日本第一安産守護之大神とされる「神功皇后」を始め九柱の神をまつる当社は、深草大亀谷敦賀町を中心とする「峠」一帯の氏神として深く信仰されている。 文禄三年(一五九四)、豊臣秀吉は伏見築城にあたり、城内鬼門除けの神として伏見九郷の石井村にあった「御香宮」をこの地に遷し、本殿等を造営して社領三百石を寄進した。 秀吉の没後、天下人となった徳川家康は慶長十年(一六〇五)城下町の人心の安定を企って、この神社を再び元の地に戻した。秀吉の造営した本殿は江戸末期に大破し、その後に建てられたのが現在の本殿である。(平成十年五月解体修理) こうした経緯から地元の人々より「古御香宮」と呼ばれ、十月御香宮神幸祭には神輿の御旅所として神輿渡御がある。 秀吉がここに神社を祀ったのは、隣接する「桓武天皇陵墓参考地」を保護する必要上とも伝えられている。 尚、明治維新、すふぃみの戦いに際して、一時御香宮の御神霊が遷御された。
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羽束師坐高御産日神社
稲葉神社
三栖神社
乃木神社
当神社は、明治天皇に殉死した陸軍大将乃木希典(まれすけ)(1849~1912)を祀り、伏見桃山御陵のそばの当地に大正5年(1916)有志の人々によって創建された。 うつし世を神去りましし大君の みあとしたひて我はゆくなり 表門は四脚入母屋造(いりもやづくり)、門扉は樹齢3000年の紅檜一幹で、巾6尺3寸余(約1.9メートル)の一枚板である。 境内には、日露戦争のときに第三軍司令部に用いたという中国風の民家、乃木将軍の遺墨、遺品、ゆかりの人々の品などを陳列した宝物館、そして、長府(山口県)にある将軍の生家を模した建物がある。 ◆由緒 大正元年九月十三日、明治天皇の崩御に殉じて乃木将軍御夫妻が自刃された。その誠烈に感激して乃木邸へ来観する人々は日を追って数を増した。そこで当時の東京市長阪谷芳郎男爵等が旧邸を保存し且つ御夫妻の英霊を祀り国民崇敬の祠となさんことを期し、中央乃木会を発足、明治神宮の御鎮座に続いて(大正十二年十一月一日)乃木神社御鎮座祭を執行する。昭和二十年五月二十五日、空襲により本殿以下社殿が焼失したが、全国崇敬者の熱誠により、昭和三十七年九月十三日復興した。 ◆御神徳 乃木将軍の御高徳を一語にして表すならば、忠誠に尽きる。また、明治という光輝ある時代の象徴として御祭神は祀られている。幾世代と時代が変遷しようとも、乃木将軍の自らに対し、そして国に対し誠を以て生涯を貫かれた御事蹟は、稍もすれば忘れがちな、「日本」は我々一人一人の精神の中にあるのだ、という御神訓として生きつづけるであろう。 また、乃木将軍は文武両道の神である。武に於いては一振り振り下ろせば全てを打ち払う王者の剣であり、文に於いては学習院院長時代の御事蹟が示すように教行両全の真の学問の神であらせられる。
伊勢向神社
田中神社
伏見神宝神社(神宝さん)
與杼神社
豊玉姫命(とよたまひめのみこと)、高皇産霊神(たかみおすびのかみ)、速秋津姫命(はやあきつひめのみこと)を祀り、古くは、淀姫(よどひめ)社、又は水垂(みずたれ)社とも呼ばれていた。 社伝によれば、応和年間(961~64)、僧千観内供(せんかんないぐ)が、肥前国(佐賀県)河上村の淀大明神を勧請したことに始まると伝えられている。 当初、水垂町に祀られ、桂川の水上運輸の守護神として人々から崇敬されていたが、明治33年(1900)に淀川改修工事のためここに移された。 境内には、本殿、拝殿、神輿庫(みこしぐら)をはじめ、日大臣(ひだいじん)社、長姫(ながひめ)社、川上社、豊丸社などの各社殿が建てられている。 中でも拝殿は、慶長12年(1607)に建造されたもので、国の重要文化財に指定されている。 毎年11月に行われる例祭は、「淀祭」と呼ばれ、多くの人々で賑う。
