玄武神社

祭神として、文徳天皇の皇子である惟喬親王(これたかしんのう)を祀り、別名惟喬社(これたかのやしろ)とも呼ばれている。 社名の玄武とは、青竜、白虎、朱雀とともに王城を守る四神のひとつで、当社が平安京の北にあることから北面の守護神としてこのように名付けられたものである。 当社の起りは、親王の外祖父にあたる紀名虎(きのなとら)が所蔵していた親王寵愛の剣を、元慶年間(877~85)に、当時この地に住んでいた星野茂光が祀ったと伝えられている。 当社では、毎年4月の第二日曜日に、やすらい花が行なわれる。 この民俗芸能は、桜や椿で飾られた風流傘を中心に、鉦、太鼓、笛等で囃しながら、鬼や小鬼が町を踊り歩くもので、平安時代の疫神送りの花鎮めに由来し、芸能の変遷過程を示すものとして貴重なものである。

常照寺(檀林の寺、吉野の寺)

当山は、元和2年(1616)本阿弥光悦の土地寄進を受け、寛永4年(1627)その子光瑳の発願により日蓮宗総本山身延山久遠寺第21世寂照院日乾上人(じゃくしょういんにちけんしょうにん)を招じて開創された山城六壇林(やましろろくだんりん)の一偉観「鷹峰壇林」の旧跡である。 吉野門と呼ばれる朱塗りの山門は、寛永三名妓天下随一の太夫と謳われた二代目吉野太夫(灰屋紹益(はいやじょうえき)の妻)が寄進したものである。 境内には本堂を中心に開山堂、鬼子母尊神堂(きしもそんじんどう)、常富堂(つねみどう)、衆みょう堂(しゅうみょうどう)(書院)、梅樹庵(庫裡)などがある。 また吉野太夫の墓所や吉野窓を設えた茶席遺芳庵(いほうあん)、聚楽亭や全国でも唯一の帯塚(おびづか)などがある。 毎年4月第2日曜日には吉野太夫を偲ぶため「吉野太夫花供養」が行われ、太夫道中や供茶法要、茶会などが催され全国各地からの参詣者で賑わう。 ◆由緒 寂光山常則寺は洛北の山裳にあり俗に鷹峰三山と呼ぶなだらかな三つの丘陵を西に望むところにある。 当山は、元和2年3月(1616)本阿弥光悦の土地寄進とその子、光瑳の発願によって身延山第二十一世日蓮宗中興の相、と敬仰される寂照院日乾上人を招じて開創された鷹峰檀林(学寮)の旧跡で、それ以来連綿と続き世に山城六檀林中の一偉観をなしてきたのである。 盛大な頃は広大な境内に大小三十余棟の堂宇がならび幾百人となく勉学にいそしむ学僧で賑わったことは本阿弥行状記や元政上人の日記などに紹介されている。 ◆開山廟 本堂の右裏手に墓地がありその中央の建物に日乾上人の五輪塔のお墓がまつられている。ケヤキのお扉には珍しい形の五七の桐か彫刻されている。 ◆寺宝と茶席遺芳庵 檀林関係の写本類が多く特に珍種とされる祖書研究資料の録内啓蒙の版木、伝教大師作と伝えられる三面大黒天、妙見大菩薩像、日乾上人像、光悦筆の扁額「学室」正面の栴檀林の額は六牙日潮筆、光悦画「蓮乗口輪」などく吉野太夫の好んだ大丸窓(俗に吉野窓)を配した遺芳庵という茶席は墓地の北側の谷を望むところにあり毎月佳人を偲んで釜がかけられて賑わう。 また四月の桜の季節には名妓慰霊のため島原の太夫道中による墓参、供茶法要が営まれ境内随所に野点茶席が設けられて京の名物行事となっている。 ◆吉野太夫の墓 吉野太夫は遺言により日乾上人廟の裏手に葬られている。「唱玄院妙蓮日性信女」がその戒名であり、歌舞伎俳優や芸能人、数奇者のこの地を訪れる人が多い。 ◆名妓 吉野太夫 都の六条三筋町の郭に寛永のころ、天下の名妓として、一世を風靡しその才色兼備を謳われた二代吉野太夫(松田徳子)が光悦の縁故により日乾上人にまみゆるやその学徳に帰依し寛氷5年二十三才のとき自らに財を投じて朱塗の山門を寄進したのが今に残る吉野門である。