地蔵院(竹の寺)

衣笠山(きぬがさやま)と号する臨済禅宗の寺で、通称、谷の地蔵、又は、竹の寺とも呼ばれている。 この地には、もと歌人の衣笠内大臣藤原家良(ふじわらのいえよし)の山荘があったが、家良の没後、貞治6年(1367)に、管領の細川頼之(ほそかわよりゆき)が、宗鏡(そうきょう)禅師に深く帰依して当寺を創建した。 宗鏡は、恩師夢窓(むそう)国師を開山に請じて、自らは第2世となった。 以後、当寺は、細川家の庇護を受け、次々と伽藍を建立し、境内塔頭三院、末寺23寺を数える一大禅刹となったが、応仁の乱により堂舎は悉く焼失してしまった。 その後、江戸時代の宝永元年(1704)に、第14世古霊和尚によって寺観が整えられた。 現在の本堂(地蔵堂)は、昭和10年(1935)に再建したもので、堂内には、本尊の延命安産地蔵菩薩のほか、夢窓国師、宗鏡禅師、細川頼之の木像を安置している。 また、方丈前には、「十六羅漢の庭(じゅうろくらかんのにわ)」と呼ばれる枯山水庭園があり、本堂南には、宗鏡禅師、細川頼之の墓がある。 ◆一休禅師と地蔵院 当院は一休禅師が幼少の頃修養された寺である。禅師は、後小松天皇の皇子として、応永元年(1394)当院の近くの民家でお生れになったといわれている。後、当院で成長され、6才の時安国寺に移って本格的な修行に入られた。 その間のことは、禅師の弟子である済岳紹派の筆記になる『祖先詩偈』という本に「休祖(一休禅師)は初め嵯峨地蔵院に御座也」とあることによって明らかである。禅師は京都、堺などで大衆を教化し、大徳寺にも住されたが、晩年は山城薪(今の京田辺市)の妙勝寺を復興して酬恩庵とし、そこで文明13年(1481)88才で示寂された。 ◆禅宗について 禅宗は中国におこった仏教の一宗派で、達磨(だるま)大師(530年代寂)を初祖と仰いでいる。その真精神は、教外別伝・直指人心を旗印とし、ひたすらに坐禅を修して、人間に本来そなわっている仏性を徹見し、またそれと一体不二となって、淡々とした自由の境地に安住することが釈尊の説いた仏法を正しく受けつぐことであると説くところにある。今日のわが国の禅宗は臨済・曹洞・黄檗の三宗であるが、隠元禅師によって伝えられた黄檗禅は臨済禅の一種である。 ◆地蔵院の由緒 当山は衣笠山地蔵院といい、臨済禅宗の寺で、夢窓国師を開山とし、伝教大師の作といわれる延命安産の地蔵菩薩を本尊としている。もともと、この地は今から七百余年前、歌人衣笠内大臣藤原家良公が山荘を営まれた処で、南北朝時代の貞治6年(1367)室町管領細川頼之公が夢窓団師の高弟宗鏡禅師を招請して伽藍を建立された。これが現在の地蔵院で、宗鏡禅師は恩師夢窓国師を開山に仰ぎ、自らは第二世となられた。その後、光厳・光明・崇光・後光厳・後円融五天皇の勅願寺に準ぜられ、場内17万平方メートル、末寺26力寺、諸国に領地54カ所をもつ一大禅刹となったが、応仁・文明の兵乱(1467~)にあい諸堂悉く灰燼となった。 しかし、皇室の深恩と細川家の援助等によりほぼ旧に復し、明治になって、竜済・延慶の両寺を合併し現在に至っている。本堂内には本尊の地蔵菩薩を中央に夢窓国師・宗鏡禅師・細川頼之公の各木像を安置し、本堂の南には宗鏡禅師・細川頼之公の墓がある。現方丈(京都市登録有形文化財)は、貞享3年(1686)再建されたもので、庭園(京都市登録名勝)は、十六羅漢の庭とよばれ、宗鏡禅師の作、頼之公の遺愛といわれる平庭式枯山水庭園で、十六羅漢の修行の姿を表わしており、石の一つ一つは羅漢を意味している。また、境内は、京都市の文化財環境保全地区に指定されている。 羅漢とは、智恵の力をもって悩みをなくし正覚に達すること、又は智恵を得、悟を開いて世人から供養を受けるに足る聖者をいう。この羅漢に十六羅漢、十八羅漢、五百羅漢の種類があり、当院の羅漢は男山の八幡宮に願をかけているので、その方向(左手後) に少しずつ傾いている。  尚、当院に伝わる地蔵院十境の名称を挙げると次の通りである。  金剛界門  衣笠山 来鳳軒 枯木堂 観音殿  地蔵宝殿  尺竜谷 尸陀株 不動井 興雲洞 当山の開基細川頼之公は、元徳元年(1329)三河国(今の愛知県)に生れ、貞治6年将軍足利義満公を補佐して管領職となり、政治の暇に宗鏡禅師に参禅し同年当院を建立された。後、武蔵守となり、南北両朝の和合に尽力された。頼之公の「人生五十功なきを愧ず、花木春過ぎて夏巳に中なり、満室の蒼蠅掃えども去り難し、起ちて禅榻を尋ねて清風に臥せん」の詩(海南行)は日本外史にも見え、人のよく知る処である。明徳3年(1392)64才で亡くなり、墓は細川石とよばれ当院の境内にある。

