京都御苑内に鎮座。旧西園寺家の鎮守社で、祭神は市杵島姫命、妙音弁財天とも称し、音楽の神様としても信仰されている。 1224年(元仁1)、西園寺公経が北山殿(現在の金閣寺の地)造営の際に建立した妙音堂に由来するとされる。その後幾多の変転を経て、近古には赤八幡京極寺にもしばらく鎮座され、1769年(明和6)、西園寺邸の移転と共に現在地に移り再興、禁裏御祈祷所と定められ、また庶人の信仰も集めるようになった。明治になって西園寺家は東京へ移り、妙音堂は廃祀の危機に合うが地元有志の尽力により存続、1878年(明治11)、かつての鎮座地名をとり現社名に改められる。 礼拝は巳の日毎、午前7時より30分位の参拝式が行われ、お祓い、お清めが受けられます(参拝ご自由・無料) 例祭は毎年6月15日午後1時よりお火焚祭は11月10日午後2時より執行されます。
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石像寺(釘抜地蔵)
正しくは家隆山光明遍照院(かりゅうざんこうみょうへんしょういん)石像寺と写し、俗に「釘抜地蔵」ともいう。 弘法大使の開基と伝え、もと真言宗であったが、重源(ちょうげん)上人が中興してから浄土宗となった。 むかし、歌人の藤原定家(ていか)、家隆(いえたか)が住んだところという。 地蔵堂に安置する石造地蔵菩薩(ぼさつ)立像は弘法大使の作と伝え、もろもろの苦しみを抜き取るという親交から苦抜(くぬき)地蔵といい、それがなまって釘抜地蔵といわれる。本堂には行基(ぎょうき)の作と伝える観世音菩薩もあわせてまつっている。 地蔵堂背後の阿弥陀三尊像(立像一、座像二、重要文化財)は、鎌倉初期の傑作で、中尊の阿弥陀如来像は高さ約一、二メートル、元仁元年(1224)伊勢権守(いせごんのかみ)、佐伯朝臣為家(さえきあそんためいえ)によって彫られ、翌年、開眼(かいげん)供養した銘がある。 境内墓地には藤原定家、家隆の墓と伝えるものや、弘法大使三井(さんせい)の一つという加持水(かじすい)がある。
宝鏡寺 (人形寺)
中世京洛に栄えた尼五山の一つであった景愛寺の法灯を受け継ぐ宝鏡寺は、光厳天皇皇女華林宮惠厳禅尼公が伊勢二見浦で、漁網にかかった聖観世音菩薩を奉じて創建・開山による臨済宗単立の尼門跡寺院。 百々御所(どどのごしょ)の御所号をもつ。 孝明天皇遺愛の人形をはじめ、多くの人形を所蔵、‘人形の寺’として有名。 ふだんは非公開だが、春と秋に人形展が開かれる。 3月1日~4月3日、11月1日~30日の春秋2回、宝鏡寺。長い尼門跡寺院の歴史のなかで、皇室から下賜された人形、歴代の門跡ゆかりの寺宝が多数所蔵されており、これらを中心に寺宝の人形が展示される。 人形愛好家必見の催し。期間中、本堂、阿弥陀堂など特別公開。
阿弥陀寺
蓮臺山・※そう見院・阿弥陀寺、織田信長の法名「※そう見院」を冠する浄土宗寺院・百万遍知恩寺末。信長の帰依を受けた清玉上人開山、当時蓮臺野芝薬師に塔頭十三ケ院、八町四方の伽藍を構えていた織田家の菩提寺。 信長公本廟たる由縁は、天正十年六月二日未明、信長公宿所たる本能寺の異変を清玉上人は察知し、駆けつけるが間に合わず、近習の武士達に遺骸を託され持ち帰る。 その後明智光秀の陣を訪ね、戦闘の停止と、嫡子信忠・森蘭丸等、当日本能寺、二条城にて自刃・討死した織田家中百余名の遺骸の収容・供養を申し出、光秀はこれを受諾、清玉は阿弥陀寺にて供養、墓を建てた。 今も信長はじめ百余名の討死衆の合祀位牌が現存、供養されている。その後秀吉の寺町造成に伴い寺域を縮小、移転され現在の場所に移る。信長公本廟とは、大正六年位階追陞(信長公に正一位を追贈する儀式)の為に宮内庁調査により、阿弥陀寺の信長公墓が廟所であると確認され勅使の来訪があった。 六月二日のみ「信長忌」勤修の為堂内拝観可。併せて各種寺宝公開。 ※名称中「※そう」は手偏に総のつくり