吉野は和歌、連歌、俳句、書、茶湯、香道、音曲、問答、双六と諸芸に秀で、その美貌は唐の国にまで喧伝されたという。夫の豪商灰屋紹益(佐野重孝)も文学、趣味豊かな粋人で二人のロマンスは後世演劇、歌舞伎に戯曲化されて有名である。 吉野は寛永廿年八月廿五日齢三十八才で病没した。 ◆鬼子母尊神 当山境内の北西(いぬい)の方には、三体の鬼子母尊神像と、十羅刹女をまつる鬼子母尊神堂がある。 鬼子母尊神は、もともと子供を殺して食べる悪鬼だったが、仏の教えを聞いて懺悔し、改心してのち、子育て、子授けの神様、信仰する者を守護する神様となった。十羅刹女はその眷属である。堂内右側の厨子には、行者守護を表わす鬼面の鬼形鬼子母尊神、左側には子安の母形鬼子母尊神がまつられ、正面には、鬼面をして、お腹に子供を宿し、足もとに男女の子供を連れた姿の、行者守護と子安の両面を示す、双身鬼子母尊神がまつられ、子供め成長や、さまざまな願いを持った人々が祈願に訪れる。 ◆常富大菩薩のご縁起 当山境内には鎮守社として常富大菩薩をまつってある。 享保年間のこと、学寮に於て智湧という学僧が勉強しておられた。山内にしばしば奇瑞不思議が起るので噂となりとかく常人と異る智湧をいぷかった学頭職空妙院日善上人が一夜その室を覗いたところ白狐が一心に書見していたという。姿をみられた白狐はやむなく当山を去って摂津能勢妙見山に登って修行を重ね常富大菩薩となられたのであるが、当山を去るに際し檀林首座宛に道切証文、起請文(二通とも末文のところに爪の印が押されている)を書いて残していったのが当山に霊宝として保存されている。 ◆比翼塚 吉野太夫と紹益の比翼塚と歌碑が昭和46年歌舞伎俳優の片岡仁左衛門丈らによって建てられ、ここを訪れる人々に当時を偲ばせてくれる。 ◆帯塚 女性の心の象徴"帯"に感謝し祈りを捧げる全国初の帯塚が在洛の各界知名士の発起によって昭和44年5月ゆかりの吉野門のほとりに建立された。 因みに塚石は四国吉野川産の自然石(吉野石)で珍しい帯状をなしている。重さは6トン、作庭は造園界の権威中根金作氏によって苔をもって鷹峰三山を表現したもの。恒例行事として毎年五月には帯の時代風俗行列や帯供養が営まれる。 ◆帯塚由緒 万葉の昔から今日まで帯は時代によってその様式意匠に幾多の変遷を重ねてきました。わが国の工芸人達は帯に魂を込め祈りを捧げ、又愛好者もその魂の移り香を懐かしみました。このように帯は常に日本女性のいのちを表現してまいりました。 この日本伝統の美風を永く存続し、染織文化に携わる人は勿論、全国きもの愛好家の美と文化への感謝の象徴として、京洛各界名士の発起により昭和44年(1969)5月全国初の帯塚が建立されました。珍しい帯状をなした四国吉野川産の塚石は重さ6トンあり、苔をもって鷹ヶ峰三山を表現した庭園は中根金作氏の設計監理によるものです。ここに帯着物を供養し皆様の幸福と文化の発展を祈るものです。 ◆名妓 吉野太夫の墓 吉野太夫は西国の武士松田某の娘として育った。故あって後、京都島原(六条三筋町)名妓となる。遊女としての最上位にあったというだけではなく、教養高く詩歌、管弦、茶の湯、香道の諸芸に秀で、当時上流階級の社交場の花とうたわれた。京の町衆の代表的な文化人であった灰屋紹益とのロマンスは特に名高く、今なお美しい語り草とされている。 佳人薄命であった吉野は寛永20年8月25日、38歳の若さで没したが、当山開山日乾上人に深く帰依し生前山門を寄進した縁によりここに葬られる。 後に歌舞伎の第十三代片岡仁左衛門らによって当山に紹益・吉野比翼塚が建立される。