金蔵寺

山号を西岩倉山と号し、天台宗に属する。寺伝によれば、養老二年(718)、元正天皇の勅によって隆豊禅師が開創し、聖武天皇は勅額を賜り経典を書写して埋めたといわれ、桓武天皇は平安京遷都に当たり王城鎮護のため経典を埋め西岩倉山と号するに至ったと伝えられる。 また、隆豊禅師の開創に当たり、向日町にある向日明神の神助があり、明神の手引きで楠木で千手観音を刻んだことが「金蔵寺略縁起」に見えている。 平安時代以後、当寺は西山の名刹(めいさつ)として栄えたが、応仁の乱へと続く戦乱によって当寺の建物はすべて焼失し、当寺の正確な歴史を伝える古文書、記録も失われた。 現在の建物は、元禄四年(1691)、将軍綱吉の母、桂昌院によって再建されたもので、本堂には十一面千手観音像を安置する。本堂背後には、明治初年に愛宕山より本尊、勝軍地蔵像を移して祠っている。 このほか、山内には当寺の伝承にまつわる遺跡が多く、本堂の北、長嘯亭からは京都市内が一望の下に見下ろされる。

勝持寺(花の寺)

小塩山(おしおざん)と号する天台宗の寺で、通称、花の寺と呼ばれている。 寺伝によれば、白鳳8年(680)に役小角(えんのおづね)が、天武天皇の勅により創建し、その後の延暦10年(791)に伝教大師が、桓武天皇の勅により再建したと伝えられている。 当初、大原寺(たいげんじ)と呼ばれていたが、仁寿年間(851~54)に、仏陀上人が文徳天皇の帰依を得て伽藍を建立し、寺号を大原院勝持寺と改めたといわれている。 瑠璃光殿には、本尊の薬師如来坐像や如意輪観世音菩薩半跏像のほか、弘安8年(1285)に、慶秀等が造立したとの銘がある金剛力士立像2体等、貴重な文化財を蔵している。 境内には、多くの桜が植えられ、満開時には、寺が花の中に埋もれているかのように見える。 また、鐘楼の南にある八重桜は、「西行桜」と呼ばれ、世を捨て当寺に入った西行法師が自ら植えた桜の第3世と伝える。

松尾大社

渡来人秦氏が一族の氏神として信仰した古い社。 大山咋神・市杵島姫命を祭り、境内に霊亀ノ滝、亀ノ井の名水があり、酒造家の信仰が厚い。 室町初期の作で松尾造といわれる本殿(重文)ほか拝殿、釣殿、楼門など社殿が多く、等身大の神像(重文)は平安初期の作。 4649

