十二月十五日~十八日に執行される春日若宮おん祭(重要無形民俗文化財)は、1136年折りからの長雨のため全国に疫病や飢饉が蔓延し、これを鎮めるために始められた祭典で、平安時代より現在に至るまで絶えることなく奉仕され続けている、日本を代表するお祭の一つです。 このお祭は神様が本殿から御旅所にお遷りになり、再びお還りになる古代の祭を伝える遷幸・還幸の儀や華やかな時代絵巻が繰り広げられるお渡り式をはじめ、平安朝以来の貴重な芸能が数多く演じられる御旅所祭などが行われます。 ◆御祭神:天押雲根命 若宮様は平安の中頃、長保五年(1003)に大宮第四殿に神秘な御姿で出現された水を司る神様。当初は第四殿の内に、 その後獅子の前にお祀りされていましたが、保延元年(1135)に現在地に神殿を造営して遷宮が行われました。 毎年、十二月十五日から十八日にかけて行われる若宮神社の御例祭春日若宮おん祭は保延二年(1136)、折からの長雨のため全国に疫病や飢饉が蔓延したのを鎮めるために始まり、以来一度も途絶えることなく現在まで奉仕され、神様が本殿から御旅所にお遷りになり、再びお還りになるなど古来の祭を伝える貴重な祭事です。 また華やかな時代絵巻が繰り広げられる御渡り式や平安朝以来の貴重な神事芸能が数多く演じられる御旅所祭等があり、国の重要無形民俗文化財にも指定されている日本を代表するお祭の一つです。
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不退寺
仁明天皇の勅願により近衛中将兼美濃権守加戯郡部朝臣の建立になる不退寺は大同4年(809)平城天皇御譲位の後、平城京の北東の地に萱葺きの御殿を造営、入御あらせられ「萱の御所」と呼称せられた。その後皇子阿保親王及びその第五子業平朝臣(825-880)相承してこゝに住した。 業平朝臣伊勢参宮のみぎり天照大神より御神鏡を賜り「我れつねになんじを護る。なんじ我が身を見んと欲せばこの神鏡を見るべし、御が身すなわち神鏡なり。」との御神勅を得て霊宝となし、承和14年(847)詔を奉じて旧居を精舎とし、自ら聖観音像を作り本尊として安置し、父親王の菩薩を弔うと共に、衆生済度の為に『法輪を転じて退かず』と発願し、不退転法輪寺と号して、仁明天皇の勅願所となった。 略して不退寺(業平寺)と呼び、南都十五大寺の一として、法燈盛んであった。その後時代の推移と共に衰頽したが慶長7年(1602)、寺領50石を得て、一時寺観を整え南都に特異な存在を示した。昭和5年(1930)4月久宮邦英殿下が御来山なされ、修理進捗の記念に、香炉1基を下賜されたことが、寺史に精彩を加えている。 ◆南門(重要文化財) 切妻造本瓦葺の四脚門で、方柱には大きな面を取り左右身柱の上に豪壮な板蟇股を載せ、中央冠木の上には束を中心に、笈形風にいろいろと飾り立てているのが特異である。鎌倉末期の建築で、昭和九年の修理により墨書銘を発見確認されている。笈形を盛んに用いた室町・桃山の建築様式の先駆をなしたともいえる最古のものである。 ◆本堂(重要文化財) 桁間五間、梁間四間、屋根単層、寄棟造本瓦葺、軒は二軒で二重繁?、斗拱は三斗の枠組、中備に間斗束を配している。軸部は円柱で正面の頭貫を虹梁の様態に扱っている。これが正面中央に虹梁を架けた最初のもので、この方法が鎌倉時代に入って一般となったもので注目すべき点である。内部の柱頭部に三斗を組み、木鼻をつけている特異な構造であって、中央に二条の大虹梁を架け、梁の上に太瓶束を立て・折上組入天井の廻縁を支えている。