六請神社

北山と号する臨済宗相国寺派の別格本山で、足利義満が応永4年(1397)に営んだ山荘・北山殿を、その死後、禅寺に改め、義満の法号をとって鹿苑寺と名付けたものである。 金閣(舎利殿)は、宝形造り(ほうぎょうづくり)こけら葺きの山荘楼閣で、初層は藤原時代の寝殿造り風、第二層は鎌倉時代武家造りの仏間風、第三層は禅宗仏殿風の様式をとり、二層、三層とも漆塗の上に金箔を押してある。 昭和25年(1950)に焼失し、昭和30年(1955)に再建され、さらに昭和62年(1987)に金箔張替修理が行なわれた。

総見院

大徳寺の塔頭。 豊臣秀吉公が織田信長公を菩提を弔うために建てた寺院とされる。 本堂には信長公の木像があり、作者は運慶・湛慶の流れを組む康清によるものとされる。

天寧寺

山号は萬松山(ばんしょうざん)と号し、曹洞宗に属する。 当寺は、もと会津(福島県)城下にあったが、天正年間(1573~1592)に、天台宗松陰坊の遺跡といわれるこの地に移転されたと伝えられている。 その後、天明の大火により堂宇を焼失したが、本堂は文化9年(1812)に、書院は天保14年(1842)に再建された。 本堂には、仏師春日作と伝える本尊釈迦如来像を、観音堂には後水尾天皇の念持仏聖観音像及び東福門院の念持仏薬師如来像を安置している。 境内墓地には、江戸時代の茶人として有名な金森宗和(かなもりそうわ)、剣道示現流の開祖といわれる善吉和尚(ぜんきつおしょう)らの墓がある。 また、山門を通して眺める比叡の秀峰は、あたかも額縁に入れたように見えるところから、山門は「額縁門」と呼ばれて親しまれている。

芳春院

当院は,慶長13年(1608年),加賀の前田利家の夫人芳春院が,玉室宗泊を開祖として建立した大徳寺の塔頭で,前田家の菩提寺である。建物はその後火災に逢い,現在の本堂は明治初年に建てられたものである。 本堂背後には,飽雲池を前にした二重の樓閣呑湖閣があり,金閣,銀閣と同様,樓閣山水庭園として名高い。 呑湖閣は,元和3年(1617)に前田利家の子利長が小堀演習に依頼して建てたものと伝えられる。池の上に架かる打月橋には,開祖玉室の筆による「打月」の二字の額を掛けている。 池中には,かきつばたやすいれんが多く,花時は見事である。 庭園は度々改造されてはいるが,なお創建時の面影を伝えている。 墓地には,芳春院の霊屋,かの東寺百合文書の整理を行った前田綱紀の霊屋をはじめ,前田家代々の墓がある。 ◆由緒 加賀藩主・前田利家の正室まつが創建した大徳寺の塔頭寺院で、平成28年に400年遠忌を迎えるまつの法号から寺名がつけられた。 「呑湖閣(どんこかく)」(内部は非公開)は、「金閣」「銀閣」「飛雲閣(ひうんかく)」と並んで「京の四閣」の一つとも称される優美な二重楼閣。 利家の子・利長が、小堀遠州(こぼりえんしゅう)に依頼して建てたものといわれ、「飽雲池(ほううんち)」とそこに架かる「打月橋(だげつきょう)」とともに見事な楼閣山水庭園を作り上げている。 また、芳春院の木像や前田家歴代の御霊牌を祀る本堂の前庭は、「花岸庭(かがんてい)」と名付けられた端正な枯山水庭園である。