善峯寺

当山は天台宗単立寺院で、西国三十三所第20番札所であり、本尊千手観音を祀る。 平安中期の長元2年(1029)源算上人により開かれる。 長元7年(1034)後一条天皇より鎮護国家の勅願所と定められ、「良峯寺」の寺号が下賜される。建久3年(1192)後鳥羽天皇より現在の「善峯寺」の宸額が下賜される。 また白河天皇や後花園天皇により伽藍寄進整備がなされ、後嵯峨天皇や後小松天皇など皇室の御崇敬をうけた。 鎌倉時代には慈鎮和尚や証空上人が住職を勤め、また西山宮道覚入道親王や青蓮院門跡より多くの親王が住され、他にも多数の僧の入山により、室町時代には僧坊52に及んだが、応仁の乱により大半の坊が焼失した。 その後、江戸時代には徳川5代将軍綱吉の生母である桂昌院を大檀那として、現存の鐘楼・観音堂・護摩堂・鎮守社・薬師堂・経堂が復興されて、幾多の貴重な什物が寄進される。 現在の当山は所有地36万坪、境内地3万坪、多くの堂塔伽藍ならびに数百点にのぼる貴重な什物を受継いでいる。桜・あじさい・秋明菊・紅葉など季節の彩り、京都市内の眺望が特徴である。 特に多宝塔前にある、樹齢600年以上の五葉松は国指定天然記念物で「遊龍の松」と呼ばれる。 ◆由緒 善峯寺は、西方浄土の思想から、比叡山の西の連山であるこの西山地方に、長元2年(1029)源算上人が開山された。 源算上人は、恵心僧都の高弟で、因幡国(鳥取)に生まれ、横川(比叡山)の恵心僧都に従い、顕密の蘊奥を極め47歳の時、当山に入られ小堂を結び、十一面千手観音の像を刻み本尊となし、仏法を興隆された。 長元7年9月には、後一条天皇より鎮護国家の勅願所と定められ良峰寺の寺号及び聖詠を賜わった。  「野をもすぎ 山路に向う雨の空 よしみねよりもはるる夕立」 以来歴代天皇の崇敬あつく、中世には青蓮院の宮(法親王)が代々住まわれ、西山の宮(門跡)と称された。 後花園天皇(102代)が伽藍を改築せられ、僧坊52の多きに及んだが、応仁の乱に兵火を免れず焦土と化した。 その後現在の本堂をはじめ諸堂が徳川5代将軍綱吉の母桂昌院の帰依によって再建された。 約3万坪の境内は京都が眼下に見える回遊式庭園となっており、境内には、天然記念物の「遊龍の松」があり、別名「松の寺」とも呼ばれている。西国三十三ヶ所巡りの第二十番札所でもある。 西国二十番札所・洛西一番札所 西山宮門跡  善峯寺  松の寺 (日本一の松) 神経痛・腰痛  入学成就の祈願所 当山は、長元2年(1029)源算上人の開山である。源算上人は、恵心僧都の高弟で、因幡(鳥取)に生まれ、横川(比叡山)の恵心僧都に従い、顕密の蘊奥を極め47歳の時、当山に入られ小堂を結び、十一面千手観音の像を刻み本尊となし、仏法を興隆された。長元7年9月、後一条天皇より、鎮護国家の勅願所と定められ良峰寺の寺号及び聖詠を賜わった。 ゛野をもすぎ 山路に向う雨の空 よしみねよりもはるる夕立゛ 以来歴朝の御崇敬篤く、長久3年、後朱雀天皇、洛東鷲尾寺より本尊仁弘法師作、千手観音像を当山に遷して本尊とし、先の十一面千手観音像を脇立とされた。 白河天皇、諸堂を建立し給い、その後慈鎮和尚善恵上人、その高徳を相嗣がれ、また青蓮院の宮様が代々当寺の住職を勤められた。即ち覚快、道覚、尊道、慈道、尊円、尊證、尊祐、尊真、尊寳、各法親王である。そして西山の宮(門跡)と称された。 