この帯解子安地蔵菩薩は、そのなかにあって、現在に至るまで霊験あらたかなことでは、このうえない名像として広く信仰をあつめている。 檜材を用いた寄木造の像で、頭部は前後に矧いで挿首とし、躰幹部も前後に矧ぐものと思われる。表面は彩色仕上げ。肩幅の狭いわりに頭部を大きく造るところが本像の一つの特徴といえ、膝にかかる衣の浅い彫りなどには前代の古様が見られる。寺伝によると、安政の地震で堂が転倒し本像も大破したといい、各部に修理の痕跡が認められる。なお錫杖の旧物の一部が、別に保存されている。 ◆本堂(江戸時代) 天安2年(858)文徳天皇の皇后(染殿皇后=藤原明子)が当寺に祈願し、清和天皇が誕生したことで地蔵堂を建立したが永禄10年(1567)に松永弾正の兵火にあい焼失した。その後江戸時代3代将軍家光の援助で再建されたが、安政の大地震で倒壊し、安政5年(1858)に再興されたのが現在の本堂である。最近本堂の後方に防火施設の整った収蔵庫兼内陣部を付設して、後顧の憂いをなくした。 ◆庫裡・書院(室町時代) 床、違棚、付書院を設け落ちついた間取りと成っている。東側の庫裡と一つづきの切妻造りだが庫裡は大改修されており、玄関の敷居から両側の部分に古い柱間が残っている。木組みから見て、永禄10年(1567)松永弾正に焼かれたあと、元亀元年(1570)頃再建された当時のものと考えられている。

手向山八幡宮

この手向山八幡宮は、奈良時代聖武天皇が大仏の造営をされたとき、これに協力のため749年(天平勝宝元年)に宇佐から八幡宮を迎え大仏殿の近く鏡池(八幡池)の東側に鎮座したのに始まる。そして以後、東大寺を鎮守したのである。 鎌倉時代の1250(建長2年)に北条時頼によって現在地に遷座した。 4975

大安寺

弘法大師・空海やインド人の僧・菩提せんな(ぼだいせんな)などの幾多の名僧が住した官寺。ガン封じの寺としても知られる。 聖徳太子に起源を持つとされる大安寺は、平城遷都とともに現在の地に移転し、遷寺1300年の年を迎える。南都七大寺のひとつで、わが国の高名な学僧と共に奈良時代に海外から来日した僧侶の多くが居住した大安寺は、当時の国際交流の拠点でした。

