松尾神社は、社伝によると天平勝宝年間(749~757)にはじまる古社で、国の重要文化財に指定されてる本殿は、江戸時代の天明6年(1786)に造営された奈良春日大社若宮本殿を文化5年(1808)にこの地へ移築したものです。 表門両脇の土塀は、鎌倉時代の瓦を練りこんだ土塀です。
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宇治上神社
宇治上神社は、明治維新までは、隣接する宇治神社と二社一体で、それぞれ、離宮上社(りくうかみしゃ)、離宮下社(りくうしもしゃ)と呼ばれていました。 祭神は宇治神社の祭神でもある悲運の皇子の菟道稚郎子(うじのわけいらつこ)のほか、父の応神(おうじん)天皇と兄の仁徳(にんとく)天皇を祀っています。 本殿(国宝)は、平安時代後期の、神社建築として最古のものに属する建造物で、一間社流造の内殿三棟を左右一列に並べ、後世これらに共通の覆屋をかけたものです。 また、その身舎(もや)の扉には、建立当時の絵画が遺されています。なお、境内に湧き出ている桐原水は、宇治七名水の一つとされています。 ◆字治上神社の不思議 ・ お守りの紋や、おみくじなど、どうしてうさぎさんなの? 皆さんがご存知の当社の地名「宇治」ですが、かっては{うさぎのみち}「菟道」と書いて「うじ」と読みました。当社の御祭神の一柱であられる『菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)』は昔の漢字の「菟道(うじ)」と書きます。 ・ 世界遺産の建物、国宝の建物はどれ? 本殿と拝殿は『国宝』で、それぞれ1060年(康平3年)、1215年(建保3年)頃に建立されたと思われます。歴史資料等が無く、先の年代は「年輪年代測定法」により算出されたものです。春日社は「重要文化財」です。世界文化遺産の指定は当社個別の指定ではなく平成6年に京都の17箇所同時に「古都京都の文化遺産」として指定を受けました。当社の「世界文化遺産指定区域」は「後ろの木々の景観も含め境内地・建物すべて」です。 ・ 正面の二つのお山のお砂はなんのため? 拝殿前の砂で盛られた円錐形の小さな二つの山は「清め砂」といい、当社では八朔祭(9月1日)に氏子さんたちによって奉納され、境内のお清め用の砂として1年間盛られ続けます。 お正月、お祭等大切な日に際して、境内にまき散らし、境内地を「お清め」いたします。 当社での「清め砂」は、まさに境内地「お清め」の為のお砂であり、よく、他の社で見られる、神が降りられる依代(よりしろ)を表しているのではありません。 ・ 桐原水(きりはらすい)って湧き水なの?飲んでいいの? 湧き水ですが、もともと神社にお参りする為に手を清める為の「手水」として皆さんがお使いになられてますので、お飲みになられたい場合は、直接ではなく、一度沸かしてからお飲みください。 ・ 大きなご神木は何年たっているの? 拝殿右脇の大きな木は「ケヤキ」です。樹齢はおおよそ330年以上たっています。 ・ 本殿の右側に大きな石に小さな石がいっぱい積んであるのはなぜ? 下のおおきな石は昔、お社があった「社跡」の標です。上の小石は皆さんが各々お願い事をなさって積まれたものです。 ・ せっかくのおみくじ、結んで行かなくちやダメなの? おみくじは引く時に私の「いつの」「何を」神様に占っていただきたいのかを思い浮かべて引きます。その「いつの」が大事です。それが「来年1年の・・」なら「1年間」、「旅行中の・・」なら「旅行期間」、「今日の運勢」なら「今日中」は持っているのがよいのです。その期間が済んだら、近くの神社に結びに行きます。引いた神社に結ぱなけれぱいけない訳ではありません。 ・ 最後に!当社の境内に「宇治茶」の木が1だけあリます。
宇治神社
宇治橋の上流宇治川の右岸、この辺りは応神天皇の離宮(桐原日桁 キリハラヒケタノミヤ)跡でもあり、皇子の菟道稚郎子命の宮居の跡と伝えられている。 応神天皇が稚郎子命を天位に任命するが稚郎子命は王仁(ワニ)博士から儒教の思想を学んでいたので兄の大鶴鷯命(オオサギノミコト 後の仁徳天皇)を差し置いて天位に就く事が儒教の思想(長子相続)と違ったため、稚郎子命は天位を兄の大鶴鷯命に譲りあいの後、死をもって節を全うした。 後に、兄の仁徳天皇は稚郎子命の宮居に祠を建て神霊を祀ったのが、この神社の始まりである。 ◆宇治の氏神様 幼い頃より聡明にして阿直岐や王仁博士について学門の道を極められ、我が国最初の文教の始祖であり、学業や受験合格の神様として崇められている。 ◆御本殿 鎌倉時代初期の建物で、三間社流造り(さんげんしゃながれづくり)桧皮葺き(ひわだぶき)で御神像と共に国の重要文化財に指定されている。 ◆みかえり兎 御祭神「菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと)」が河内の国から、この土地へ向かわれる途中、道に迷われてしまいました。その時、一羽のうさぎが現れ、振り返りながら、後を追う「菟道稚郎子命」を正しい道へと案内し、お助けしました。この御由来のうさぎを当神社では「みかえり兎」と呼び、人々の人生を道徳の正しい道へと導く神様の御使いとして伝わっております。また、宇治と言う地名は、この云われよりついた名前ともいわれています。
県神社
橋寺(放生院)
古代より、水辺、特に橋は心霊が宿るところとされており、橋姫はその守り神です。 瀬織津比咩を祭神とする橋姫神社は、明治3年の洪水で流失するまでは宇治橋の西詰にありました。 境内には橋姫神社とならんで、同じく水の神である住吉神社が祀られています。 交通の要衝として発展してきた宇治にとって、宇治橋はとりわけ大きな意味を持っており、橋姫神社を巡って数々の伝承を生み出しています。 また、宇治が主要な舞台となっている、源氏物語宇治十帖の第一帖は「橋姫」と名づけられており、橋姫神社はその古跡となっています。 ◆由緒 孝徳天皇の御宇大化二年、南都元興寺の僧道登勅許を得て創めて宇治橋を架するにあたり其鎮護を祈らん為、宇治川上流櫻谷に鎮座まします瀬織津比咩の神を橋上に奉祀す。これより世に橋姫の神と唱ふ今の三の間と称するは、即ち其鎮座の跡なり。 後祠を宇治橋の西詰の地に移し住吉神社と共に奉祀す。明治維新までは、宇治橋の架換ある毎に新たに神殿を造営し神意を慰めたりしが、明治三年洪水の為め社地流出してより此の地に移す。 住吉神社は、往古は宇治川の左岸櫻の馬場にありし小社なり。彼の源平盛衰記に、平等院の北東の方結の神の後より武者二騎云々とあるもの即ちこれなり。 尚かの源治物語宇治十帖のうち橋姫の巻といふ一帖は、これに因みしものなるべし。 さむしろに衣かたしき今宵もや、我をまつらん宇治の橋姫。 古今集。 あじろ木にいさよふ浪の音ふけて、獨や袮ぬる宇治の橋姫。 新古今集。 はしひめのもみちかさねやかりてまし、たびねは寒し宇治の川風。 蓮月集。