後花園天皇(102代)が伽藍を改築せられ、僧坊52の多きに及んだが、応仁の乱に兵火を免れず焦土と化した。 その後徳川五代将軍の母堂桂昌院が当山を復旧され、二百石及び山林42万5千坪を寺領とし明治に至った。 重要文化財として、多宝塔・大元帥明王軸 その他文化財多数有り。 徳川五代将軍綱吉生母。桂昌院ゆかりの品約1200点 寺宝館特別公開期間 春期公開  4月~5月 秋期公開  10月土・日・祝-11月1日~11月30日 神経痛・腰痛に「ならないお守」ぜひお受け下さい。 ●諸堂案内記 ア.山門  桁行4間 梁行2間半  元禄5年(1692)再建。(約300年前) 楼上の本尊文珠菩薩、両脇金剛力士は運慶の作。源頼朝公が寄進された。 イ.観音堂 桁行7間 梁行7間 元禄5年再建 本尊千手観世音菩薩は仁弘法師の作。 脇立千手観世音菩薩は源算上人の作。洛西三十三ヶ所第一番の本尊である。 洛西第一番の御詠歌。 ゛わけのぼる むかうこころは よしみねの みのりをおえし たかきやまかげ゛ ウ.お香水(こうずい)  仏様にお供えするお水で、このお香水を頂けば、長寿のききめがあると伝えられている。 エ.つりがね堂 貞享2年(1685)建立(厄除けの鐘)桂昌院 五代将軍綱吉公厄除の為寄進せらる。 オ.護摩堂(ごまどう) 元禄5年建立 本尊不動明王五大尊を祠る。 カ.゛遊龍゛の松 昭和7年、天然記念物。五葉松 樹齢600年全長54mありましたが、平成6年松くい虫の為十五米余り切る。 安政4年(1857)花山前右大臣家厚公その名を゛遊龍゛と仰せられ、また標石は明治26年、鳥尾中将の揮毫である。゛日本一の松゛と人口に膾炙(かいしゃ)する。 キ.多宝塔 元和7年(1621)賢弘法師再建。重要文化財。 ク.経堂 宝永2年 建立祈願成就のえま堂なり。桂昌院、鉄眼の一切経を当堂に収める。 ケ.開山堂 元禄5年建立 源算上人を祠る。上人117歳像である。長寿を祈願せられたい。 コ.宝篋印塔 鎌倉時代 慈鎮和尚、伝教大師筆の法華経を収める。 サ.桂昌院廟所 宝永2年6月22日寿79歳薨去。遺髪を納める。 シ.十三仏堂 元禄5年建立 当山守護の神を祠る。 ス.釈迦堂 明治18年建立 本尊石仏釈迦如来。源算上人作。 明治初年までは、釈迦岳(海抜630m)に安置されたが、信者の参詣日々に増加して、明治13年に下山を乞い、同18年に当堂が建立された。 セ.薬湯場 当山の百草湯にして、神経痛、腰痛は勿論諸病に特効があり、夏季(5・6・7・8・9・10月)第2日曜日の8時より3時まで入浴随意である。 ソ.けいしょう殿 花山法皇西国中興一千年を記念して、昭和62年建立。 タ.献歌碑 桂昌院筆。 ゛たらちをの 願いをこめし 寺なれば われも忘れじ 南無薬師仏゛ チ.薬師堂 桂昌院の両親祈念せられし薬師さまにして、元禄14年建立。 ツ.蓮華寿院庭 昔・青蓮院の宮々が代々、当地で善峯寺の住職された所にして、西山宮又は、御所屋敷と称し、蓮華寿院と云う。 テ.青蓮院の宮御廟 覚快法親王以下代々宮の御廟所なり。 ト.青蓮の滝 滝の竿石は、京都青蓮院門跡より拝受せしものなり。 ナ.阿弥陀堂 寛文13年(1673)建立 本尊宝冠阿弥陀如来で常行三昧道場として常行堂ともいう。堂内には信者の位牌を安置。 ニ.枝垂れ桜ともみじ 桂昌院お手植え。樹齢300年。桂昌院がこよなくこの寺を思い、 ゛春は花 秋はもみじの むすび木は この世の幸 めでたかりけり゛と詠まれた。