西大寺

創建は奈良時代の天平宝字8年(764)称徳天皇が鎮護国家と平和祈願のために、7尺の金銅四天王像の造立を発願されたことに始まります。 造営は翌年天平神護元年(765)からほぼ宝亀末年(780)頃まで続けられたと考えられていますが、創建当初の境域は東西11町、南北7町、面積31町(約48ヘクタール)に及ぶ広大なもので、ここに薬師、弥勒の両金堂をはじめ東西両塔、四王堂院、十一面堂院など、実に110数宇の堂舎が甍を並べていました。 文字通り東の東大寺に対する、西の大寺にふさわしい官大寺でありました。 その後平安時代に再三の災害に遭い衰退しましたが、鎌倉時代も半ば頃になって、稀代の名僧興正菩薩叡尊上人がこの寺に入って復興に当たり、創建当初とは面目を新たにした密・律兼修根本道場として伽藍を整備されました。現在の西大寺の伽藍は、ほぼこの頃の様子を伝えています。 ◆由緒 西大寺の創建は奈良時代の天平宝宇8年(764)に称徳天皇が鎮護国家と平和祈願のために、七尺の金銅四天王像の造立を発願されたことに始まる。 造営は翌天平神護元年(765)からほぼ宝亀末年(780)頃まで続けられたが、当時の境域は東西十一町、南北七町、面積三十一町(約48ヘクタール)に及ぶ広大なもので、ここに薬師、弥勒の両金堂をはじめ東西両塔、四王堂院、十一面堂院など、実に百十数宇の堂舎が甍を並べていた。 文字通り東の東大寺に対する西の大寺にふさわしい官大寺であった。しかし、その後、平安時代に再三の災害に遭い、さしもの大伽藍も昔日の面影をとどめずに衰退した。 しかし鎌倉時代も半ば頃になって、稀代の名僧興正菩薩叡尊(1201~1290)がこの寺に入って復興に当たり、創建当初とは面目を新たにした真言律宗の根本道場として伽藍を整備された。いまみる西大寺はほぼこの頃のプランを伝えている。 興正菩薩は鎌倉時代の南都四律匠の一人で当時おろそかになっていた戒律の教えを最も尊重し、かつ最も行動的に興した人である。したがって、その後、西大寺は室町時代の兵火などによって多くの堂塔を失ったけれども、興正菩薩以来の法燈は連綿として維持され、現在は真言律宗総本山として寺宝や宗教的によくその寺格と由緒をしのぶことができる。 ◆愛染明王坐像 わずか一尺ばかり(31.8cm)の小像であるが、愛染堂の秘仏本尊として大切に祀られているためか、衣紋の截金や深紅の彩色が鮮やかに残っている。 先年、像内からは木造六角幢形の容器に入った金銀製舎利容器や、この像の本軌である瑜伽瑜祇経(ゆがゆぎきょう)、造立願文(ぞうりゅうがんもん)などが発見された。 それらによると、この像は宝治元年(1247)に叡尊が願主となり、仏法興隆の念持仏として仏師善円が造ったものであることが分かった。 この愛染明王象は、寺伝によると弘安四年(1281)の元寇の役(13世紀後半に起こった蒙古襲来の事変)に際して叡尊が祈祷した愛染尊勝法の本尊であり、その祈願の最終日の夜には、明王が持つ鏑矢が妙音を発して西に飛び、敵を敗退させたという。 これにちなんで、近世(宝暦四年)にこの像が江戸回向院に出開帳された時、2代目団十郎が中村座で「矢の銀五郎」を上演し、また鳥居清信(江戸時代の浮世絵画家)が描いて奉納した絵馬が当寺に現存する。 ◆興正菩薩叡尊坐像 西僧房造営と同じ弘安3年(1280)8月26日に、弟子たちが仏師善春に造らせた師匠の肖像である。左手に払子をもち、衣の袖を左右に分けて、少しうつむきかげんに静かに坐る。像はきわめて写実のかった、まるで実在の人に接するような気魄に満ちたものである。 眉太く、鼻が大きく、口のひきしまった顔と、がっちりした頭の骨格からは、いかにも意思の強固な叡尊の偉大な人格を実感できる。わが国の肖像彫刻中、傑出したできばえを見せているが、また生前に造られた寿像として特異な地位を占めている。 先年、像内からおびただしい納入文書類が発見され、数千人におよぶ弟子僧俗の結縁によって、しかもそれぞれ文字通り一紙半銭の零細な喜捨が結集されて造られたものであることが明らかとなった。なお、仏師善春はさきの仏師法橋善慶の子息で、また善円・善慶の後継者として叡尊の知遇を受けた善派仏師である。

東大寺 二月堂修二会 (お水取り)

「お水取り」として知られている東大寺の修二会の本行は、かつては旧暦2月1日から15日まで行われてきたが、今日では新暦の3月1日から14日までの2週間行われる。 二月堂の本尊十一面観音に、練行衆と呼ばれる精進潔斎した行者がみずからの過去の罪障を懺悔し、その功徳により興隆仏法、天下泰安、万民豊楽、五穀豊穣などを祈る法要行事が主体である。 修二会と呼ばれるようになったのは平安時代で、奈良時代には十一面悔過法(じゅういちめんけかほう)と呼ばれ、これが今も正式名称となっている。 関西では「お松明(おたいまつ)」と呼ばれることが多い。

