玉置神社

玉置神社(たまきじんじゃ)は、奈良県吉野郡十津川村にある神社。大峰山系の霊山の一つである玉置山の山頂直下の9合目に位置し、大峯奥駈道の靡(なびき)のひとつである。 社務所および台所、梵鐘は国の重要文化財。境内地の杉の巨樹群は奈良県の天然記念物。2004年7月に登録されたユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の構成資産・大峯奥駈道の一部。 社伝の『玉置山縁起』では崇神天皇によって崇神天皇61年(紀元前37年)に、熊野本宮(和歌山県田辺市本宮町)とともに創建されたと伝えられ、古来より十津川郷の鎮守であった。しかし、『旧事紀』には崇神天皇61年の記事はなく、玉置神社のことも伝えられていない一方で、『水鏡』伝の新宮創祀と同年であることから作為と考えられ、創建年代は不詳である。『玉置山縁起』をはじめとする社伝は、玉置山山頂近くに露頭する玉石を神体とする末社玉石社を玉置の称の由来とし、地主神または奥の院と位置づけており、山容を神奈備として崇拝することが起源であったと考えられている。 玉置山を熊野三山の奥の院と称するのは江戸時代中期頃に初見され、寛政年間の玉置山別当高牟婁院宛沙汰書は「玉置山之儀熊野三山奥院格別の由緒ニ付」と記し、『紀伊続風土記』は熊野本宮に玉置神社の遥拝所があったと伝える。神仏習合の後には、不動堂や大日堂を中心とする修験霊場となり、多数の塔頭・社坊が営まれた。社殿や祭神には時期により異同があり、今日にない社殿や、今日と社殿を異にする祭神も見られる。 鎌倉時代の寺社縁起『諸山縁起』に「玉木宿」とあるほか、『金峯山本縁起』に挙げられる百二十宿の中に「玉水宿」の名で記され、室町時代には入峯の宿となった。大峯・金峯・熊野を結節する要地として順峯・逆峯のいずれの大峯奥駈行においても重視され、その過程において社寺としてのかたちを得たと考えられる。江戸時代の聖護院門跡の大峯奥駈行においては峯中結願所として終点になっていた。 慶長年間の頃、社坊の一つ笹坊が、戦乱に乗じて十津川郷で恣意的な徴税を行ったところ、十津川の住人の訴えにより江戸幕府の聞き及ぶところとなり、笹坊とその共謀者は追放され、笹坊の所領は幕府に差し押さえられた。その後、元禄年間に至って社堂造営のため笹坊の旧所領の山林を伐材して財源とすることを試みたが、口添えする本寺がないため幕府に許されず、元禄4年(1691年)、安井門跡を本寺として頼み込んで造営を成し遂げた。以来、安井門跡の支配下に入ったが、別当が神領の立木を乱伐する旨が聖護院の関心をひき、門跡入峯の際の要衝を保護するため、享保12年(1727年)からは聖護院門跡が玉置山を支配下におさめた。社家・神職と社僧の間には長きに渡って確執があったが、このように相次いで有力な門跡の支配下に入ったことにより、社僧が優位に立った。聖護院門跡の下では、別当寺院の高牟婁院が建立され、7坊15か寺を従えて繁栄をみたものの、門跡の威光を借りた社僧が玉置山神領の山林だけでなく、近隣諸村の山林をも横領して聖護院領としたため、十津川郷との関係は疎遠なものとなった。一山の収入も高牟婁院に差し押さえられ、社家には割り当てられなかったため、社坊は衰退して数を減らした。 明治の神仏分離に際しては、十津川村内の他の寺院の例に漏れず、玉置山の仏教諸堂は破壊され、仏像なども破棄された。玉置山参道入口のある大峯奥駈道の本宮辻の近くには、「十津川五十余ヶ寺供養塔」なる文字の記された卒塔婆が今日に残っている。

大峯山寺

大峯山寺(おおみねさんじ)は、奈良県吉野郡天川村にある修験道の寺院である。大峯山山上ヶ岳の山頂に建つ。平安時代初期から現在に至るまで女人禁制で、毎年5月3日に戸開式(とあけしき)、9月26日に戸閉式(とじめしき)が行われる。世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として登録されている。役行者霊蹟札所。 14120

