新日吉神宮

永暦元年(1160)後白河法皇が、その御所法住寺内に比叡山東坂本の日吉山王(ひえさんのう)七社(日吉大社)を勧請されたのが当社のはじまりである。 創立当初の社地は今の市立美術大学付近の地で、その後元和元年(1615)豊国廟社の破毀とともに旧廟前に移り、さらに明治30年(1897)この地に移った。 祭神は後白河法皇の他、大山昨命(おおやまくいのみこと)など山王七柱を主神とし、相殿に素戔鳴尊(すさのおのみこと)、大年神(おおとしのかみ)を祀っている。 社殿は応仁の兵火で焼け、その後しばしば増改築が行われたが、現在の本殿は、天保6年(1835)の改造で、大きな流造(ながれづくり)である。 古くから朝廷の崇敬厚く上皇の御幸(ぎょうこう)は108度に及んだといわれ、また数多く天皇の遺物、宸筆を蔵している。 なお江戸後期の小沢蘆庵(おざわろあん)をはじめ多くの文学者の稿本など近世文学の資料を蘆庵文庫の名で宮司家が保存していることは名高い。

月真院 (御陵衛士屯所跡)

臨済宗建仁寺派、高台寺塔頭。 亀井豊前守の保護の下に、豊臣秀吉の外戚久林が1616(元和二)年開創。境内には織田信長の子、有楽斎が植えたとされる椿がある。 幕末には、新選組から分離した伊東甲子太郎が、孝明天皇御陵衛士を組織し、屯所を月真院にかまえた。

熊野若王子神社

祭神として、国常立神(くにとこたちのみこと)、伊佐那岐神(いざなぎのみこと)、伊佐那美神(いざなみのみこと)、天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀る。 当社は、永暦元年(1160)後白河法皇が、熊野権を勧請して建立した若王子の鎮守社で、社名は天照大神の別称「若一王子」に因んでこのように名付けられた。 以後、室町幕府及び武家の信仰を集めると共に、花見の名所としても知られ、寛正6年(1465)3月には、足利義政により花見の宴が催された。 その後、応仁の乱により社殿は荒廃したが、豊臣秀吉により再興され、社殿及び境内が整備された。 現在の社殿は、昭和54年(1979)に一社相殿に改築されたもので、以前は、本宮、新宮、那智、若宮の四棟からなっていた。 また、境内には、末社として恵比須神社及び三解社が祀られ、背後の若王子山頂には、同志社英学校(同志社大学の前身)の創立者である新島襄の墓がある。

若宮八幡宮

当社はもと六条醒ヶ井(さめがい)にあり、源頼義(よりよし)(八幡太郎義家の父)が八幡の若宮として祀ったものと伝えられている。 当初は六條(ろくじょう)八幡、左女牛(さめがい)八幡とも呼ばれ、源氏一族や多くの武士からの信仰厚く、室町時代には足利歴代将軍の崇敬を集め隆盛を極めた。 しかし、応仁の乱により社殿は荒廃し、以後社地も転々とし、慶長10年(1605)この地に移った。 現在の社殿は承応3年(1654)に再建されたもので、本殿には仲哀(ちゅうあい)天皇、応神(おうじん)天皇及び神功(じんぐう)皇后を祀り、相殿(あいどの)には仲恭(ちゅうきょう)天皇を祀っている。 毎年8月7日から10日までの間には若宮祭とその協賛行事として陶器祭が行われる。 陶器祭は後に合祀された陶祖椎根津彦命(しいねつねひこのみこと)の祭礼で、氏子の陶磁器業者が中心となり、五条坂一帯で盛大な陶器市が開かれる。

恵美須神社

鎌倉期、栄西禅師が建仁寺建立にあたってその鎮守として創建。七福神の一つ‘ゑびす神’(八代言代主大神)を祀る。 商売繁盛、家運隆盛で大衆の信仰を集めている。 1月8日~12日の‘十日ゑびす(初ゑびす)大祭’は参詣者で大にぎわいとなる。 又、旅行安全でも知られている。

辰巳大明神

辰巳大明神(たつみだいみょうじん)、祇園辰巳神社あるいは辰巳稲荷。祭神は辰巳大明神。由緒は不明。 京都御所の辰巳の方角を守る神社であった。 伎芸上達のご利益があり花街の芸舞妓から崇敬される。祇園白川の一角にあり桜の季節は賑わう。