爾未、桃山・江戸・昭和と三回の修理を経て現在に至ったもので、その様式を完全に残している。 ◆多宝塔(重要文化財) 柱は方柱大面取、方一二間で中央の間に板扉を開き、左右には青鎖窓をはめている。斗拱は三斗出組とし、斗拱間には鎌倉時代特有の美しい蟇股を配し、柱頭部には頭貫を通じ、貫端に天竺様の木鼻を附けている。内部は二重折上げの小組格天井をはめ、彩絵を以て装飾している。その一部は修理に際し復原されたものである。この塔には最初上層があって檜皮葺であったことが寛政年間刊行の大和名所図絵によって明らかで、高さは十三メートル六〇、明治以降下軸部のみとなったとはいえ、鎌倉中期の特徴を具え当代の多宝塔としては出色のもので、池を隔てゝ見る姿はまことに優雅である。 ◆聖観世音菩薩立像(重要文化財) 1メートル90(平安初期)、本尊であって木彫一木造りで、全身胡粉地に極彩色の花文装飾を施した豊満端厳な像で、業平朝臣御自作の代表的な名作である。 ◆五大明王像(重要文化財) 木彫着彩、不動明王(中尊)降三世明王(四面八臂)1メートル50、軍茶利夜叉明王(一面八臂)1メートル58、金剛夜叉明王(三面六臂)1メートル46、大威徳明王(六面六臂牛騎)1メートル45の五躯であるが、五大明王がかく完備したのは珍らしいもので金剛夜叉明王は特に傑出している。藤原時代中期の作風をもつ貴重な遺作である。 ◆阿保親王坐像(県指定文化財) 1メートル、木彫、鎌倉時代のもので、肖像彫刻中の佳作で業平朝臣の父である。 ◆地蔵菩薩立像 70センチ、木彫一木造りで、弘仁時代の作で多宝塔に安置された千体地蔵の本尊とも言うべきものであろうと言われている。千体地蔵は現在数体残しており、墨書銘によると(御仏千躰地蔵菩薩安浪御作也…)安浪作の千体地蔵が安置されてあったことが判った安阿彌のかへ字で、名工快慶をいうのであろう。 ◆石棺(5世紀) 庫裡の庭にあって石材は春日砥(砂岩の一種)で、心ない草刈の人たちがこれで鎌を研いだと思われる痕が沢山残っている。附近には古墳が沢山あって、おそらくそこから運ばれたものであろうと言われている。
霊山寺
帯解寺
当山は、勤操大徳の開基巌渕千坊の一院で霊松庵と申しました。 そして今から約千年前、人皇55代文徳天皇の御妃染殿皇后 (藤原良房公の女)が永い間お子様が生まれず、大変お悩みの折、祖神春日明神のお告げによって、さっそく勅使を立てられて帯解子安地蔵菩薩にお祈り遊ばされ、間もなく御懐妊、月満ちて惟仁親王(清和天皇)を御安産になられました。 文徳天皇はお喜びのあまり天安2年(858)春、さらに伽藍を建立になり寺号を改められ、帯解寺と勅命せられました。帯解の名称はこれから始まりました。 ◆徳川時代 徳川2代将軍秀忠公にお世継ぎがなく、正室お江の方が 当本尊に御祈願になって、めでたく竹千代丸(3代将軍家光公)を御安産されました。そして、3代家光公もお世継ぎがなく、側室お楽の方が同様に祈願されて、4代家綱公をご安産され、家光公は、当寺に仏像、仏具等を寄進されております。寛文3年(1663) には4代家綱公より手水鉢の寄進があり、 元禄5年(1692)東山天皇の御時も当山に祈願されて亀の宮を御安産、また明和7年(1770)烏丸大納言の方、嘉永4年(1851)伏見邦家親王の御女伏見宮御息所等、いずれの御方も当地蔵尊にお祈りになって、御安産遊ばされています。 ◆近年の帯解寺 このように創建以来あまたの皇族・将軍はじめ大衆の安産・求子祈願霊場として人口に膾炙され、昭和34年美智子皇后(当時皇太子妃)御懐妊に際して東宮御所に伺候、安産岩田帯、御守を献納、その折「この度のおめでたに際して御所としては、全国200ヶ所の神社仏閣(安産霊場)の中 から御霊験のあらたかな、皇室と関係の深い帯解寺と香椎宮とを選びました。」とのお言葉あり、ついで平成3年秋篠宮妃紀子殿下そして平成13年皇太子妃雅子殿下御懐妊に際しでも同様安産岩田帯、御守を献納しております。 当山では千年来伝わる秘宝の祈祷を修し、安産御守を授与、また子宝なき方には門外不出の秘伝文書により住職自ら御守、護符をしつらえ、一週間祈祷を修して授与申し上げております。このご本尊帯解子安地蔵菩薩は至心に祈願すればたちどころに利益を賜る広大無辺の御仏です。 ◆本尊・地蔵菩薩像(国指定重要文化財) 帯解寺の本尊地蔵菩薩像である。左手に宝珠、右手に錫杖を執り、左足を踏み下げて岩座上に坐す。 地蔵菩薩がこのように半跏の姿勢をとるのは、一説に釈迦入滅後、弥勒仏がこの世に下生するまでの無仏の期間に現れて衆生済度につとめる地蔵菩薩を、兜率天で修行中の弥勒を表わす弥勒半跏思惟像と同じような姿勢で表わしたことによるといわれる。わが国では、平安時代後半期から流行するが、また腹前に 裳の上端の布や結び紐を表わすことが多く、それ故、「腹帯地蔵」として安産祈願の対象としても信仰をあつめた。この帯解子安地蔵菩薩は、そのなかにあって、現在に至るまで霊験あらたかなことでは、このうえない名像として広く信仰をあつめている。 檜材を用いた寄木造の像で、頭部は前後に矧いで挿首とし、躰幹部も前後に矧ぐものと思われる。表面は彩色仕上げ。肩幅の狭いわりに頭部を大きく造るところが本像の一つの特徴といえ、膝にかかる衣の浅い彫りなどには前代の古様が見られる。寺伝によると、安政の地震で堂が転倒し本像も大破したといい、各部に修理の痕跡が認められる。なお錫杖の旧物の一部が、別に保存されている。 ◆本堂(江戸時代) 天安2年(858)文徳天皇の皇后(染殿皇后=藤原明子)が当寺に祈願し、清和天皇が誕生したことで地蔵堂を建立したが永禄10年(1567)に松永弾正の兵火にあい焼失した。その後江戸時代3代将軍家光の援助で再建されたが、安政の大地震で倒壊し、安政5年(1858)に再興されたのが現在の本堂である。最近本堂の後方に防火施設の整った収蔵庫兼内陣部を付設して、後顧の憂いをなくした。 ◆庫裡・書院(室町時代) 床、違棚、付書院を設け落ちついた間取りと成っている。東側の庫裡と一つづきの切妻造りだが庫裡は大改修されており、玄関の敷居から両側の部分に古い柱間が残っている。木組みから見て、永禄10年(1567)松永弾正に焼かれたあと、元亀元年(1570)頃再建された当時のものと考えられている。
正暦寺
手向山八幡宮
大安寺
御霊神社
東大寺戒壇堂
西大寺
創建は奈良時代の天平宝字8年(764)称徳天皇が鎮護国家と平和祈願のために、7尺の金銅四天王像の造立を発願されたことに始まります。 造営は翌年天平神護元年(765)からほぼ宝亀末年(780)頃まで続けられたと考えられていますが、創建当初の境域は東西11町、南北7町、面積31町(約48ヘクタール)に及ぶ広大なもので、ここに薬師、弥勒の両金堂をはじめ東西両塔、四王堂院、十一面堂院など、実に110数宇の堂舎が甍を並べていました。 文字通り東の東大寺に対する、西の大寺にふさわしい官大寺でありました。 