平等院

ときの権力者、関白藤原道長が左大臣源重信の婦人から譲り受けた別業を、その子頼通が永承7年(1052)にこれを仏寺に改め、平等院としました。 永承7年は末法初年に当たるとされ、末法思想が貴族や僧侶らの心をとらえ、極楽往生を願う浄土信仰が社会の各層に広く流行していました。 その翌年の天喜元年(1053)には平等院の阿弥陀堂(鳳凰堂)が落慶し、堂内には、平安時代の最高の仏師定朝によって制作された丈六の阿弥陀如来坐像が安置され、華やかさを極めたとされています。 約1000年前に建立された建造物や仏像が今に伝えられ、世界遺産にも登録されております。 ◆由緒 平等院は今から約950年前、藤原氏の最盛期に、宇治関白藤原頼通によって建立されました。当時は本堂、阿弥陀堂、経堂、講堂等の諸堂が造立され、宏壮華麗な大寺院が現出しましたが、建武三年の兵火によって、その大半が焼失し、現在は鳳凰堂(当時の阿弥陀堂)のみが創建当時の優姿を伝えています。 堂内には定朝作の本尊阿弥陀如来像及び52体の雲中供養菩薩像が安置され、建物、仏像全部が国宝に指定されています。 ◆鳳凰堂 極楽浄土の宮殿をモデルにした鳳凰堂は、中堂・左右の翼廊・尾廊からなる、他に例を見ない建物です。堂内には、平安時代を代表する仏師定朝の作であることが確実な現存唯一の仏像、本尊阿弥陀如来坐像をはじめ、雲中供養菩薩像52体、9通りの来迎を画いた壁扉画など、平安時代・浄土教美術の頂点が集約されています。

宇治上神社

宇治上神社は、明治維新までは、隣接する宇治神社と二社一体で、それぞれ、離宮上社(りくうかみしゃ)、離宮下社(りくうしもしゃ)と呼ばれていました。 祭神は宇治神社の祭神でもある悲運の皇子の菟道稚郎子(うじのわけいらつこ)のほか、父の応神(おうじん)天皇と兄の仁徳(にんとく)天皇を祀っています。 本殿(国宝)は、平安時代後期の、神社建築として最古のものに属する建造物で、一間社流造の内殿三棟を左右一列に並べ、後世これらに共通の覆屋をかけたものです。 また、その身舎(もや)の扉には、建立当時の絵画が遺されています。なお、境内に湧き出ている桐原水は、宇治七名水の一つとされています。 ◆字治上神社の不思議 ・ お守りの紋や、おみくじなど、どうしてうさぎさんなの? 皆さんがご存知の当社の地名「宇治」ですが、かっては{うさぎのみち}「菟道」と書いて「うじ」と読みました。当社の御祭神の一柱であられる『菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)』は昔の漢字の「菟道(うじ)」と書きます。 ・ 世界遺産の建物、国宝の建物はどれ? 本殿と拝殿は『国宝』で、それぞれ1060年(康平3年)、1215年(建保3年)頃に建立されたと思われます。歴史資料等が無く、先の年代は「年輪年代測定法」により算出されたものです。春日社は「重要文化財」です。世界文化遺産の指定は当社個別の指定ではなく平成6年に京都の17箇所同時に「古都京都の文化遺産」として指定を受けました。当社の「世界文化遺産指定区域」は「後ろの木々の景観も含め境内地・建物すべて」です。 ・ 正面の二つのお山のお砂はなんのため? 拝殿前の砂で盛られた円錐形の小さな二つの山は「清め砂」といい、当社では八朔祭(9月1日)に氏子さんたちによって奉納され、境内のお清め用の砂として1年間盛られ続けます。 お正月、お祭等大切な日に際して、境内にまき散らし、境内地を「お清め」いたします。 当社での「清め砂」は、まさに境内地「お清め」の為のお砂であり、よく、他の社で見られる、神が降りられる依代(よりしろ)を表しているのではありません。 ・ 桐原水(きりはらすい)って湧き水なの?飲んでいいの? 湧き水ですが、もともと神社にお参りする為に手を清める為の「手水」として皆さんがお使いになられてますので、お飲みになられたい場合は、直接ではなく、一度沸かしてからお飲みください。 ・ 大きなご神木は何年たっているの? 拝殿右脇の大きな木は「ケヤキ」です。樹齢はおおよそ330年以上たっています。 ・ 本殿の右側に大きな石に小さな石がいっぱい積んであるのはなぜ? 下のおおきな石は昔、お社があった「社跡」の標です。上の小石は皆さんが各々お願い事をなさって積まれたものです。 ・ せっかくのおみくじ、結んで行かなくちやダメなの? おみくじは引く時に私の「いつの」「何を」神様に占っていただきたいのかを思い浮かべて引きます。その「いつの」が大事です。それが「来年1年の・・」なら「1年間」、「旅行中の・・」なら「旅行期間」、「今日の運勢」なら「今日中」は持っているのがよいのです。その期間が済んだら、近くの神社に結びに行きます。引いた神社に結ぱなけれぱいけない訳ではありません。 ・ 最後に!当社の境内に「宇治茶」の木が1だけあリます。