美御前社

美御前という名の通り、美を象徴する神として祭られています。本社の祭神、素戔鳴尊が天照大神(あまてらすおおかみ)と誓約(うけい)をされたとき、素戔鳴尊のもっておられた十挙剣を振りすすいで生れた三柱の女神で、宗像三女神といい、清浄・潔白の証しとなった神々で、俗に弁天さんといわれるのもこの市杵島姫の神です。古くから祇園の芸妓さんをはじめ美しくなりたい願望の女性はもとより、美容理容・化粧品業者の崇敬を集めています。 人の美を現すものには、目に見える容姿をはじめ、言葉や立ち居振る舞いなど、様々なものがあります。これら美徳の根元は、清く美しい心にあるといえます。美御前社は特に美徳成就の祈願をするおやしろです。美の神の御神徳をお受け頂き、常に心身の清浄に心掛け、道の開運を祈願して下さい。

京都霊山護國神社

幕末の動乱期に活躍した維新の志士たちを奉祀すべく、明治元年に「霊山官祭招魂社」として全国で初めて創立された。 昭和14年京都霊山護国神社と改称。境内には坂本龍馬、中岡慎太郎、桂小五郎を始めとする墓石、慰霊碑の他、従軍記念公園「昭和の杜」がある。 近接の霊山歴史館では明治維新関連の資料文献を展示公開している。 ◆由緒 当神社は、幕末維新に殉じた志士と第二次世界大戦にいたる京都府出身の英霊7万3千3柱を奉祀する。幕末、各藩が東山三十六峰の中心であるここ霊山にそれぞれ殉難者を祀ったのが当神社の起源で明治元年五月、太政官布告をもって我国初の官祭招魂社とすべきことがきめられた。この布告により各藩は社殿を建設し、同年七月には盛大な祭典が挙行された。ついで明治10年には皇室より巨費が下賜せられて神域が整備され、全国招魂社のうち最も崇敬をあつめた。さらに昭和4年6月には今上陛下御即位大礼の建物を下賜せられ、現社殿を整備し、昭和14年に護国神社を改称して現在に及んでいる。 霊山神域内には、坂本龍馬・中岡慎太郎・木戸孝允・平野国臣・宮部鼎蔵(みやべていぞう)をはじめ蛤御門の変・天誅組の義挙等に加わった志士の墓三百余基があり、1356柱が合祀されてあり、この地は明治維新をしのぶ大霊域・史跡である。

豊国神社

豊臣秀吉は没後、東山阿弥陀ヶ峰に葬られ、壮麗な豊国社に祀られたが大坂夏の陣後、徳川家康の手で取壊された。 現在の社殿は1880年(明治13)に再建のもの。 唐門(国宝)は伏見城の遺構で桃山期の逸品。 境内の宝物館には秀吉遺品を納めた唐櫃(重文)も。 宝物館拝観有料。 9月18日は「例祭」で、旧暦8月18日が祭神・豊臣秀吉の命日に当たる。 翌9月19日、茶道・藪内流家元による献茶式がある。 ◆由緒 豊臣秀吉を祀り、一般に「ホウコクさん」の名で人々に親しまれている。  慶長3年(1598)に63歳で亡くなった秀吉の遺体は、遺命により東山の阿弥陀ヶ峯の中腹に葬られ、その麓(現在の豊国廟太閤坦)には、広壮豪奢な廟社が造営された。後陽成天皇より正一位の神階と豊国大明神の神号を賜り、慶長9年(1604)8月の秀吉の七回忌には特に盛大な臨時祭礼が行われた。そのときの様子は豊国臨時祭礼図屏風(重要文化財)に詳しく描かれている。 豊臣氏の滅亡後、その廟社は徳川幕府により廃祀されたが、明治13年(1880)、旧方広寺大仏殿跡にあたる当地に社殿が再建され、別格官幣社として復興された。また、明治31年(1898)には、荒廃していた廟墓も、阿弥陀ヶ峯の頂上に再建された。  正面の唐門(国宝)は伏見城の遺構と伝え、二条城から南禅寺の金地院を経て、ここに移築されたもので、西本願寺、大徳寺の唐門とともに国宝三唐門の一つとされている。また、その両脇の石灯籠は、秀吉恩顧の大名が寄進したものである。