その後平安時代に再三の災害に遭い衰退しましたが、鎌倉時代も半ば頃になって、稀代の名僧興正菩薩叡尊上人がこの寺に入って復興に当たり、創建当初とは面目を新たにした密・律兼修根本道場として伽藍を整備されました。現在の西大寺の伽藍は、ほぼこの頃の様子を伝えています。 ◆由緒 西大寺の創建は奈良時代の天平宝宇8年(764)に称徳天皇が鎮護国家と平和祈願のために、七尺の金銅四天王像の造立を発願されたことに始まる。 造営は翌天平神護元年(765)からほぼ宝亀末年(780)頃まで続けられたが、当時の境域は東西十一町、南北七町、面積三十一町(約48ヘクタール)に及ぶ広大なもので、ここに薬師、弥勒の両金堂をはじめ東西両塔、四王堂院、十一面堂院など、実に百十数宇の堂舎が甍を並べていた。 文字通り東の東大寺に対する西の大寺にふさわしい官大寺であった。しかし、その後、平安時代に再三の災害に遭い、さしもの大伽藍も昔日の面影をとどめずに衰退した。 しかし鎌倉時代も半ば頃になって、稀代の名僧興正菩薩叡尊(1201~1290)がこの寺に入って復興に当たり、創建当初とは面目を新たにした真言律宗の根本道場として伽藍を整備された。いまみる西大寺はほぼこの頃のプランを伝えている。 興正菩薩は鎌倉時代の南都四律匠の一人で当時おろそかになっていた戒律の教えを最も尊重し、かつ最も行動的に興した人である。したがって、その後、西大寺は室町時代の兵火などによって多くの堂塔を失ったけれども、興正菩薩以来の法燈は連綿として維持され、現在は真言律宗総本山として寺宝や宗教的によくその寺格と由緒をしのぶことができる。 ◆愛染明王坐像 わずか一尺ばかり(31.8cm)の小像であるが、愛染堂の秘仏本尊として大切に祀られているためか、衣紋の截金や深紅の彩色が鮮やかに残っている。 先年、像内からは木造六角幢形の容器に入った金銀製舎利容器や、この像の本軌である瑜伽瑜祇経(ゆがゆぎきょう)、造立願文(ぞうりゅうがんもん)などが発見された。 それらによると、この像は宝治元年(1247)に叡尊が願主となり、仏法興隆の念持仏として仏師善円が造ったものであることが分かった。 この愛染明王象は、寺伝によると弘安四年(1281)の元寇の役(13世紀後半に起こった蒙古襲来の事変)に際して叡尊が祈祷した愛染尊勝法の本尊であり、その祈願の最終日の夜には、明王が持つ鏑矢が妙音を発して西に飛び、敵を敗退させたという。 これにちなんで、近世(宝暦四年)にこの像が江戸回向院に出開帳された時、2代目団十郎が中村座で「矢の銀五郎」を上演し、また鳥居清信(江戸時代の浮世絵画家)が描いて奉納した絵馬が当寺に現存する。 ◆興正菩薩叡尊坐像 西僧房造営と同じ弘安3年(1280)8月26日に、弟子たちが仏師善春に造らせた師匠の肖像である。左手に払子をもち、衣の袖を左右に分けて、少しうつむきかげんに静かに坐る。像はきわめて写実のかった、まるで実在の人に接するような気魄に満ちたものである。 眉太く、鼻が大きく、口のひきしまった顔と、がっちりした頭の骨格からは、いかにも意思の強固な叡尊の偉大な人格を実感できる。わが国の肖像彫刻中、傑出したできばえを見せているが、また生前に造られた寿像として特異な地位を占めている。 先年、像内からおびただしい納入文書類が発見され、数千人におよぶ弟子僧俗の結縁によって、しかもそれぞれ文字通り一紙半銭の零細な喜捨が結集されて造られたものであることが明らかとなった。なお、仏師善春はさきの仏師法橋善慶の子息で、また善円・善慶の後継者として叡尊の知遇を受けた善派仏師である。