菅原院天満宮神社(烏丸の天神さん)
白峯神宮
当神宮は、崇徳(すとく)天皇及び淳仁(じゅんにん)天皇を祀る。 明治天皇は父孝明天皇の遺志を継ぎ、保元の乱により讃岐国(香川県)へ配流になった崇徳天皇の慰霊のため、明治元年(1868)讃岐の白峯陵より神霊を迎えて、創建された。 次いで明治6年(1873)には奈良時代に僧道鏡と恵美押勝の争いにより、淡路島に配流の淳仁天皇の神霊を迎えて合祀された。 例祭は4月14日(淳仁天皇祭)・9月21日(崇徳天皇祭)で、蹴鞠(けまり)や薪能(たきぎのう)が奉納される。 この地は蹴鞠・和歌の宗家飛鳥井家(あすかいけ)の邸跡で、同家の守護神「まり精大明神」が祀られ球技愛好者に崇敬されている。他に「伴緒社(とものおしゃ)」「潜龍社(せんりゅうしゃ)」などの境内社があり、「おがたまの木」は京都市の天然記念物に指定。
梨木神社
当社は、明治18年(1885)に創建された旧別格官弊社で、三条実萬(さねつむ)・実美(さねとみ)父子をまつり、社名は、三条家の旧邸が、梨木町にあったことに因んでこのように名付けられた。 実萬は、文化9年(1812)以来47年間、光格、仁考、孝明三天皇に仕え、皇室の中興に尽し、幕府と対立し、幕府より圧迫をうけ一乗寺に幽居したが、安政6年(1859)逝去し、忠成公の号を賜った。 実美は、幕末期に尊王攘夷運動の先頭に立ち、東奔西走し、明治維新後は大政大臣に任ぜられ、明治24年(1891)逝去し、正一位を贈られ、大正4年(1915)父を祀る当社に合祀られた。 茶室は、京都御所春興殿(賢所(かしこどころ))の神饌殿を改装したもので、その井戸は、名水染井の一つとして茶人の間にうたわれている。 また、当社は、萩の名所として知られ、毎年9月の第3日曜日に催される「萩まつり」の行事には、多数の参詣者で賑う。 由緒 1885年(明治18)創建、明治維新の功労者三條実万・実美父子を祀る。 手水舎の井戸の‘染井の水’は京の三名水の一つ。 ハギの名所でもあり、9月の中旬~下旬には萩まつりも。上田秋成や湯川秀樹らの歌碑もある。
廬山寺(廬山天台講寺)
安楽寺
住蓮(じゅうれん)山と号し、浄土宗の寺院である。 鎌倉時代の初め、現在地より東1キロメートルばかりのところに、法然上人の弟子住蓮房・安楽房二僧が念仏道場を建てて人々に念仏をすすめた。たまたま、後鳥羽上皇の官女松虫・鈴虫両姫が教化をうけてひそかに出家する事件がおこり上皇の立腹をうけ、「念仏停止」の宣下によって二僧は死刑、法然上人は土佐へ、親鸞聖人は越後へと配流された。 これがいわゆる建永2年(1207)の法難であるが、下って室町時代の末、天文年間(1532~1555)二僧の供養のため伽藍をこの地に再興したのが当寺である。 本堂には本尊阿弥陀三尊像を安置し、傍に住蓮・安楽両上人、松虫・鈴虫両姫の座像、法然上人張子の像等をまつっている。 また、境内右手に住蓮・安楽両房の五輪石塔、東方山林中に松虫・鈴虫両姫の五輪石塔がある。 この寺は、鎌倉時代のはじめ浄土宗元祖法然上人の弟子の住蓮上人と安楽上人が、現在地より東1キロメートルのあたりに「鹿ヶ谷草庵」を結んだことに始まる。 住蓮上人と安楽上人は、唐の善導大師の『往生礼讃』に譜曲を附し、六時礼讃声明を完成された。両上人が勤める声明は、まことに美しく、参詣者の中には出家して仏門に入る者もあった。