三室戸寺

当山は西国観音霊場10番の札所で、本山修験宗の別格本山です。約1200年前(宝亀元年)、光仁天皇の勅願により、三室戸寺の奥、岩渕より出現された千手観世音菩薩を御本尊として創建されました。 開創以来、天皇・貴族の崇敬を集め、堂塔伽藍が整い、霊像の霊験を求める庶民の参詣で賑わうこととなりました。宝蔵庫には平安の昔を偲ぶ五体の重要文化財の仏像が安置されております。現在の本堂は約180年前(文化二年)に建立された重層入母屋造りの重厚な建築で、その背後には室町時代の十八神社社殿、東には鐘楼・三重塔があります。 五千坪の大庭園は枯山水・池泉・広庭からなり、五月のツツジ(二万株)・六月のアジサイ(一万株)・七月のハス・秋の紅葉など四季を通じ美しい花模様を楽しんでいただけます。 ◆由緒 当寺は、今から1200年前、光仁天皇の勅願により千手観世音菩薩を本尊として建立されました。 平安時代には殊に皇室の御帰依が深く、三条天皇は法華堂を白河天皇は常行堂や荘園を、又、堀河天皇は伽藍を増修し、寺領を御寄進せられた為に盛大を極めました。その後、時代の変遷を共に盛衰を繰り返し、約200年前の文化11年に現在の本堂が建立されました。

宇治神社

宇治橋の上流宇治川の右岸、この辺りは応神天皇の離宮(桐原日桁 キリハラヒケタノミヤ)跡でもあり、皇子の菟道稚郎子命の宮居の跡と伝えられている。 応神天皇が稚郎子命を天位に任命するが稚郎子命は王仁(ワニ)博士から儒教の思想を学んでいたので兄の大鶴鷯命(オオサギノミコト 後の仁徳天皇)を差し置いて天位に就く事が儒教の思想(長子相続)と違ったため、稚郎子命は天位を兄の大鶴鷯命に譲りあいの後、死をもって節を全うした。 後に、兄の仁徳天皇は稚郎子命の宮居に祠を建て神霊を祀ったのが、この神社の始まりである。 ◆宇治の氏神様 幼い頃より聡明にして阿直岐や王仁博士について学門の道を極められ、我が国最初の文教の始祖であり、学業や受験合格の神様として崇められている。 ◆御本殿  鎌倉時代初期の建物で、三間社流造り(さんげんしゃながれづくり)桧皮葺き(ひわだぶき)で御神像と共に国の重要文化財に指定されている。 ◆みかえり兎  御祭神「菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと)」が河内の国から、この土地へ向かわれる途中、道に迷われてしまいました。その時、一羽のうさぎが現れ、振り返りながら、後を追う「菟道稚郎子命」を正しい道へと案内し、お助けしました。この御由来のうさぎを当神社では「みかえり兎」と呼び、人々の人生を道徳の正しい道へと導く神様の御使いとして伝わっております。また、宇治と言う地名は、この云われよりついた名前ともいわれています。

黄檗山萬福寺

1654年(江戸時代)、中国福建省から渡来した隠元禅師が後水尾法皇や徳川四代将軍家綱公の尊崇を得て、1661年に開創された中国風の寺院であり、日本三禅宗(臨済・曹洞・黄檗)の一つ、黄檗宗の大本山です。 黄檗宗では、儀式作法は明代に制定された仏教儀礼で行われ、毎日誦れるお経は黄檗唐音で発音し、中国明代そのままの法式梵唄を継承しています。 建造物は、中国の明朝様式を取り入れた伽藍配置です。創建当初の姿そのままを今日に伝える寺院は、日本では他に例がなく、代表的な禅宗伽藍建築群として、主要建物二十三棟、回廊、額、聯などが国の重要文化財に指定されています。 ◆大雄宝殿(だいおうほうでん) 萬福寺の本堂であり、最大の伽藍。日本では唯一最大のチーク材を使った歴史的建造物です。本尊は釈迦牟尼佛。両脇侍は迦葉、阿難の二尊者。両単に十八羅漢像を安置してあります。 ◆巡照板と勾欄(じゅんしょうばんとこうらん) 黄檗山の一日は、朝の巡照板によって始まり、夜の巡照板によって終ります。ここで修行する雲水(修行僧)が正覚をめざして精進を誓い、自覚を促すために巡照板を打ち鳴らして各寮舎を回ります。開山堂・法堂正面の勾欄は卍及び卍くずしの文様になっています。 ◆天王殿(てんのうでん) 寺の玄関として設けられています。中国では一般的な建て方で、四天王・布袋尊(弥勒菩薩の化身)・韋駄天をお祀りしています。尚、当山は日本最古都七福神「布袋尊」の寺です。 ◆開梆(かいぱん) 斎堂前にある魚板で木魚の原形となっています。時を報ずるものとして今も使われています。 ◆文華殿(宝物館) 黄檗文化の殿堂として、その宝物・資料の収蔵保管と展示をする建物です。毎年春と秋には展示会が行われています。現在、黄檗文化研究所が置かれ、近世仏教や仏教美術、黄檗文化等が研究されています。 ◆巡照板 「巡照板」と呼ぶこの版木は、禅堂、西方丈など五ヵ所に吊られています。開創以来の三百余年間、朝四時と宵の九時に木槌で三打して朗々と唱え、一打、二連小打して、起床と開静(消燈)を告げ、順次打ち鳴らします。 この諷経で一日が始まり、一日が終わるのです。五連の句意は、 ・謹んで大衆(修業者)に申し上ぐ。 ・生死は、事大にして、 ・無常は迅速なり。 ・各々、覚醒して、 ・無為に、時を過ごさぬように。 仏道修業者の心を、戒めています。

