郡山城

郡山城(こおりやまじょう)は、奈良県大和郡山市にあった日本の城。豊臣政権の中初期には秀吉の実弟羽柴秀長の居城となり、その領国であった大和・紀伊・和泉100万石の中心であった。江戸時代には郡山藩の藩庁が置かれた。 10世紀後半、郡山衆が雁陣の城を築いたという記録が郡山城の初見とされる。奈良時代には薬園が営まれていた。郡山城は、秋篠川と富雄川の中間に突き出た西京丘陵南端上に位置する。平山城または平城として明智光秀や藤堂高虎らが普請に携わり、筒井順慶や羽柴秀長らの主導によって改修された。奈良は良質な石材が乏しかったため、奈良一帯の各戸に五郎太石20荷の提供を義務付け、寺院の石地蔵や墓石、仏塔なども徴発され石垣石として使用された。中には、平城京羅城門のものであるといわれる礎石が使われていたり、8世紀ごろの仏教遺跡である「頭塔」(奈良市)の石仏が郡山城の石垣の中から見つかっている。 17世紀初頭、増田長盛が改易された後一時廃城となるが、水野勝成入封時に徳川幕府よって改修を受けた。その後は譜代大名が歴代城主を務め、柳沢吉里が入封後は柳沢氏が明治維新まで居城とした。 桜の名所として、日本さくら名所100選に選定されている。

慈眼寺

慈眼寺(じげんじ)は、奈良県奈良市北小路町にある浄土宗西山派の仏教寺院。山号は大悲山(だいひざん)、本尊は聖観世音菩薩。聖武天皇の勅願によって観音堂が創建されたのがはじまりとされる。「やくよけ観音」の名で知られる。西国第二十一番札所。また境内には樹齢400年を越える奈良市指定の天然記念物の柿の木が繁茂する。 創建は聖武天皇の御宇の勅願により観音堂に不動愛染の二尊躰とともに聖観音菩薩を安置したことが始まりとされる。 境内二丁四方、寺領百石余りある南都諸大寺の一つであったが、松永久秀の乱逆により荒廃し、その後復興された。(『南都年中行事』,1750)元禄5年の東大寺開眼供養の際には、薬師寺、唐招提寺、秋篠寺、当麻寺はじめ南都の諸寺と共に本尊寺宝の公開をおこなったという。(『晴歩雨眠』,1972)

興善寺

創建の詳細は不詳だが、古くは元興寺奥之院、奥之坊であったといわれ、元興寺の子院であったと伝わる。天正年間に慶誉和尚が堂を建立して中興し、知恩院に属した。慶長8年(1603年)3月9日、興善寺内地子の赦免状が出されている。

頭塔

頭塔(ずとう)は、奈良市高畑町にある土製の塔。1辺30m、高さ10m、7段の階段ピラミッド状の構造をしている。奈良時代の建造で、東西南北の各面に石仏を配置する。1922年(大正11年)、国の史跡に指定された。 『東大寺要録』の記録では、奈良時代の僧、実忠によって造営されたという[1]。そこでは「土塔」(どとう)と表記されている。一方で、平安時代の『七大寺巡礼私記』以来の、玄昉の首塚である、という伝承もある。「どとう」が転訛して「ずとう」と称されるようになり、玄昉首塚説との関連で、「頭塔」という漢字が当てられたものと考えられる。 昭和になってからの研究では、石田茂作が「奈良時代末期においてインドの新様式を取り入れた最先端な仏塔」と結論づけた。 頭塔の各段には、浮彫(一部線彫)の石仏が配置されている。石仏のうち当初から露出していた13基が1977年(昭和52年)、重要文化財に指定され、2002年(平成14年)にはその後の発掘調査で見出された石仏14基のうち9基が追加指定されている[3]。石仏は当初は東西南北の各面に11基ずつ、計44基設置されていたものと推定される。東・西・北面の石仏は復元整備後、屋根付きの壁龕に安置されているが、南面の石仏は土の上に直接置かれている。 奈良文化財研究所による1986年(昭和61年)からの発掘調査終了後、北半部は復元保存、南半部は発掘前の現状保存の形で残されている。塔は版築による方形の土壇で、基壇は一辺32メートル、高さ1.2メートル。上壇になるにしたがって3メートルずつ縮小して、最上壇は一辺6.2メートルである。高さは奇数壇で1.1メートル、偶数壇で0.6メートル、基壇裾から最上壇までは約10メートルの高さである。 その形態に類似性が認められる日本国内の遺址として、堺市の大野寺に見られる「土塔」がある。

登弥神社

式内社として天神地祇二十二柱を奉祀し、木嶋大明神と称されています。2月1日の粥占は奈良市の無形文化財指定の伝統行事。また植付感謝、豊饒祈念祭での御湯神事も有名です。