信貴山 千手院

信貴山千手院(せんじゅいん)は、奈良県生駒郡平群町にある信貴山真言宗の大本山。 朝護孫子寺の最古の塔頭であり、同時に最古の建造物(書院)を有する。 本尊は毘沙門天。境内には十一面観音を本尊とする観音堂や金運招福の銭亀善神を祀る。 信貴山千手院は、山内では最古寺院で朝護孫子寺(信貴山寺)の住職の自坊とされていた。 寺号は毘沙門天の本地仏千手観音に因むという。 信貴山は松永久秀の兵火により焼失、そのため歴史を記す書物が少ないが、 千手院には高瀬道常著『千手院代々記』と蓮体著『毘沙門天王秘宝蔵霊験記』などにより江戸から現在までの有様を知ることができる。 歴代住職が伝統として、毎日、毘沙門護摩を修行している。信貴山参詣者の宿坊でもある。

信貴山 玉蔵院

信貴山玉蔵院(しぎさんぎょくぞういん)とは、奈良県生駒郡平群町の信貴山にある総本山朝護孫子寺塔中の一つ。 平安時代、崇徳天皇の御代に、新義真言宗の開祖である覚鑁上人が信貴山に参篭した時、毘沙門天より真陀摩尼(ちんたーまに)という如意宝珠の珠を授けられ、この寺に蔵さめたという伝説から玉蔵院とよばれるようになったという。

穴師坐兵主神社

穴師坐兵主神社(あなしにますひょうずじんじゃ)は、奈良県桜井市にある神社である。式内社で、旧社格は県社。 元は穴師坐兵主神社(名神大社)、巻向坐若御魂神社(式内大社)、穴師大兵主神社(式内小社)の3社で、室町時代に合祀された。現鎮座地は穴師大兵主神社のあった場所である。 元の穴師坐兵主神社は、垂仁天皇2年に倭姫命が天皇の御膳の守護神として祀ったとも、景行天皇が八千矛神(大国主)を兵主大神として祀ったともいう。旧鎮座地は「弓月岳」であるが、比定地には竜王山・穴師山・巻向山の3つの説がある。祭神の「兵主神」は現在は中殿に祀られ、鏡を神体とする。神社側では兵主神は御食津神であるとしているが、他に天鈿女命、素盞嗚尊、天富貴命、建御名方命、大己貴神の分身の伊豆戈命、大倭大国魂神とする説がある。 巻向坐若御魂神社の祭神「若御魂神」は稲田姫命のことであるとされる。現在は右社に祀られ、勾玉と鈴を神体とする。元は巻向山中にあった。若御魂神については、和久産巣日神のことであるとする説もある。 上記の2社は、『正倉院文書』に天平2年(730年)に神祭を行った記録があり、貞観元年(859年)に従五位上の神階が授けられた。 穴師大兵主神社については鎮座年代は不詳である。祭神の「大兵主神」は現在は左社に祀られ、剣を神体とする。大兵主神の正体については、八千戈命(大国主)、素盞嗚命、天鈿女命、天日槍命という説がある。 中世ごろから、穴師坐兵主神社が穴師上社、穴師大兵主神社が穴師下社と呼ばれるようになった。応仁の乱のときに若御魂神社と穴師上社の社殿が焼失したことから、この2社を穴師下社(大兵主神社)に合祀した。明治6年(1873年)に郷社に列し、昭和3年(1928年)に県社に昇格した。 摂社として、野見宿禰を祀る相撲神社があり、相撲の祖神として信仰されている。

相撲神社

相撲発祥の地。垂仁天皇の御前で相撲の元祖といわれる野見宿禰(のみのすくね)が當麻蹶速(たいまのけはや)と力比べをしたという言い伝えによる。穴師坐兵主神社(あなしにいますひょうず)の境内にあるカタヤケシの社が、日本で最初に相撲がとられた場所とされ、勝負に勝った宿禰が祀られている。