法輪寺(嵯峨の虚空蔵さん)

和銅6年(713)行基(ぎょうぎ)菩薩の開基と伝え、古義真言宗(こぎしんごんしゅう)に属する。 もと葛井(くずい)寺と称したが、弘法大師の高弟の道昌僧正が貞観10年(868)堂塔をおこして法輪寺と改め、弘法大師の修行の遺跡として有名な境内の葛井(かどのい)に姿を現した虚空蔵菩薩を自ら彫って本尊としたと伝える。 奥州柳井津、伊勢朝熊(あさま)とともに日本三大虚空蔵といわれ、智福技芸の守護仏として信仰されている。 天慶年間(938~947)に空也上人が参籠し、勧進によって堂塔を修造した。 本尊は幼年期から成長期に移ろうとする人生の転換期を守護されるというので、毎年4月13日に13才になる男女が参詣する。 これを十三詣りという。 本堂は元治元年(1864)の兵火にかかって焼失したのを明治になって再建したもので、堂内には本尊の傍らに持国(じこく)天、多聞天立像二体(重要文化財)を安置する。

西芳寺(苔寺)

山号を洪隠山といい、禅宗に属する。 この寺の由緒はきわめて古く、奈良時代、聖武天皇の詔により行基(ぎょうき)が開創。 平安時代初期には弘法大師も一時住し、鎌倉初期には法然上人が中興して、淨土信仰の道場とした。 暦応2年(1339)、後醍醐天皇、足利尊氏の深い帰依をうけた夢窓国師(疎石(そせき))が再建、禅の厳しい修行の道場とした。 さらに夢窓国師みずから設計して庭園を作った。 庭は枯山水石組の上段の庭と、黄金池を中心とした池泉廻遊式の下段の庭からなり、当時すでに天下の名園として名高く、足利義満はじめここを訪れて坐禅にはげんだ人も多い。 現在、35000平方メートルに達する庭園(特別名勝および史跡)は、よく昔のおもかげを伝える名庭とうたわれている。 一面青苔におおわれ、その種類120種、四季それぞれに趣をそえて拝観者はあとをたたず、苔寺の名で親しまれている。 なお茶室湘南亭(しょうなんてい)は、千利休の二男少庵の作で桃山時代の建築(重要文化財)、明治維新の際岩倉具視(いわくらともみ)が一時隠棲したこともある。 禅寺の苔をついばむ小鳥かな 虚子

鈴虫寺(華厳寺)

1723年(享保8)学僧鳳潭上人が最福寺跡地に華厳宗の再興の為に当寺を創建。 19世紀初頭臨済宗に改宗。 八代目住職 台巌和尚が鈴虫の音に開眼し研究を始め、今では年間5万匹を育て一年中鈴虫の音が絶えない。 参拝者にはお茶・菓子が付き僧侶による簡単な法話が聞ける。 どんな願いでも一つだけ叶えてくれる草鞋を履いた幸福地蔵が有名。 ◆由緒 当山の開山鳳潭上人(ほうたん)は承応3年富山県小矢部市埴生町に生まれ12才に上京比叡山延暦寺にて得度せられ新華厳宗の開祖であらせられる。 正徳5年未年この地に華厳寺創建せし華厳経宇論昆盧法身観に至る迄140余冊を上梓せし大学者にて元文3年2月26日85才を以て示寂せられた。 明治初年に到り8代目住職の代に於いて禅宗臨済宗に所属し今日に至る。 どんな願い事でもかなえて下さるめずらしいワラジを履いた幸福地蔵様がおまつりして有ります。 ◆幸福地蔵さま どんな願い事でも一つだけはかなえて下さる有名な幸福地蔵さん。 ワラジを履いて貴方の家まで願い事をかなえに来て下さいます。 ・お願い事の有る人・参拝される人はお寺の内で幸福地蔵さまのお守りを受けて拝み方の説明等を聞いてからお帰りにお願いして下さい。 ・願い事のかなった人・お礼参りの人はまずお地蔵さんにお礼を言ってから古いお守りを寺に返して、お帰りに新しい守りで又一つだけお願い事をする事が出来ます。