上善寺

千松山遍照院(せんしょうざんへんしょういん)と号する浄土宗の寺院である。 寺伝によれば、貞観5年(863)に、僧円仁により、天台密教の道場として、千本今出川(上京区)に創建されたと伝えられている。その後、文明年間(1469~87)に、春谷盛信(しゅんこくせいしん)によって再興され、後柏原天皇の勅願寺として栄え、文禄3年(1594)、寺域を現在の地に移し、浄土宗に改められた。 地蔵堂に安置する地蔵菩薩は、平安時代の初め、小野篁(おののたかむら)が一度息絶えて冥土へ行き、生身の地蔵尊を拝して蘇った後、一木から刻んだ六体の地蔵の一つと伝えられ、俗に、「深泥池地蔵」、又は、「鞍馬口地蔵」とも呼ばれている。 この地蔵は、当初、小幡の里に祀られていたが、保元年間(1156~59)に、洛北の御菩薩池(深泥池)の畔に祀られ、さらに当寺に移されたものといわれている。 毎年8月の22・23日の両日の京都六地蔵巡りには、多くの参拝者で賑う。 由緒 浄土宗。千松山遍照院と号す。貞観5年(863)円仁が天台密教の道場として創建したと伝え、文明年間(1469~1487)春谷盛信が天台真盛宗として再興、現在の寺号を定める。文禄3年(1594)千本今出川から現在地に移り、天台真盛宗から浄土宗へと改宗もする。  本尊としてお祀りしている阿弥陀仏坐像は寛永11年(1634)嵯峨今林蓮華清浄寺から移してきたものであり、行基作と伝えられる。地蔵堂には洛北の深泥池ほとりより移した深泥池地蔵が安置されており、京都六地蔵めぐり(8/22~8/23)の一つに数えられる。  境内には合わせて今出川家歴代の墓や禁門の変で戦死した長州藩士の首塚もある。  また、「二河白道の庭」をはじめ「釈迦八相の庭」「三笑の庭」「仏教伝来の庭(二祖対面の庭)」がある。

興臨院

当院は大徳寺の塔頭で、大永年間(1521~1528)能登の畠山義総が仏智大通禅師を開祖として建立したといわれ、みずからの法名を寺号とした。 当院の方丈・唐文・表門そして所蔵の椿尾長鳥模様堆朱盆は重要文化財である。 方丈は創建後に火災にあったが、天文2年(1533)に再建されたらしく、さらに畠山氏衰微ののち、天正年間(1573~1592)前田利家によって修復なども行なわれた。 方丈玄関の唐門は室町時代の禅宗様式を見事にあらわしており、表門も創建当初のもので「興臨院の古文」として有名である。  一方、バイタラ樹の名木がある枯山水の庭や茶席「涵虚亭(かんきょてい)」のおもむきが深い。 なお、墓地には畠山家歴代の墓や久我大納言夫妻の墓など、当院ゆかりの人々の墓も多くある。

上品蓮台寺

蓮華金宝山九品三昧院と号する真言宗智山派の寺である。 寺伝によれば、当寺は、聖徳太子の創建と伝え、当初香隆寺(こうりゅうじ)と称したが、天徳4年(960)宇多法皇の勅願により、寛空僧正(かんくうそうじょう)が再建し、寺号を上品蓮台寺と改めたといわれている。 当時は、広大な寺域に伽藍(がらん)が建ち並び壮大なものであったが、応仁の兵火により悉く焼失した。文禄年間(1592~96)性盛上人(しょうせいしょうにん)が復興し、当寺の外に十二の支院を建立したので、俗に十二坊の名で呼ばれるようになった。 しかし、現在支院は三院を残すのみである。 本堂には、村上天皇より賜った上品蓮台寺の勅額を掲げ、内部には、本尊延命地蔵菩薩像を安置している。 寺宝としては、著色絵因果経(国宝)、著色文殊菩薩画像、著色六地蔵画像(ともに重要文化財)など、多くの文化財を蔵している。