法華寺

法華寺は、聖武天皇御願の日本総国分寺である東大寺に対して、光明皇后御願に成る日本総国分尼寺として創められた法華滅罪之寺であります。寺地は平城宮の東北に位し、藤原不比等公の邸宅だつたのを、皇后が先帝ならびに考妣のおんために改めて伽藍となし給うたもので、以来星霜千二百五十年、おん慈しみ深かつた皇后の御精神を伝え、道心堅固に護られてきた女人道場「法華寺御所」であります。従って草創以来朝野の尊崇を集め、天平勝宝元年には詔して墾田一千町歩を施入せられ、大同年中には駿河、美濃、上野、武蔵、越後、伯耆、出雲その他に寺封五百五十戸を持つなど、天平の大伽藍にふさわしく堂宇もまた金堂、講堂、東西両塔、阿弥陀浄土院と荘厳のかぎりをつくしていたのであります。 しかしながら時勢とともに寺運ようやく哀え、中世の記録はさだかではありませんが、叡尊興正菩薩の再興、さらには豊臣秀頼公の外護、徳川氏の寺領二百二十石寄進などあつたとは申せ、ついにほとんど旧来の寺観を失うて今日に及びました。寺史を繙いて感慨を禁じ得ぬもの、ひとり当寺を護るもののみではありますまい。ただ、そのなかにあって、今なお世の名宝と仰がれる本尊をはじめ幾多の文化財を遺してきたことは、お互いにありがたいことと申さねばなりません。 貞明皇后様におかせられましては、大正十二年には本尊御宝前に菊御紋章入り御燈籠一対を御献納遊ばされ、大正十五年五月には祈願佛を当寺へ御遷座遊ばされましたが、以来門主は日夜、御祈願申しあげています。 ◆今日の寺観 いにしえの平城京左京一条、いま奈良市法華寺町の一廓に築地をめぐらして南大門を開いています。境内史跡指定建築物はこの南大門と本堂、鐘楼の三棟で、いずれも桃山時代に再建された重要文化財であります。本堂は慶長六年(西暦1601)豊臣秀頼公が淀君とともに片桐且元を奉行として再建した四注造・本瓦葺・桁行七間梁間四間の、もとの講堂であったらしく、その旨は勾欄の擬宝珠や本尊須弥壇の銘文によって明らかであり、向拝の蟇股・手挾の豪華な絵様彫刻に、桃山建築の精粋をうかがうことができます。 先年この堂の解体修理が行われた際、天平創建当時の礎石や古い柱根を発掘し、声なくして寺史の悠遠なことを偲ばせました。この古い礎石は、鐘楼の地下からも発見されております。 鐘楼の東北、別の廓内にある「から風呂」は、本願光明皇后が千人の垢をお流しあそばしたという由縁を伝えるもので、現在の遺構は慶長年間に修理されたものです。もって皇后のお徳をお慕いすることができましょう。なお南の築地外にあった横笛堂は、現在境内に移されたが、中世の当寺への信仰を物語るものであります。滝口入道との恋に破れてこの寺に入り、髪をおろして仏道修行に明け暮れた雑司横笛が住まった古跡と伝えています。 本堂の北に続く本坊書院は京都御所のお庭を移築したと伝えられる庭園で、史跡名勝になっています。奈良では数少ない遺構の一つで、これは皇室との関係深い当寺の近世における貴重な史料なのであります。 ◆霊像名宝のかずかず 本堂内陣、桃山様式の代表的な須弥壇上に、当寺本尊十一面観音立像を仰ぎます。印度健陀羅国王がつねづね観音さまを信仰しておられまして、その像を王宮に安置するため、観音菩薩生身のお姿と申す光明皇后をうつしまいらせようと、同国第一等の彫刻家問答師をわが国に遣わせられ、皇后のお許しを乞うて三躰の観音像を刻みました。うち一躰をわが皇宮にのこして帰国したのが、この本尊さまだという伝承が「興福寺濫觴記」に書かれてあります。古くから本像を光明皇后のお姿として崇めているゆえんであります。 本像は唐の檀像様式を受けついだ素木の一木彫成で、蓮葉の珍しい光背をおうて、謹直のうちにもやや寛がれたまうおん立ち姿の、あでやかにも美わしい印象は、拝む人々の心に深くしみわたる思いがいたします。なお、本尊御閉扉中は、御分身像を拝観していただきます。この御分身像は昭和四十年にインド政府に依頼し、最上の香木の白橿の一木作で日本では只ひとつの観音菩薩像であります。 天平時代にしばしば用いられた維摩居士像は、木心乾漆の手法により造顕されたもので、居士の面目躍如とした上代肖像彫刻の逸品とされています。ほかに天平末期の木造梵天・帝釈天頭、藤原時代の木造漆箔仏頭をはじめ、多くの御仏たちも堂内におまつり申していますが、滝口入道との間に交わされた文がらをもって自作したという横笛の坐像もともに供養のため安置しております。仏の道にいそしんだ佳人の心境が、このささやかな像から聞かれるようであります。 なお当寺では光明皇后御草創以来、護摩供を念じ、その清浄灰土をもってお作り申している犬守りを伝え、今日でも一山尼衆がその奉仕を続けていますが、さきに本堂解体修理のみぎり、はからずも礎石下から古様の犬御守一体を発掘いたしました。伝統の尊さ、ありがたいことであります。 当寺には別にわが国仏画の最高峯としてかくれない名宝絹本着色阿弥陀三尊及童子像を蔵しておりますが、香ぐわしさのかぎりといわれる傑作でありますが、保存の関係上、毎年一回十月二十五日から十一月十日まで当寺慈光殿にて公開し、一般有縁の方々に拝観して頂いて居ります。 ◆華樂園 内東側に約1000坪の平地に、東屋・蓮池を擁し、100本の椿をはじめ、めずらしい法華寺蓮・にんじん木等約750種の花木・草花があり、1年を通し四季おりおりの花々が鑑賞出来るようになっている。 ◆浴室(国指定重要有形民俗文化財) 法華寺本願光明皇后様が薬草を煎じその蒸気で多くの難病者を救済されたところで、建物は室町時代後期に改築されたが、敷石の―部は天平時代のものが残されている。 ◆光月亭(県文化財指定) 奈良県月ケ瀬村の民家を昭和46年当地に移築したもの。構造・手法から18世紀の建設と推定される。居室の天井は根太天井であるが、土間部では丸竹天井となる等東山地方の民家の発展形態を示す貴重な遺構である。