東丸神社
江戸中期の国学者で伏見稲荷大社の社家に生まれた荷田春満(かだのあずままろ)を祭る。 春満は賀茂真淵の師で本居宣長らとともに国学の四大人の一人。 近くに旧宅と墓地がある。 1883年(明治16)春満に正四位が贈られたのを記念して社殿を造営、創祀された。 1936年(昭和11年)に現本殿に改造営される。 以来「学問向上、受験合格」の神として広く崇敬される。 ◆由緒 祭神荷田東丸(春満)大人は、寛文九年(1669)正月三日この地に誕生、本名は羽倉信盛と申し幼少より歌道並びに書道に秀れ、長じては国史、律令、古文古歌、さては諸家の記伝にいたるまで独学にて博く通じ、殊に内容の乏しい形式的な堂上歌道を打破して自由な本来の姿に立ち返らしめんとしました。 元禄十年(1697)29才の時から妙法院宮に歌道の師として進講されましたが、大人は当時幕府が朱子学を政治の指導理念としていたために、書を学ぶ者が極端に漢風にのみ走ることをみて、古学廃絶の危機にあるを憂え、古学復興こそ急務であるとして われならで かけのたれをの たれかよに あかつきつくる こえをまつらむ の一首をのこして文化の中心たる江戸に下向されました。江戸在住の間、大人はあえて師を求めず、日夜独力孜孜として研鑽、傍ら門人達に古学を講じました。 その卓越せる学識は世に聞え高く、享保七年(1722)将軍徳川吉宗は、大人の名声を聞きつたえ幕府の蔵書閲覧をことごとくたのみましたので、大人はその間違いなどを訂正し不審の点は細かく説明されました。 その後も将軍吉宗より建議並び百般の書籍の推薦検閲の特権を与えられ偽本の跡を絶たれました。 享保八年(1723)錦衣帰郷された後も、日夜研究著述を旨とされる傍ら賀茂真淵など門人多数に講義されておりましたが、古学普及のためその宿願たる倭学校を東山の地に創建せんとして幕府に提出すべく「請創造倭学校啓」を著されましたが志もむなしく享保十五年(1730)病を得、ついに元文元年(1736)七月二日、68才をもって帰天せられました。 大人病むの報一たび吉宗将軍の許に達するや、将軍より度々秘薬を贈られました。 東丸大人には著書が夥しくありましたが、そのうち研究の未だ足らざるものを残すは却って後世に災いありと学者的良心から、その臨終に際し待床の童子に命じて手近なものは焼かしめられましたが、今なお神祇道、日本史、律令、格式、有職故実、歌道及び語釈に関する遺著及び遺墨が多数残っています。 されば大人の学徳を偲ぶ有志の人々相寄って荷田旧邸の一部であるこの地に社殿を創建し爾来、「学問守護」の神としてひろく崇敬されることとなりました。 ◆東丸大人と赤穂浪士 東丸大人の逸話のうちで、江戸在住中多数の門人に古典古学を講じておられました。 吉良上野介もまた教えを受けた一人でありましたが、大人(通称 羽倉斎)は彼の日頃の汚行を見聞するに及んで教えることをやめられました。 たまたま元禄十年(1697)に以前から親交のあった大石良雄(内蔵助)の訪問をうけ、その後、堀部弥兵衛、同安兵衛、大高源吾等とも交わり、吉良邸の見取図を作り大高に与え、十二月十四日吉良邸に茶会のあることを探って赤穂浪士を援助したこともありました。 なお当社は御祭神の邸跡の一部に建っていますので伏見稲荷大社と境内が隣接していますが別の神社であることを御承知ください。 ◆「としまいり心願成就」 「としまいり」とは願主の年齢と同じ数だけご祈願を重ねることです この竹棒を歳の数だけ持ち本殿と「としまいりの石」との間を心静かにまわり お願いの都度 持っている竹棒を一本づつ箱に納めてください