銅鳥居(重文)-銅鳥居と書いて「かねのとりい」と読む。 聖地への入口、俗界と聖地の境界を象徴する建造物である。吉野から大峯山(山上ヶ岳)までの修行道には発心門、修行門、等覚門、妙覚門という、悟りへの4つの段階を象徴した門が設定されているが、そのうちの「発心門」にあたるのがこの鳥居である。 鳥居の柱が蓮台の上に立っているのは、神仏習合の名残りである。東大寺大仏を鋳造した際の余りの銅で造ったという伝承があるが、現存するものは室町時代の再興である。
奈良
桜本坊(櫻本坊)
桜本坊(さくらもとぼう)は奈良県吉野郡吉野町にある金峯山修験本宗別格本山。大峯山寺の護持院5箇院の1つでもある。本尊は神変大菩薩(役行者)。山伏文化の殿堂と言えるほど多くの文化財が残されている。役行者霊蹟札所。正式な表記は櫻本坊。 伝承によれば、天智天皇から逃れた弟の大海人皇子(後の天武天皇)は、「桜本坊」の前身である日雄(ひのお)離宮にとどまっていた。ある冬の日に桜が咲き誇っている夢を見た皇子が役行者の高弟・日雄角乗(ひのおのかくじょう)に訊ねたところ、「桜の花は花の王と云われ,近々皇位に着くよい知らせです」と答えた。その後、壬申の乱に勝利し,皇位に着いた天武天皇は、夢で見た桜の木の場所(日雄離宮)に寺を建立したとされる。 文禄3年(1594年)に行われた豊臣秀吉の花見の際には、関白・秀次の宿舎となった。もとは金峯山寺の蔵王堂の前に在って密乗院と称していたが、明治初年の神仏分離の際に「桜本坊」と改称された。現在は宿坊も営む。
東南院
吉野神宮
弘願寺
喜蔵院
脳天大神 龍王院
如意輪寺
如意輪寺(にょいりんじ)は、奈良県吉野郡吉野町にある浄土宗の寺である。山号は塔尾山(とうのおさん)。本尊は如意輪観音。本堂の背後には、吉野の地で崩御した後醍醐天皇の陵・塔尾陵(とうのおのみささぎ)、世泰親王墓がある。 平安時代の延喜年間(901年 - 922年)に日蔵上人により開かれたと伝わる。南北朝時代、後醍醐天皇が吉野に行宮を定めた際に勅願所とされたが、天皇は還京叶わぬまま崩御して本堂裏山に葬られた。以来寺運は衰えたが、慶安3年(1650年)文誉鉄牛上人によって本堂が再興され、その際に真言宗から浄土宗に改宗した。 正平2年(1346年)12月、楠木正成の長男・楠木正行が四條畷の戦いに出陣するに際し、一族郎党とともに当寺にある後醍醐天皇陵に詣で、辞世の歌「かへらじとかねて思へば梓弓なき数に入る名をぞとどむる」を詠んだという。正行は当寺本堂の扉に鏃(矢じり)で辞世の句を刻んだとされ、その扉とされるものが今も寺に伝わる。 芭蕉は、ここに立ち寄った折、「御廟年を経てしのぶは何をしのぶ草」などの句を残している。