般若寺

奈艮北山の名刹、般若寺は飛烏時代に高句麗僧慧灌法師によって開創され、そののち天平18年(746)に至り、聖武天皇が平城京の繁栄と平和を願うため当寺に大般若経を奉納して卒塔婆を建立し、鬼門鎮護の定額寺に定められた。 また平安時代は寛平7年(895)の頃、観賢僧正が学僧千余人を集めて学問道場の基をきずき、のち長らく学問寺としての般若寺の名声は天下に知れわたっていたという。ところが源平の争乱に際しては、治承4年(1180)平重衡の南都焼討にあい伽藍は全て灰儘に帰し、礎石のみが草むらに散在する非運に見舞われた。 しかし鎌倉時代に入って般若寺は不死鳥の如く再生する。荒廃の中からまず十三重大石塔が、名も無き民衆の信仰の結晶として再建され(建長五年頃)、続いて良恵上人が本願となって十方勧進し、金堂・講堂・僧坊をはじめとする諸堂の復興造営をはかられた。 さらに文永4年(1267)には叡尊上人発願の文殊菩薩丈六大像が本尊に迎えられ、かつての大般若寺の偉容がみごとに復興したのである。それは同時に、境内の一隅に病舎を設けて孤独な病人を助けたり、布施行の大法要を営んで人生苦にうちひしがれた苦悩の衆生を済度するなど興法利生(正しい教えを興隆して社会に奉仕する)の寺をめざす復興でもあった。 その後、般若寺は室町戦国期の戦乱による衰微、江戸期の復興、明治の排仏と幾多の栄枯盛衰を経ながらも、常に自利利他(己れを高め他を助ける)の菩薩道精神を法灯にかかげ現代の復興を俟つに至っている。 ◆般若寺の御本尊 八字文殊師利菩薩騎獅像。頭髪は八髻。右手に剣、左手に般若経をのせた青蓮華をとる。獅子の背の蓮華座に坐す。瓔珞、腕釧の飾り。経蔵の秘仏本尊であった。 昭和31年の調査により、菩薩の膝前に胎内銘文が発見され、元亨4年(1324)3月7日、文観上人殊音が後醍醐天皇の御願成就のために造立したことが判明。信心施主は前伊勢守藤原兼光、大仏師法眼康俊、小仏師康成などの名が記されていた。後醍醐天皇のことは「金輪聖主」と書かれている。インド以来、理想の国王は武力ではなく仏法の力により世界を平和に統治すると考えられ「転輪聖王」と呼ばれた。また、転輪聖王の中で最も徳の高い国王は「金輪世界の聖王」と尊称される。仏教とくに真言密教を信仰された天皇は自らを大日如来の化身、「金剛薩埵」であると意識され、後に吉野山で御所を構えられた寺の名を「金輪王寺」と命名された。