その中に、後鳥羽上皇に女官として仕えていた松虫姫と鈴虫姫姉妹がおられえ。両姫は容姿端麗で教養も重富であった。上皇からことさら寵愛を受けていたために、他の女官たちからの嫉妬も相当なものであったという。両姫は、虚飾に満ちた御所での生活に苦悩し、心の平安を求め、いつしか出家を望むようになった。 建永元年(1206)12月、後鳥羽上皇が紀州熊野に参詣の留守中に、両姫は清水寺で法然上人の説法を聴聞し、念仏(南無阿弥陀仏)によって救われるほかに道はないと自覚された。御所に反られてからもその説法が忘れられず、夜中密かに御所を忍び出て「鹿ヶ谷草庵Jを訪れ、雨上人の前で剃髪出家し、尼僧となった。時に松虫姫は19才、鈴虫姫は17才であった。 この事を知った上皇は激怒し、この出求事をひとつの口実として専修念仏教団に対し弾圧を企てた。翌建永二年(1207)二月九日、松虫姫を出家させた住蓮上人は、近江国馬淵(現在の滋賀県近江八幡市)において斬首に処された。また鈴虫姫を出家させた安楽上人は京都六条河原(現在の泉本願寺近く)において斬首に処せられた。この迫害はこれに止まらず、法然上人は七十五歳の高齢にも拘らず讃岐国(現在の香川県高松市)に流罪、親鸞上人は越後国(現在の新潟県上越市)に流罪に処された。 その後、両姫は瀬戸内海に浮かぶ生ロ島の光明坊に移り、念仏三味の余生を送り、松虫姫は35才、鈴虫姫は45才で往生を遂げたと伝えている。 また両上人の亡き後「鹿ヶ谷草庵」は荒廃したが、流罪弛から帰京した法然上人が雨上人の菩提を弔うために草庵を復興し、「住蓮山安楽寺」と名付け両上人の追善の寺とした。その後、天文年間(1532~1555)の末、現在地に本堂が再建され今日に至る。 [松虫姫鈴虫姫和讃] 松虫姫と鈴虫姫が、住蓮上人と安楽上人のもとで剃髪染衣を求め、出家する経緯が七五調の句を重ねた美い、調べをもって語られている。安楽寺では、4月と11月の両姫の祥月忌に和讃法要を勤めるほか、毎月一度、和讃月例会を聞いている。 [中風まじない鹿ヶ谷カボチャ供妻:] 毎年7月25日に、京都お伝統野菜の一つである瓢箪型をした鹿ヶ谷カボチャを煮炊きしたものを参拝者に振舞い、中風にならないようにと願う行事がある。併せて、当山の宝物(掛軸)の虫干しも行う。 【くさの地蔵 地蔵縁日復興】 安楽寺の地蔵菩薩立像(くさの地蔵)は、古くから皮膚病や腫蕩平癒にご利益あリと信仰される。平成3年(1991)の解体修理で胎内に墨書銘が認められ、鎌倉時代中期の正嘉2年(1258)5月2日の作の木造であり、作者も慶派の仏師であることが判明した。2015年5月2日、地蔵堂が再建されたことに合わせて、「地蔵縁日」も150年ぶリに再開された。
大将軍八神社
当社は、平安建都の際に都城の方除(ほうよけ)守護神として造営されたのが始まりとされ、当初は大将軍堂と称したが、江戸時代初期になって大将軍社と改められ、更に大将軍八神社となって現在に至っている。 大将軍とは、陰陽道にいう星神天大将軍で、方位をつかさどる神である。このため、建築・移動・旅行などに関し、方除け、厄除けの神として世間の崇敬を集め、その時々の権力者達も当社を厚遇したといわれる。 当社には、平安時代中期から末期にかけての大将軍信仰高潮期に奉製されたと思われる「神像」百余体が所蔵されている。このうち、武装像、束帯像、童子像合わせて八十体が昭和47年(1972)に重要文化財に指定された。いずれの像も、独特の表情、装束で異彩を放っており、興味深い。また、陰陽道に基づく、古天文暦道資料(府指定文化財)も蔵されている。










