室生龍穴神社

室生寺よりも古い歴史をもち、水の神「龍神」を祀る。奈良時代から平安時代にかけて朝廷からの勅使により雨乞いの神事が営まれ、室生寺は龍穴神社の神宮寺であった時代もある。 当社の上流には龍神が住むと伝わる洞穴「妙吉祥龍穴」があり、古代から神聖な「磐境」とされてきた。室生では、「九穴八海」という伝説が伝えられ、九穴とは、三つの龍穴と六つの岩屋をいう。また、八海とは、五つの渕と三つの池をさしている。

仏隆寺

仏隆寺(ぶつりゅうじ)は、奈良県宇陀市榛原赤埴(はいばらあかばね)にある真言宗室生寺派の寺院である。山号は摩尼山。本尊は十一面観音。 室生寺の南門として本寺と末寺の関係にある。 空海(弘法大師)が唐から持ち帰った最古の茶を栽培したといわれ、大和茶発祥の地とされる。彼岸の頃には約200段もの石段の両側をヒガンバナの花が埋め尽くす。 平安時代前期の嘉祥3年(850年)に空海(弘法大師)の高弟・堅恵(けんね)により創建されたと伝わるが、それ以前に奈良・興福寺の修円が創建したともいわれる。

宇太水分神社

宇太水分神社(うだみくまりじんじゃ)は、奈良県宇陀市菟田野古市場にある神社。大和の東西南北に祀られた四水分神社のうち東に当たるのが当社とされる(他の3つは都祁水分神社、葛城水分神社、吉野水分神社)。宇陀地域には他に2つの水分神社があり、宇陀市榛原下井足(はいばらしもいだに)の宇太水分神社を「下社」、同市菟田野上芳野(うたのかみほうの)の惣社水分神社を「上社」、本項で解説する同市菟田野古市場の神社を「中社」とも称する。 古市場の由緒によると、創立は崇神天皇の時代で、2003年の社殿の塗り替えの時にわずかに残された色彩が発見されそれを元に復元された。 ◆本殿3棟(国宝) 同形同大の社殿3棟が相接して並列する。向かって右から第一殿、第二殿、第三殿で、それぞれ天水分神、速秋津比古神、国水分神を祀る。建築形式はいずれも一間社、隅木入春日造で、屋根は檜皮葺きとする。第一殿の棟木に元応2年(1320年)の墨書があり、第三殿も同時期の建立とみられる。第二殿は棟木に永禄元年(1558年)の墨書があり、この時に新造に近い改築を経たとみられる。第一・第三殿は、隅木入春日造で建立年代の明らかなものとしては最古のものである。身舎と向拝柱の間には繋虹梁(つなぎこうりょう)を渡さず、手挟(たばさみ、柱上の組物と垂木の間に取り付ける三角形の材)を入れるのみである。繋虹梁を用いないのは、3棟の社殿を側面から見た場合の見通しを考慮したためとみられる。

阿紀神社

阿紀神社(あきじんじゃ)は奈良県宇陀市大宇陀迫間(おおうだはさま)に鎮座する神社。旧社格は県社、延喜式内社。旧称は阿貴宮および神戸大神宮、通称は神戸明神。 神代に神楽岡に創建され、崇神天皇の勅によって神戸大神宮の号を賜わる。安土桃山時代(天正年間)に本郷川西岸の現在地に遷座されたときに、現在の社名へと改められた。江戸時代前期に能舞台が建設され、能が上演されるようになる。1902年(明治35年)に郷社から昇格して県社に列格した。

金剛山寺(矢田寺)

矢田寺は、奈良県大和郡山市にある高野山真言宗の寺院。山号は矢田山。正式の寺号を金剛山寺という。 別名「あじさい寺」とも呼ばれ、境内には約10,000株、約60種のアジサイが植えられている。 さらに矢田寺大門坊では、古くより容眞御流華道の家元として、華道研究も盛んに行われている。(Wikipedia)

松尾寺

松尾寺は、奈良県大和郡山市にある真言宗醍醐派の別格本山。山号は松尾山または補陀洛山。本尊は千手観音。開基は舎人親王と伝える。 日本最古の厄除け寺と称され、2月・3月の初午の日の縁日には多くの参詣者でにぎわう。境内にはバラ園があり、バラの名所としても知られる。

大野寺

大野寺(おおのでら、おおのじ)は、奈良県宇陀市にある真言宗室生寺派の寺院である。山号は楊柳山、本尊は弥勒菩薩、開基は役小角と伝える。室生寺の西の大門に位置する。宇陀川岸の自然岩に刻まれた弥勒磨崖仏があることで知られ、枝垂桜の名所としても知られる。役行者霊蹟札所。 宇陀川沿いの景勝の地にあり、近鉄室生口大野駅方面から室生寺へ向かう際の入口に位置する。伝承では白鳳9年(681年)、役小角(役行者)によって草創され、天長元年(824年)に空海(弘法大師)が堂を建立して「慈尊院弥勒寺」と称したという。役小角は修験道の開祖とされる伝説的要素の多い人物であり、空海が堂を建立との話も創建を宗祖に仮託した伝承とされており、創建の正確な経緯は不明である。近くにある室生寺は興福寺系の僧によって創建・整備されており、大野寺の磨崖仏造立にも興福寺の僧が関係していることから見て、興福寺と関係の深い寺院であったと考えられている。 宇陀川をはさんだ対岸にある弥勒磨崖仏は、「石仏縁起」(万治2年・1659年)や「興福寺別当次第」によれば、興福寺の僧・雅縁の発願により、承元元年(1207年)から制作が開始され、同3年に後鳥羽上皇臨席のもと開眼供養が行われたものである。 寺は明治33年(1900年)の火災で全焼した。その際、本尊をはじめとする仏像などは持ち出されたが、現存する建物はすべて火災以後のものである。

石上神宮

石上神宮は、大和盆地の中央東寄り、龍王山の西の麓、布留山(標高266メートル)の北西麓の高台に鎮座し、境内はうっそうとした常緑樹に囲まれ、神さびた自然の姿を今に残しています。北方には布留川が流れ、周辺は古墳密集地帯として知られています。 5083