興聖寺

興聖寺の名は、曹洞宗の開祖道元禅師が伏見深草に開いた由緒ある寺にちなみ、慶安元年(1648)淀城主永井尚政がそれを宇治の地に再興しました。 本堂は伏見城の遺材で造ったとも伝えられており、境内は禅寺にふさわしい威厳と静寂に満ちています。 また、山門に至る参道は琴坂と呼ばれ、紅葉の名所として知られています。 境内に安置されている平安時代後期の木造聖観音立像は、かつては源氏物語宇治十帖の古跡のひとつ、手習の杜に祀られたことから「手習観音」の呼び名で親しまれています。 宇治川の清流に架かる日本三名橋の宇治橋より川に沿って上流へ約800米、宇治川を背に総門(石門)を通り、春は新緑、夏は緑陰、秋は紅葉の琴坂(参道)200米を登れば能富造りの山門に至る。寺は曹洞宗の宗祖道元禅師開創になる初開の道場、佛徳山観音導利院興聖宝林禅寺である。 道元禅師は内大臣久我通親公を父とし、太政大臣藤原基一房公の女を母として正治2年1月(1200年)誕生され、3才で父を、8才で母を喪い、13才のとき母の遺言と世の無常を感じて木幡(字治)の松殿屋敷を出でて比叡山に登り、14才にて横川解脱谷寂場房の天台座主公円僧疋に就いて出家得度して勉学、ついで建保2年(1214年)京都東山建仁寺開山栄西禅師の会下に投じて参禅、貞應二年(1223年)24才のとき栄西禅師の高弟明全和尚と共に求法のため中園(宋時代)に渡航され諸方の禅寺を歴訪しての後、天童山景徳寺長翁如浄禅師に就いて、釈尊より51代の正法を嗣がれて28才の安貞2年(1227年)秋帰朝、3年を建仁寺で、次いで深草の安養院(現在の墨染欣淨寺)に閑居、弘誓院殿や正覚禅尼の寄進により極楽寺の子院観音導利院の旧跡に七堂伽藍を建立し、正法挙揚の道場として天橋元年(1233年)道元禅師34才のとき興聖宝林禅寺を開創されたのが当寺である。 在住10年正法の眼目たる普勧坐禅儀を初め正法眼蔵九十五巻の半数及び学道用心集典座教訓など多数を撰述して正法挙揚につとめられたのである。寛元元年(1243年)夏越前の領主波多野義重公の招請を受けて入越翌年傘松峰大佛寺を開堂され、次いで覚元4年(1246年)吉祥山永平寺と改められたのが福井の大本山永平寺である。 道元禅師入越後の興聖寺は数代の後、應仁の乱(1467年)の兵火に遭い伽監や記録等を焼失している。 寛水10年(1633年)永井信濃守尚政公下総国古河より山城国淀城主として入国の後、領内の霊跡周覧のとき道元禅師開創になる興聖寺の廃絶せることを惜しみ、両親菩提のため度安元年(1648年)伏見城の遺構を用いて諸堂を建立整備し、万安英種禅師を請じて再興し以来三百数十年江戸時代には畿内五ケ国の僧録寺として又曹洞宗の専門道場として幾多の俊秀を輩出し今日に至っている。 本堂は伏見桃山城の遺構を用いて建立され慶長5年(1600年)落城の時の血の手形足跡が残る縁板を前縁の天井にし、前縁は鴬張りの廊下である。本尊は道元縄師自作の釈迦牟尼佛を安置し知祀堂には源氏物語宇治十帖にある手習の聖観音を奉安している。開山道元禅師真像は道元禅師の弟子詮慧和尚が京都永興庵に奉安せる御真像で体内に御霊骨が納められている。大書院は大正元年(1912年)建立になり大正8年6月貞明皇后様行啓の書院で、次書院は明治10年(1887年)2月英照皇太后、昭憲皇太后両陛下行啓の書院である。 「春岸の山吹」と「興聖寺の晩鐘」は宇治十境に入っている。