黄梅院

大徳寺塔頭。永禄五年(1562)織田信長父・信秀の追善供養のために信長の創建、「黄梅庵」と名づけた。 下って天正14年(1586)、豊臣秀吉、小早川隆景に依って本堂、庫裏、唐門等諸堂の改築がなされて、「黄梅院」と改め塔頭の一つとなる。 それぞれ国の重要文化財に指定されている。 障壁画(雲谷等顔、等益筆 重文)や武野紹鴎の茶席「昨夢軒」や千利休の作庭した「直中庭」等、室町時代の遺構を今に伝えられてきていて興味深い。 ◆由緒 当院は臨済宗大徳寺派大本山の塔頭のひとつである。「黄梅院」とは、お釈迦様から代を重ねて32代目・弘忍大満禅師のゆかりの地である中国の黄梅県破頭山東禅寺に由来し名付けられた。 永禄5年(1562)織田信長公が28歳のとき羽柴秀吉を伴い初めて入洛すると信長公は秀吉を京都所司代に任じ、併せて父・信秀の追善菩提のために普請を命じ小庵を建立させた。この小庵は大徳寺98世住持・春林和尚を開祖に迎え「黄梅庵」と名付けられた。これが当院の始まりである。  天正10年(1582)6月2日、本能寺の変により信長公が急逝すると、同年10月15日密葬され、その後、秀吉は「黄梅庵」に築を加える。しかし主君の塔所としては小なりとし、信長公の法名・総見院殿より総見の名を採り山内に別に「総見院」を建立し、お祀りした。当院は築を新たにし、天正14年5月秀吉によって本堂と唐門が改装され、天正17年(1589)鐘楼・客殿・庫裏等を小早川隆景普請奉行のもとに改築落慶し、この年「庵」を「院」にあらためています。 ◆直中庭 利休66才の時に作られたものである。秀吉公の希望による軍旗瓢箪をかたどった池を手前にし、大徳寺2世徹翁和尚が比叡山より持ち帰ったと伝える不動三尊石を正面に、加藤清正伝承の朝鮮灯篭を左に配した苔一面の池泉式枯山水庭園である。 ◆破頭庭 本堂前庭に位置する。半分手前を白川砂で半分向いを桂石で区切り苔を配し観音・勢至の二石でまとめられた簡素な庭で天正年間に作庭されている。 ◆庫裡(重要文化財) 切妻造板葺で、火番寮・典座寮・納所寮・知客寮・旦過寮とそれぞれの寮舎になっており、禅宗寺院の生活様式をそのまま現代によく伝えている。小早川隆景の寄進によって天正17年4月に完成。日本に現存する禅宗寺院の庫裡として最古のものである。庫裡は火を扱う所であり、火災を起こしやすいため古式の庫裡は残存しにくい。故に現存している遺構として貴重である。昭和60年12月解体修理が施された。 ◆本堂(重要文化財) 禅宗特有の様式がよく表された本瓦葺入母屋造である。内部は室中と仏間を中心に檀那の間・礼の間・大書院の間に分かれている。天正14年5月に秀吉公の援助により落慶している。昭和52年、400年ぶりの全面解体工事がなされた。 ◆唐門(重要文化財) 建立は本堂と同じ年に完成されている。 ◆表門 天正17年完工され、庫裡の造営と同じく小早川隆景によって寄進されている。なだらかな兜型の門である。平成17年、修理を施された。 ◆鐘楼 鐘は1592年加藤清正によって寄進されたもので朝鮮伝来のものと伝う。現存の鐘楼は益田玄播守によって建立された。獅子頭の彫刻が施されている。平成17年、修理を施された。 ◆書院自体軒 大徳寺開山大燈国師の遺墨「自休」を扁額に懸けて軒名とした、千利休の茶道の師である武野紹鴎作の作夢軒という茶室がある。平成23年、修理を施された。作夢軒の席は貴人床になっていて、書院自休軒の中に組み込まれているところから囲え込み式と言われている。 ◆襖絵 桃山時代のもので重要文化財に指定されているが、現在の襖絵は複製になっている。本堂の中には雲谷等顔の水墨壁画が収められている。室中には竹林七賢図・檀那の間に西湖図・礼の間に芦雁図等四十四面となっている。 ◆作仏庭 本堂北裏側に位置し北東に枯山水の滝を表す立石を配し、本堂前の破頭庭へと連なった作りである。生々流転を表したものか。