宅春日神社

宅春日神社(やけかすがじんじゃ)は、奈良県奈良市白毫寺町にある神社。高円山西北の麓、能登川の南に鎮座する。 社伝によると、天児屋根命は神護景雲2年(768年)、河内国枚岡から大和国添上郡高窓山麓に移座し、同年の11月9日に現在の春日大社の地に留まられたが、高円山の社地が当社地にあたる。創祀以来春日大社禰宜家が奉仕して今日にいたる。 山の辺の道沿いの当地方はかつて大宅郷と称して、古代豪族の大宅氏が北大和を領していた際の要衝であった豊かな地域であったと伝わっている。 延宝9年(1681年)林宗甫の書いた『和州旧跡幽考』では、「焼春日」の名で、「平岡明神御影向ましまして、後は本宮の嵩にうつり給ひき。遷宮の後、雷火に社焼しより、俗に焼春日といへり。当代二座のやしろは、一社は春日明神、一社は法明房忍覚をいはひしとなり。」とある。 ◆境内社 境内に大山祇命を祀る山の神社がある。 あたらしく石玉垣をめぐらせ、モチの神木を中央におく祓戸社が整備されている。 その他、松神社の古い社殿が保存され、「松大明神」「杉大明神」と刻まれた灯籠がある。延宝3年(1675年)の『南都名所集』に、御田植祭に松・杉の葉を稲に代える由来が記されている。数多ある石灯籠の中では、万治2年(1659年)の四角円柱のものが最も古い。

八幡神社(元石清水八幡宮)

八幡神社(はちまんじんじゃ)は奈良県奈良市東九条(とうくじょう)町に鎮座する神社(八幡宮)。大安寺の旧境内に鎮座し、もと同寺の鎮守神として大安寺八幡宮と称された。また、山城国男山の石清水八幡宮の元宮であるとの伝承を持つ事から元石清水八幡宮と称し、或いは辰市(たつのいち)4箇郷の氏神とされたことから、郷社石清水八幡神社や辰市八幡宮等とも称された。 なお、町内に当神社から勧請した同名神社が存在するので、併せて記載する。 応和2年(962年)5月11日の年紀をもつ『大安寺八幡宮御鎮座記』は、入唐した大安寺の僧侶行教が帰朝の途次に豊前宇佐八幡宮に参籠してその神影を奉戴、大同2年(807年)に大安寺東室第7院の石清水房に鎮座したのが起源で、後に神殿を造営して遷座し、「石清水八幡宮」と号して大安寺の鎮守神としたが、貞観元年(859年)に神託によって山城男山へ遷座したために改めてその跡に祀ったのが創祀であるとする。また異説として、保延6年(1140年)に著された『七大寺巡礼私記』はそれ以前の斉衡2年(855年)に行教が勧請して創祀したものとしている。 鎮座地は『七大寺巡礼私記』に「東塔の北に在り」とあるように、かつては大安寺の寺域に属して南には同寺の東塔が建っていた。また『御鎮座記』にある石清水房も「大安寺伽藍絵図」によると現社地と大安寺の間にあった事が確認できる。なお、建長7年(1255年)以前の成立とされる『七大寺日記』には大安寺の金堂の東に南北1町ほど(およそ120メートル)に連なった僧坊の跡がある事を記し、その北から4番目の坊が行教の坊であったとの古老の伝えを紹介、次いでその傍らに石清水という井戸がある事を述べるが、現社地北方の御霊神社境内にある「石清水の井」がその井の遺称であるという。 中世には「辰市八幡宮」と称され、辰市4箇郷の鎮守神として尊崇され、春日大社の正預に就任した者は必ず一度は頭役として勤仕する定めであった。永正元年(1504年)に焼失した記録があり、その後再興されたようであるが[2]、元亀2年(1571年)の松永久秀の辰市攻略等の戦乱で大安寺とともに衰微の道を辿り、慶長元年(1596年)閏7月12日には大地震によって同寺とともに罹災、その影響で大安寺が一時廃寺の状態となったために独立し、在地の氏神として村民の手によって復興された。 社伝によれば、文久3年(1863年)に大修理を、大正2年(1913年)に本殿と全末社の彩色を施している。 元石清水八幡宮 当神社が男山石清水八幡宮の元宮であるとの伝承については、『七大寺日記』も石清水の井が現存する事を以て「八幡石清水之根本(石清水八幡宮の根本)」であると述べているが、対する男山八幡宮はこれを否認しており、例えば天永4年(1113年)4月22日に南都七大寺が共謀してそれぞれの鎮守神の神輿を舁いで上洛、嗷訴に及ぶに際しては、興福寺の衆徒が男山八幡宮に対して元宮である大安寺八幡に従い神宝を具して参加するよう要求したところ、男山八幡宮は逆に男山から勧請したのが大安寺八幡宮であると反論し、従って嗷訴への参加を乞われる謂われは無いとこれを拒否している。